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日本の教育ー変わるのか変わらないのか?

2020年度小学校から順次変わる予定の学習指導要領の策定に関連して、昨年来、日本の教育が変わるのか変わらないのかが関心を呼んでいる。それを象徴するのが、次期指導要領の指針を立てるに当たって中教審へ出された文部科学大臣諮問文の「アクティブ・ラーニング」をめぐる議論だろう。

今回の日本の教育の変化について、中には、明治初期に近代学校制度が打ち立てられて以来の大改革だという人さえいる。

中身抜きに事を大袈裟に言うこういう議論にはまったく与しないが、たしかにいま日本の教育が大きな変わり目にあることは間違いないだろう。

これから日本の教育は変わるのか変わらないのか、変わるとしたら、何がどのように変わるべきなのかについて、長年教育政策と実践の一端に関わってきた者として、順次書き進めていきたい。

ついては、事柄を検討する筆者の基本的な視点をあらかじめ述べておきたい。

1)「今度は総合学習だ、アクティブ・ラーニングだ」といった次々と時の政策の変化を追いかけそれをいろいろに解釈するような立場は取らない。一国の教育政策とか方針というものは、教育の現場と実際に重い意味を持っている。「流行」のあれこれをとらえて我田引水のような議論をする向きもあるが、そうしたものは、現場の実際としばしば乖離する。一部の教育現場に精通した実践家や教育研究者がここぞとばかりそうした流れに棹さしているのを見るのは嘆かわしいことだ。で、まずは、教育の実際に厳格に責任を持つはずの政策の中身を正確にとらえることをベースとすることにしたい。また、教育の現場で子どもを前に日夜苦労している教師たち、そして家庭や地域で教育に関心を持つ方々を第一に念頭において書き進めたいと思う。

2)といってそれは、表現されている公式の政策文書をそのまま鵜呑みにするものではない。政策としての限界を超えて、それを支える原理・原則から政策の内容のあれこれを吟味し、時に必要な疑問や根本的な問題を提起することは当然であろう。とくに、物事の大きな変化については、その根本からの検討つまりは哲学的な吟味が必要だと思う。そうして視点から、検討に際して以下の3点を軸に議論を進めたい。

(1)次期指導要領の検討の中で提起されつつある教育の内容・方法に関する論点。

(2)教育は授業や生徒指導等の内容・方法にとどまらない。現代では大きな一つの社会制度でもある。制度の変化なしにその内容の変化はありえない。いま想定される日本の教育の変化が、どういう制度的な変化や改革と関わるのか。

(3)かつ教育の制度は、たんに社会の他領域から切り離された「閉じた空間」ではありえない。学校教育だけで理想的な世界が成り立っても、それが矛盾だらけの実社会との関係でどういう意味と機能を持つのかを見るところまで論を進めなければならない。学校や教育はただ既存社会に適合すべきものなのか、あるいは教育こそが社会を変える力になりうるものなのか。

3)物事を根本から考えようとするとき、欠かせないのは「歴史的思考」だと思う。現代性やアクチュアリティー、改革が問われるときにはとくにそういえる。例えば、これから求められる教育の変化は、明治以来の近代教育や学校をどこまでどう変えようとするのかの視点抜きには皮相的といわざるをえないだろう。それも、いまは「ポスト産業社会」だとか、いまや「教え込み」を主とした近代教育の基本が通用しなくなっているなど安直に自論を根拠づけるのとは異なった意味で。そこで、いまとこれからの日本の教育を見据える作業とつなげて、日本の近代の教育とくにその思想について随時振り返ることにしたい。

もともと教育学が専門ではなく、どこまで十分に展開できるか覚束ないが、思いのままに書き続けていこうと思う。
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札幌大通高校を訪ねて

札幌市立大通高校は、札幌市内の定時制3高校を統合して大通公園11丁目付近の利便地に8年前に設置されました。

その構想を立てる審議会の座長を10数年ほど前にやり、何度か訪ねていますが、ゆっくり授業を見たことがなく、今回初めての授業参観でした。これも待っていてこうなったのではなく、自分からぜひと頼み込みました。ちょうど、この審議会の委員だったお二人が校長と副校長さん。どうぞどうぞということで安心して訪ねました。

ふつうの授業だと面倒をかけるかも、と思い、ちょうど予定されていた今井紀明さんが代表の教育支援NPO(D×Pという団体名)の特別授業に参加しました。

3年生が対象で、午前午後夜間の3部それぞれ40人くらいずつの参加のようです。今月来月と3回のプログラムです。このNPOは大阪が本拠地ですが、代表の今井さんは札幌出身で、その関係で去年から頼んでいるとのこと。大阪から今井さんなど3人が来札し、あらかじめ札幌在住の社会人ボランティアを募集し、そのメンバー(色とりどりでした)7,8人がファシリテーター(コンポーザー)として加わりました。本当は、ぼくもそのボランティアに応募しようかと思ったのですが、年齢制限が39歳で断念、5,6歳の違いならこっそりもぐり込めたでしょうが、さすがこの差では。と、今井さんに愚痴を言っておきましたが(笑)。

授業内容は、社会とのつながりを、人生のちょっと先輩が加わってグループで共に考えるといったもので、第一回目の今日は、「失敗なんてあたりまえ」のタイトルで、いろんな失敗の経験を語り合うということでした。

NPOで広く活動を重ねている蓄積でしょうか、今井さんのリードの仕方、そして5,6人ずつ分けたグループ討論のやり方は、さすがよく練られたものでした。形式張ったところが一つもなく、生徒たちの気持ちをよく汲んで進めます。不登校だった生徒が約半数という実態とその生徒達の心の葛藤などをよく踏まえているからでしょう。生徒達も最初少し固い表情でしたが、すぐこなれ、グループでの語り合いに真剣な表情です。段々生徒達の表情は素晴らしいものになりました。

大通高校の先生も、校長副校長以外に5,6人参観していましたが、ついその先生に、「生徒たち、すごく自然で真剣ないい顔をしていますね。ふつうの授業でこういう表情になりますか」と嫌みったらしい話かけをしてしまいました。こういうteasingまがいの発言は、ときに出る悪いクセです。最近は「いじり」と先生方も言うそうですが、これは良くないことだと自省を込めて強く思います。教師たる者、子どもをからかったりいじったりしてはなりませんね。表面での笑いの影で、ひょっとすると内面に重い膿が沈殿するかもしれません。

大通高校は、スタート当初から学校外との垣根を取っ払うことを基本方針にしていました。若者総合支援センターなど学校外のいろんな方々にどんどん学校に入り込んでもらっています。

「社会に近い」開かれた高校というのがこの高校の「校是」なのです。しかも口先でなく本音で。

学校に行きづらかった子も、心身に不調や障害がある子も、年がかなり上だけどあらためて高校で勉強したい人も(60歳の方が入学したこともあります)、外国人で日本語が十分でない子も、誰にも門戸を開き、かつその教育内容は、つねに「社会に近い」ところに置いています。

校長副校長先生は、何かに特殊化せず(例えば京都市でやっている公立の不登校生のための学校など)こういう幅広い受け入れを方針にしたのは正解だったと述懐していましが、その通りでしょう。

指導要領上必須の国語、数学等の科目以外に、100を超える多様な「学校設定科目」があり(生活国語、サイエンス実験入門、生活に生きる書、よくわかる商業と経済、アニメーション技術、さっぽろ探究など実に多彩)、生徒は大学と同じように単位ごとに自分が好きな科目を履修します。

こうした仕組みのなかで生徒たちは伸び伸びと高校生活を送るようで、この高校には細かな校則はなく、「「よき社会人としての振る舞いと同じように」というのが原則」だとしています。校舎内にも、「静かに」とか「走るな」とかの掲示物は皆無です。校長副校長さんの話では、最近はこれで十分ルールは守られていて、深刻な問題行動はほとんどないとのことです。生徒たちの多様さが本当に大事にされ、学校にそれぞれ「居場所」を見つけているのでしょう。ぼくは元来、「多様性」とか「個性化」などの安易な強調には批判的なのですが、ここで行われている個々の生徒に即したていねいな教育の在り方には、実質的意義があると思います。

今回の訪問で知り驚きましたが、基礎学力の形成にもきちんと目を向け、去年から小中の学習の復習授業も学校設定科目としてやっているとのことでした。希望生徒はたくさんいるそうです。その場合、ドリルを一人ひとりの学力に応じてどんどんやらせているとのこと。こういう積み重ねがなければ、いくら教科の授業を工夫してもまともな学習にはならないということだそうです。その通りでしょう。

この他、個々に進路などの悩みや相談は無数にあり、スクールカウンセラー3人では対応しきれず、教育大学生などのボランティアでの応援を頼みたいところだとのことでした。

校長さんが会話の途中に淡々と話していましたが、今年初めて北大に3人が合格したとのこと。そういうことが学校の目標ではないが、教育の結果として好ましい結果が出始めていると見ていいでしょうね。

おそらくこの高校は全国でも希有な、北海道として誇るべき高校教育を実らせつつあると言えるとあらためて確信しました。問題は、いわゆる進学校や名門校が、改革が進まず、旧態依然の教育に止まっている場合が多いことですが。

今年開校した開成中等教育学校と併せて、札幌市は見事な中等教育のモデルを生み出していると言えるかもしれません。大通高校と開成中等教育学校は、これからの教育のいわば車の両輪みたいなものですね、と最後にエールを送ってきました。

ちょっぴりとはいえ、その両方の設置構想に関わった者として、格別の喜びを感じつつ学校をあとにし、しばし素晴らしい初秋の大通公園を散策しました。

 (2015年10月19日)

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地べたを歩む不登校生等への学習支援ー「ねっこぼっこの家」

5日夕方、札幌の地域多世代子育てグループ「ねっこぼっこの家」による不登校生などの学習支援活動に参加してきました。

学校に行きづらい子や一人親で学習が思うに任せない子など中高生2〜30人が自由に集まり、大学生が1対1で勉強の面倒をみたり、地域の主婦らが夕食を作り一緒に食事をしたりします。

この会は、8年ほど前、地域で多世代で子育てを支え合おうと始まったそうです。赤ちゃんからお年寄りまで集まり、週2,3回一緒に子育てを楽しみ交流する。この活動の延長として、数年前から、不登校やひとり親の中高生のための学習支援として始ったのです。生徒は無料、学生もお母さん方もほぼ無償ボランティア。

この会の特長は、単に大学生による学習支援ではなく、そこに地域の多様な人達が入り込み、楽しくいろんな交流をしながら続けていることです。訪ねた時の夕食は、元シェフのお年寄りによる手作りカレー。赤ちゃん連れの主婦もいてわいわいと賑やか。中には知的障害のある青年も手伝いで参加しています。

会場は教会とその付属幼稚園敷地内の一軒家。元々牧師さんの住宅だったのを格安で借り切っているといいます。子育ても学習支援も、子どもはまったく無料。参加もいつでも誰でもオーケー。会の中心メンバーは、自ら子育てで苦労したお母さん方などさまざま。札幌市の子育て支援の資金を若干得て、何とか自前で運営しているそうです。

不登校生への学習支援は、教室に入れない子達への別室と相談支援パートナー配置という、札幌市が3年前に始めた事業と前後して、近隣の中学校と連携のもとに始められました。学校とは常時子どもの様子などについて連絡を取り合っています。

勉強と食事が終わって、みんなが床に思いのままに座ってミーティング。この日は、小学校で何年も不登校だった女子が自分について語りみんながそれについて考え話し合う会。リードは、近くに住み、学校で困難を抱えた子の支援を長くやっているベテランの公立高校教師。

彼は、ベテルの家の当事者研究の手法に熟達しています。何と彼、奥さんとおばあちゃん、そして1〜2歳の二人の赤ちゃん連れで、赤ちゃんはのびのびとみんなの間を動き回っていました。

今晩の主役の女子がゆっくり話し始めました。普段は何ともないけれど、一人になると「お母さんが階段を踏み外し大怪我する」とか次々と不安なことが頭に浮かんで何も手が付けられなくなると言う。みんな姿勢は様々だけれどじーっと聞いています。そしてリード役の先生の促しで、周りの人達がいろいろに話し出しました。

ここでは、「なぜそんな不安に駆られるの」とか「こうすべきでないの」とかの話は一切なし。まさに女子の話をそのままに受け止め、一緒に考える。誰かが誰かを指導するとか支援するとか助けるとかの関係ではありません。みんな自分に置き換えて一緒に考える。

しばらく経って、一人の主婦が自分の経験を語り、ちょっとしたヒントになる話をし、本人も「ああ、そういうこともあるか」と頷きました。コーディネーターもそれをうまく取り上げました。小一時間、何とも気持ちのいい対話の時間でした。

きっと彼女は、この集まりに来て自分のことを語り、何かちょっと感ずるものをえて、明日からまた元気に過ごそうと思いながら帰路についたことでしょう。

会に初めて参加して、学校に行きづらいなど難しさを抱えた子達に本当に寄り添い、相手を認め合い、ともに考え合うということがどういうことかをまざまざと感じ取った思いでした。

ねっこぼっこの家のあの自由そのもので、とことん相手を認め合う雰囲気について深く考えさせられました。ここには凡百の教育論を突き抜けた教育の真実がある、と。単なる決まり文句のような多様な教育とか違いを認め合う教育といった言葉を超えたリアルさがそこにはありました。

一方公教育は、こういう学校の外の地域の場での無償の「教育」をどう受け止めるのでしょうか。教科書もない時間も決まっていない、話し合うときの姿勢もなっていないようなものは教育でないと言うのでしょうか。そうではないでしょう。少なくともそこに間違いなくある、人の育ちの事実を認め理解しなければならないのではないでしょうか。

それにしても、身近に、こんなにもパワフルでエネルギーのある女性達がいることは驚きです。ほとんどボランティアで。かつ彼女らの賢さ。肩肘張るわけでも自分たちの活動を誇るのでもない。会の代表の女性は、いろんな人が自由に集まり楽しいことをやるんだから続けられると言っていました。

まさに「ねっこぼっこの家」です。新たな教育エリート達が試みるニュールックの教育事業などとはまったく無縁な世界です。外国由来のオールタナティブの受け売りもまったくない。この10数年、日本社会にもじっくりと育ちつつある地に足の付いた教育へのリベラルな発想と活動が、ここに間違いなくあるように感じました。

ようやく法制化されようとしている「多様な教育機会法案」は、こういう地べたを歩くアクティブで賢い女性達やそこに集う子とも達にまで届くものに果たしてなるのでしょうか・・・。

2015年6月7日

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アクティブラーニングと次期学習指導要領の方向性について

[ 以下の文章は今年1月に書いた短文で、この後、安彦忠彦氏や石井英真氏の論稿などを含めて検討したものを書く予定でしたが、他の仕事が多忙でまとめのための時間が取れないので、とりあえずこの問題群に関する導入部分として掲載します。]

次期指導要領の検討を中教審に諮問した昨年末の諮問文に「アクティブ・ラーニング」なる用語が数カ所に用いられ、にわかに話題を呼んでいます。

もともと数年前に、伝統的な講義に終始し、学生が主体的に学ぶ力を育てていない大学教育の現状に対して、アメリカの一部の大学で行われた授業法のネーミングでした。これが、小〜大学までの授業法として次期指導要領の重要なキーワードのように提起されたわけです。

早くも少なからぬ学校で、校長がアクティブラーニングについて課題にしなければと力説し始め、学校の研究課題にするところも出ているようです。また、われこそはアクティブラーニングの本流だみたいな自己宣伝をする人も出ているようです。

中身の吟味なしのこういう安易な追従は困ったものです。そもそも、今回諮問文で出ているアクティブラーニングとは極めて広い概念であり、必ずしも明確に定義されたものではありません。

今回の諮問は、文科省内で、1年以上にわたり教育学者を中心に精力的な検討をした結果として行われています(座長安彦忠彦氏、他に無藤隆氏、市川伸一氏等)。そのまとめは、去年3月末に、長大な「論点整理」としてまとめられています(必ずしも「論点整理」になっていなく諸意見の紹介の面も強いのですが。なおこれにはアクティブラーニングとの語は使われていません)。

この論点整理を全体として見ると、今回の提起が、従来の指導要領の個々の教科の内容の列挙の弱点に代わって、育てるべき子どもの資質能力のトータルな視点からどのように学ぶのかの視点を柱に据えるという大きな枠組の中で行われていることを見逃してはなりません。

「何を教えるか」だけでなく、「どのように学ぶか」の視点です。(淺読みの人は、これを「これからは何を教えるかでなくどのように学ぶかだ」と歪めてしまいます。何を教えるか抜きにどう教えるかはあり得ないのは、教育論では決して忘れてならないじことです。)

実際にこれをきちんと次期指導要領に盛り込むことは容易でないと思いますが、私見では、容易ならない課題にしても、キリなく増大する、各教科ごとの教えるべき内容の提示ではもう限界であり、それとセットに学習・教授法について提起するということには重要な意義があります。

しかもその場合の学習・指導方法は、単なるスキルでなく、子どもの学びの実際に即した基本的一般的授業法でしょう。

今後、1年ほどで中教審の部会等で次期指導要領の指針がまとめられ、その後教科書作成、さらに各学校での先行試行が行われます。

これまでにない大きな変更が予想されるなか、各学校と先生方は、早めにその動向について自前の検討をする必要があると思います。

少なくとも、諮問文全文、検討会の論点整理、国立教育政策研究所の案(21世紀型能力論など)について、テキストに即した検討が不可欠です。

関連し、検討会の座長を務めた教育学者の安彦忠彦さんが、この論点整理と今後の教育方向について、かなり突っ込んだ見解を近著『コンピテンシーベースを超える授業づくり』(図書文化社、2014年12月)で展開しています。これもぜひとも参照し、広く教育界で議論が進むことを期待しています。実践者も研究者も。

実践知重視だからといって、こうした大きな枠組の政策論を回避してはならないでしょう。教育論で議論や論争を避けるのは良くないと思っています。実践をやっていくなかで理論の相克を乗り越えられるというものではありません。理論は理論としての吟味が不可欠です。

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教員採用の国家試験化・国家免許化について

報道によれば、5月14日の教育再生実行会議で、教員採用選考の際「筆記試験を国の組織が」(NHK)、「国と地方の共同実施で」(朝日)とかを提言とのことです。先日の与党実行本部の「国家免許化」とは大きく異なる内容になっており、今後の議論が注目されますが、制度的に見れば「国家試験化」も「国家免許化」も重大な難問を含んでいて、慎重な検討が不可欠です。

先日の与党実行本部案について、教員免許を「国家資格」とか「国家免許」にすることで教師が社会の中で評価されるようにするためとの説明が報道されていましたが、国家資格とか免許は、宅地建物取引士とか栄養士とか保育士とか沢山あって、どれもが医師のような高い社会的評価をもっている訳ではありません。そもそも、国家資格・国家免許にすれば教師への信頼が高まるなどという単純な発想に乗っかることは眼を曇らされます。

国家資格とか免許はどういうものかの説明抜きに、医師免許と同様に、などと発表者側の強調点をそのままに報道する姿勢には疑問を感じます。

医師のように質の高い国家試験をやり国家免許にすれば、と言いますが、そもそも医師と義務教育教員の採用のあり方が根本から違うことをまずは見るべきでしょう。義務教育学校は、国民の教育を受ける権利に基づいて設置者である都道府県等が担い手の教員を適切に採用配置する厳しい義務を負っています。これは、一見同じようですが、地方の病院を含めて全国的に医師を適正に配置する努力義務とは根本的に異なります。

例えば国家試験・免許になり全国的に相当数免許取得者を確保したとしても、採用時に都道府県毎の志願者に大きな差が生じ、特定の県で教員を定数通り確保できないといった事態が起こったらどうするのでしょうか?これは十分にありうる予測です。

受験者の志望県ごとに合格点に差を付けるなんてことはありえません。国家試験の意味は、全国的に試験上での質を共通化するのが目的なのですから。都市部志向の教師志望者が国家試験合格者の多数を占めた時、合格者の配置を国が割り振るなどもまったくありえないことです。

(医師の場合も、医局制度廃止からこうした配置の不均衡、地方医師の大きな不足が生じていて社会問題になっていますが、医師の高度の質維持の必要が不均衡実態を凌駕していて、辛うじて厚労省や地方自治体が種々の部分的な緩和策ー奨学金に伴った一定期間の就職義務や地方勤務の好待遇化などーをとっていると言えます。)

もちろんこうした難問を潜り抜ける策もいろいろありうるでしょう。国家資格の職種もこの点で実際のあり方は多様です(例えば保育士は国家資格ですが、採用試験は都道府県実施など)。しかし義務教育学校という国の根幹的な業務については、まずは確実な教員の確保が先決で、安易に医師のようになどとは到底言えないのです。

おそらくこうした制度上の難問を考慮してでしょう、実行会議は「国家免許化」は言わず、試験の共同化を提言し、かつ具体化は中教審でとしているようですが、これについても、簡単に「ああ、国が関与した方がいい試験になり、結果的に教員の質が上がりますね」などとは言えないと思います。

まずは、全国で多様に行われている各都道府県の採用筆記試験にどんな問題があり、どう改善する必要があるか、などひとことも触れていないようなのは理解に苦しみます。もちろん全国の筆記試験をよく承知しているわけではありませんが、北海道についていえば、試験問題はそうおかしなものでありません。

それと、教員の質といっても、筆記試験は要するにペーパーテストであって、それ自体でどこまで質を上げられるか簡単に言えることではない点に注意が必要です。

医師についていえば、医師試験は3日間、論述を含む膨大な問題を出し、受験者は9千人程度だそうです。対して小中高の教員の場合その何倍かの受験生がいて、結局マークシート式がメインになり、3日間もできるでしょうか。

いずれにせよ、国家試験化や国家免許化について政治的意図などは別にして、何でも国がやるといった政策動向としてはアナクロ二ズムだと言わざるをえないと思います。教員の質の確保・向上は大きな国民的課題なことは間違いありませんが、その地域ごとの状況に合わせた量と質の両方を確実にアップしうる実効性のある改革案こそが求められると確信していますし、そのための具体策は英知と財政的裏付けがあれば十分可能だと考えています。

なお、国家試験化・免許化と「インターン制」とは別なものですが、国家免許化だけでは教員の質の向上にならない(医師も学部卒後の国家試験のあと2年間研修医が義務です)という点では、両者セットでなければ意味がないでしょう。

しかしインターン制はこれまた難問です。定数外に大量のインターンをかかえ、それを有給にしなければ教職は実にバカげた職種になってしまいます。医師の場合、国が一部補助していますが、多くは各病院で大幅に上積みして研修医給与を出しているようです。そんなことを都道府県でできるでしょうか。

かつ、どの学校に配置し、誰がどうインターンを指導するのでしょうか。よほどしっかりした学校でなければ実質的に資質向上にならないでしょう。最近の大量退職大量採用で各学校の教員構成がいびつになり、少子化で学校が小規模化しているなかで、果たして有意義な研修をできる学校がどれだけあるか。それだけでなく、そもそも教育員会と各学校現場だけで十分に現代の課題に応えられる資質向上が可能なのかどうか。

(今回の国家免許≒インターン制案は、ドイツの国家試験とインターン制に近いのですが、ドイツでも近年、地方行政機関が主となる研修では現代的課題に応えづらいとして改革されつつあるようです。)

また法的には、インターンも何らかの採用(雇用)行為が必要ですが、その場合、インターン終了後不適格だと解雇するなどありえなく、事実上そのまま正式採用になる可能性が高いと言えます。いまも試用期間があるのですが、期間終了後不適格だからと任用しないというのは法律上極めて難しいと言われています。

以上、教員免許の国家試験化・国家免許化についてその難点を縷々述べましたが、政策立案のありかたとして、なぜいまこのようなものが打ち出されてきたのかについて、疑問をもたざるをえません。これを直ちに教師への国家統制が狙いだなどと糾弾したりする気はありませんし、実行本部の案を原文で読むと、それなりに教師への信頼回復とか格上げによる社会的地位の向上の狙いもあるようです。

しかし、責任ある政策としては、あまりにも現実無視です。とくに義務教育が我が国では、学校の設置、教員の任用、研修など基本的に都道府県が行うという制度的仕組みを度外視して論を立てるのには疑問を投げかけざるをえません。それに、最近の教育政策が、ともすれば「ローorノーコスト、ハイパフォーマンス」の傾きがあることに強い懸念をもちます。財源的な裏付けなしに、制度的に無理な改革を謳うだけでは、多くの現場教師はますます展望と元気を失います。

翻って、より現実的で有効な方向は教員の資質に関しても大いにあり、そのためにすでに全国各地でいろいろな実践や試みが行われていることにもっと眼を向けるべきと考えます。政治や政策が行うべきは、そうした実際現場の意欲的な試みに、マクロ的な視野と実際的な支援を差し向けることではないでしょうか。

学校現場を不必要に揺さぶり、萎縮混乱させ、ひいては元気と活力をなくさせるような政策は、ほどほどにしてほしいものです。

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教師力アップの現実的な展望

<学校に勤務しながら大学院で学ぶ>

5月22日の読売新聞教職大学院連載の(2)で、福井大教職大学院が紹介されています。

現職の先生方が学校で仕事をしながら、学校を大学院教育の場として学ぶというたいへんユニークで有意義な大学院です。大学の教員がしょっちゅう現職院生がいる学校に出かけて、院生の学校での仕事に即して討論し合います。

校長先生の、「学校の中核を担う教員が現場を離れずに済むので助かる。学び続ける姿勢は他の教員にも刺激になる」という記事中の発言は、まさにその通りと言えます。

かつ、授業料は県教委市教委が半分程度負担し、大学の減免もあって、事実上現職院生の負担はありません。こういう大学院なら、どこでも非常にスムースに現職教員の力量アップが可能になります。

福井大ではこれを「学校拠点方式」と言っていて、今後の教職高度化の有力な方向だと思っています。教職大学院は、来年一気に拡がりますが、その中で福井方式を採り入れるところも出てくるようです。

これに対して、大学関係者は、よく、「ちゃんとした講義が行われなく大学院の教育として疑問」と言いますが、大学の教育を、教室の中で高度な理論を教授するもの、と思い込む伝統的な固定観念に拘った見解だと思います。かつ学部ではなく、高度専門職に関する大学院教育ということを見過ごした見解です。

(1)学校の仕事に即してといっても、それぞれの院生は、自分の研究テーマを大学のスタッフと話し合いながらきちんと立て、これを2年間、実践的に検証し、かつ何度もいろんな場で発表し、最終的に大部の実践研究報告書にまとめます。もちろんその過程で、種々の文献をマスターしなければならないのは当然です。

(2)福井大のこの方式は、中心になっている教育学者が何年にもわたって、ドナルド・ショーンなどの高度専門職としての教師の資質向上の理論を検討し、教育委員会と緊密な話し合いを通して実行し始めたもので、単なる職業訓練的なものとはまったく異なります。

似た方式は、80年代アメリカの一部で始まったPDS(professional Development on School)や、それを継承したイギリスの地区学校での免許取得方式などありますが、いずれも、大学がきちんと関わっていなく、新しい学習指導法などの取組が弱いという弱点が指摘されています(国家免許のドイツのインターン制も同様です)。

(3)教員養成やその高度化・修士レベル化で「実践重視」は大事なのですが、単なる職業訓練的なものに堕さないためには、大学がきちんと関わることが極めて重要なのです。かつ、いつも指摘していることですが、欧米の教員養成では、とくに小学校教員養成では、大学レベルの養成が伝統的に不十分で、その点、日本は戦後いち早く「大学における養成原則」が立てられ、これにより日本の教師の高い質がつくられてきたのです。

大学が関与することの意味は、その「探求的」姿勢の堅持にあります。授業や生徒指導等の学校での実践について、ただあれこれ技術的に腕を磨くだけでなく、自らの実践を「反省的に」振り返り、これを知的探求の課題にし、自立した理論的実践的に高い力量をもつ教師になることをめざすのです。

こうした点から見ると、日本で盛んな民間の各種の研修講座は、それなりに有益ですが、単に個人レベルの個別的な技能の習得に終わりかねない点で、大学主導のシステムに到底置き換えられうるものではありません。

(4)福井では、教職大学院を中心に、長期的な計画のもと、一定期間に県内のすべての小中教師を何らかの形でこうした修士レベルの教育を受けられるようにすることまで検討しています。これは素晴らしい構想です。

何度か福井県教委の方と懇談もしましたが、こうした方向で、大学とがっちりタッグを組んで教師力を上げようとの固い信念が窺えました(教育行政の人達の中にはまだまだ大学不信の強い方が少なくないのですが)。

国家免許化とか国家試験とかいろいろ言われ始めていますが、もともと無理なそうした「改革」の検討に時間を費やすより、いまやる気になればすぐできること、例えばこうした福井方式の教職の高度化を全国で大々的にやるのを国がしっかり応援する方が、よほどリアリティーがあると思っています。

学部新卒教員については、また別な課題がありますが、これも、和歌山県が去年から始めた、大学の全面協力のもとの1年間の研修制度などを広げれば十分有意義であり、国の財政支援があれば、教職大学院が全県設置になる来年度以降現実的に可能です。免許法などは、こうした現実策のもと、必要な改正を思い切ってやればいいのです。

前にも書きましたが、まさに、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」です。あれこれ非現実的な施策に拘っている暇はありません。学校現場での教師の疲弊の解消と力量アップは待ったなしです。

あと数年後来る採用減の時期に向けて、大胆かつ現実的な資質向上策に踏み切るべき時期でしょう。

http://www.yomiuri.co.jp/ky…/renai/20150515-OYT8T50008.html…
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大学入試改革ーとりあえずひと言

中教審の大学入試改革が議論を賑わしているが、とりあえずの感想を。

まずは、中教審答申として一応まとまったが、先の見通しは不透明で、やや及び腰に見える文科省の今後の制度具体化も、かなり難航するだろうと思う。

答申の制度設計には大きな弱点が残っているのは確か。2つの違った試験はどう見ても中途半端だし高校にも高校生にも過重。入試の学力レベルの大きな差を考慮したものだろうが、基礎学力テストが必須にならない状態では、AO入試などでの学力軽視入学の実態は変わらないだろう。そもそも、規制緩和で大学設置の門を開いたままで、国に権限のない入試で大学の低学力化を防ごうというのには無理がある。

もう一つの制度上の問題は、学力評価テスト(ネーミングも長たらしくよくない)を新しい形で意欲的に提案しているが、これとの関係で各大学の個別試験を構想通りに実現するのはどうみても至難であること。そもそも、文科省にも国大協にも各大学の入試について命令する権限はない。

答申まとめの中教審総会で、個別入試で構想通りやらない大学には予算削減など厳しく当たれとの経済界からの発言があったというが、予算誘導には限界がある。とくに難関大学が新テストだけでは選別できないとして難問の入試を続けると、いまの受験体制は大きくは変わらない。予算誘導により、総合的評価、人物評価として部活やボランティア活動などを合否判定の一部で使うことはありうるにしても。

難関大学も新テストの内容を吟味して考えるだろうが、いくら合科型とか記述重視といっても、膨大な答案はコンピューター処理にせざるをえなく、これまでの知識学力によるランク付けは大きくは変わらないし、難関大学が望む高学力、高主体性の受験生の選り分けに有用なものにならないだろう。

基本制度に限って以上の欠陥をふまえれば、合科型、一点刻みの廃止などの答申の個々のの提案を生かしつつ、再度新テストの一本化を検討すべきでないか。制度はシンプルな方がいい。複雑な新テストに膨大な金をかけるのも無駄だし、高校教育に余計な混乱や負担をかける必要はない。

新テストは記述を一定重視した一本のテストにし、その大学での利用については欧米でやられているように、段階評価にし(これは義務付け必要)、複数回実施をやるといいと思う。ただそれにしてもこれにより学力差に基づく大学のランクがなくなるなどありえないだろう。

各大学はその新テストを「足切り」に使い、おおまかな学力確保を維持する。あと、個別入試については、あれこれ言っても強制力も膨大な必要予算措置などできないんだから、大学に任せる。むしろ定員の一部を推薦入試だとかAOなどと細分化し受験生に分かりづらくなっているのを是正することが必要だ。東大などでごく少人数の定員で推薦入試をやってどういう意味があるだろうか。

以前ロンドン大学で入試の様子をつぶさに見たことがある。全国共通テスト(民間実施だったか)によりAとかBとかBプラスとかに区分し、各大学は〜ランク以上を明示する。そのあとが大変。アメリカと違い、ほぼ一年中各大学のプロフェッサーが研究室で面接する。一人に1時間くらいかけて。必要な場合は何度か同じ受験生に面接することもあると言っていた。 

イギリスは教授が少なく、ロンドン大では面接はプロフェッサーだけがやっていた。かつかなり主観的評価だが、入学定員などもイギリスらしくいい加減で、そう公平性にクレームはないようだった。一応面接のチェックシートがあって、それはそれなりに良くできたものだったが。

アメリカは専門の入試担当教員が大量にいて、これも年から年中面接をしているようだ。かつ名門大学では世界各地の同窓会がけっこうな力を持っているという。

こういう個別入試体制は日本で本当に可能なのか。

おそらく無理だろう。だとしたら大学ごとに任せる以外にないのではないか。いまのセンター試験の改善を大胆にやることに集中した方がいいのではないか。

今回の入試改革が、学歴格差や受験競争をなくすために構想されたものとは思わない。英米だって大学格差受験競争は厳然としてある。要するに、グローバル社会でもう少し「主体的に」考えて勝ち抜く高度人材を作りたい、その方向で知識中心の受験目的が主になっている高校教育を変えたいということだろう。これらの構想の周辺には、グローバル時代の「新エリート主義」ともいうべきものがちらほらする。

主導した人達の狙いに賛成するものではないが、受験産業が大手をふるう受験競争の有り様を教育論的に知識優先だけでなく変えようという点では異論はない。むしろ大いに変えるべきだ。とくに高校教育の受験への矮小化の改善は重要課題だと思う。

ささやかな結論は、予算的手立てもないのに大風呂敷を拡げるのでなく、現実的改善になることに集中すべきだということ。そのために新テストを記述重視、段階別評価、複数回実施の方向で現実的に計画すべき。それでもいまのセンター試験の大幅な改善にはなりうる。いまのセンター試験を良しとは多くの人は思っていないだろう。

さらに大学入試改革が、小中高大などの教育改革全体の堅実な推進と併せて行われてはじめて有効性が発揮されるということは当然の前提だ。

蛇足ながら、今回の答申について、偏差値と大学ランキング打破とか人物重視だとかと主体的思考だとかのいわば「ポエティック・フレーズ」にあまり惑わされない方がいいと思う。新聞等のメディアも、知識偏重打破は賛成だが、高校や大学の現場で混乱するようでは困る、ていねいに議論すべきだ、といったありきたりの主張で終わらせていてはオピニオンリーダーとして主体的思考を徹底しているとは言えないと思う。

2014年12月25日

Tag:教育  comment:0 

「愚かすぎる国民」?

東北大震災で見事に新たなボランティアスタイルを作って注目していた中堅研究者が、選挙動向に関して「愚かすぎる国民」というコメントをしていて驚き悲しく感じました。

「自民党圧勝した場合、日本に住むリスク自体考えはじめないといけなくなります。少なくとも、愚かすぎる国民と愚劣極まる政治に失望し、家族を守るために、リスク分散を本気で考えるようになる人は一気に増えると思います。」

いくらなんでも「愚かすぎる国民」はないでしょう。

ぼくも政治の難しさや歯がゆさをいつも感じていますが、そのとき、戦前言論でファッシズムと戦い終戦直後獄死した哲学者戸坂潤の「民衆の角度」という言葉と文章を思い起こします。

民衆と国民は愚かではないという視角は、社会科学研究者の矜恃でなければならないと若いときから考えてきました。そこを外すと、民衆から離れた単なる評論の世界になってしまう。

「愚かすぎる国民」など言う前に、人々の生活と意識の深部にあるものを冷静につかみ取る知力が必要です。習い覚えた価値感を振り回すのでなく、生活と意識に深部に生じつつある新たな価値意識の芽生えにこそ目を向けそこから何かポジティブなものを導き出す。

安倍内閣の危うさは確かに感じますが、個々のあれこれをあげつらうだけでは無力でしょう。

アベノミクス、集団的自衛権、秘密保護法、急ピッチの教育改革などの具体論の検討と別に、いまとこれからの日本の「政治風土」の行方を黙想しています。

一言でいえば、民主政権の経験後、日本の政治風土が大きく変わったこと、強いイデオロギー的対立構造を持たない「英米型」の政治状況ーそれを一部内包しているドイツやフランスと違ったーになりつつあるのではないか、そのなかで、7,80年代にヨーロッパで興隆した社会民主主義潮流と異なる「新しいリベラル」のあり方を根本から追求する必要があるかもしれない、など。

いずれにせよ日本国民は、そう無知でも愚かでもない、日々の生活のなかから決して譲れない価値、協同して求めるべき価値を作っていくだろうと強く思います。たとえ願望にすぎなくてもその道を歩みたい。

(2014年12月13日)

Tag:教育と人間の希望を求めて  comment:0 

授業の現場からこれからの教育を考える

札幌市内の中学校の公開授業を見てきた。1学年7〜8学級生徒数800人余り、特別支援学級が4クラスで20数名。道徳、社会、英語、音楽などを見たがいずれもこれ見よがしでなく、普段の授業ぶりが窺える立派な授業だった。取って付けたように公開授業のためのテーマを大袈裟に付けていないのも好ましい。

日本の学校教育について、時に余りにも安易に、教え込みだとか決まった答えの習い覚えだとか言われるが、小中の普通の授業を見て、こうした授業のどこがどのように教え込みと言えるのかと問いたくなる。かなりの時間授業を実際に見た上での発言なのだろうか?

3年社会では、教科書にあるコンビニの経営者になってみようというテーマで、実際に自分たちの地域の地図を見ながらベストの立地を考えさせ発表し合っていた。教え込みというが、最近の教科書をよく見てほしい。この教材もそうだが、教科書には考えさせ討論させる内容のものが随所にある。社会だけでなく、音楽でも道徳でも、教師による課題や教材の提示と共に、当然のようにグループ討論や発表が行われていた。

3年の道徳の授業はなかなか練られたものだった。「噂話のわな」というテーマで、情報が人の間を通る中でどう伝わっていくかの例示と確かめから始め、後半、「誰かが私の悪口を言いふらしているって聞いたけどひどいと思わない?」という友達の会話に対する応答を考え、実際にペアで会話をし発表させる。教師はどういう応答がいいかは言わず、生徒の発言に応じて「こういう意味だね」と念を押す。これはまさに、現行学習指導要領の最大のポイント、実生活につながる言語活動重視の授業の試みともいえる。この教材は、担当教師個人が考えた教材ではなく、研修部が学校全体の教材として練りあげたものだという。

衒いが出てくる中学生の討論に過剰に期待してもダメだ。しかしどの授業でも発言や討論の前後の教師の的確なフォローで、それなりに生徒達は考える場になっていると思った。かつそうした討論に持って行くのには教師の事前の周到な授業設計の準備とその場でのリードが不可欠だ。

道徳の応答でも答えは様々。応答には、「それ確かめたの」とか「本人に言ったら」とか「気にしない気にしない」などいろいろあったが、生徒が言いっ放しでは学習にならない。「それは情報の真偽の問題だね」などと随時教師がリードする。討論学習と雖も教師の導きが不可欠だ。どんな討論授業であっても、大村はまが繰り返し言ったように、教師は教えることに怯んではならないと思う。

作り事のような討論学習や学び合いは好まない。しかし今日の公開授業で、ごく普通に、考えさせ討論させることが行われているのを見て嬉しく思った。もちろん個々の場面で、発問や指示がどうだったかとか生徒とのやりとりをこうすればとかはいくらでも言えよう。授業を見ると、よく、「あそこではこう発問した方がいいのに」とか「あの生徒の発言にどうしてああいう反応をしたのだろう」など注文を付けたくなるものだ。しかしそうした注文を振り回すのは止めた方がいい。日常の授業の有り様としては、そうした個々のスキルの指摘はほとんど無用だと思う。

学校の授業というのはその時一回だけのものでない。365日教師達は同じ生徒と関わり授業を行っているのだ。トータルに見れば、発問はとか指導言はとかはほとんど属人的な事柄であって捨象さるべきものだ。そうしたスキルは、長期にわたる教師と生徒との関わりの中で、その教師固有のあり方として徐々に時間をかけてつくられていくべきものだ。もちろん、だからといってそうした個々の技術やスキルを磨くことを軽視するものではないが。

この学校には有名教師もカリスマ教師もいない。しかし見るところ間違いなく教師達は一定のレベルでまともな授業、精一杯自ら考え発言する力をつける教育をしている。もちろんその前提として、生徒たちの基礎学力の平均以上のレベルがあるし、研修部中心の先生方の地道な研修がある。

今日の公開授業を見て、改めて日本の教師の平均的レベルの高さを実感した。随所に教師の知的閃きを示しつつ手際よく授業を進め、生徒たちを集中させるなどそうどこでも行われているわけでない。そこには頭ごなしの教え込みも子どもを軽視した引き回しもない。授業設計の基本や生徒とのやりとりの実際も、ほぼ一定のレベルで行われていると言える。道徳の授業でも徳目の押し付け的な要素はまったくなかった。道徳の教科化に懸念があることは分かるが、日本の教師をもっと信頼していいのではと思う。道徳だけでなく、どんな教科でも、先生方は教科書の棒読みで良しとなどしていなく、子どもたちとの関わりの中でそれぞれに工夫しているのだから。

その上で、さてこういう学校と教師にこれから何を求めるべきなのだろう。「これからの教育にはこれこれが必要で、そのためには教師の力が足りない」などと、結局は教師バッシングになるような議論は無用だ。しかしこれでいいという訳ではない。

今日の授業でも、この方向でもう少し習熟し徹底していったら生徒たちの発言や討論がもっと本物になるのでは、と思うところはある。例えば、一斉での教師による説明とペアやグループでの討論とのつながりがもう少し工夫されていいと思った。しかしそれは、何か特定の方法を適用すれば良いといったものでもない。この学校では、すでに、学びの共同体や協同学習などの授業法の研修は一定行っているというが、その上でさらに必要なのは、先生方が日々自分で試行錯誤しながら積み重ねていくことだろう。

主体的に考えて答えのない課題解決に当たる力をつけるという目標には意味はある。ではそれを徹底し、教科書やクラス単位の共通的学習を無視し、自ら学び少人数で討論し意見を言い合う授業に徹底すればいいのだろうか?イエナプランのように、生徒一人ひとりの進度や関心に沿って生徒たちの学び合いによって考え発表する力を付けるなど。

オールタナティブ教育を含め、そうした教育のあり方を否定はしない。むしろ日本でも徐々にいろいろな場でその試みがあってしかるべきだろう。しかし、一般の公立学校でそれは本当に可能か?

現行の日本の公教育制度のもとでは不可能であろう。というより、一部の学校や一部の学級で、学習指導要領や教科書、学級制を無視してそうした教育法に徹底すると、多方面で混乱をもたらすだけだと思う。

では、日本の教育がこれから、より考える力や課題解決力を高める方向に向かうために、学校と教師に何が必要か?

私の答えは、迂遠かもしれないが、シンプルだ。授業法や指導法に関する先生方の現場での工夫と努力を尊重し励ますことが基本だということ。

かつ、授業法や指導法を単にスキルや技術とみなして次々と新手法を提起するのでなく、何を教え、子どもたちが何を得、どういう人間になっていくのかという学校教育の根本を、学校現場でたえず教師間で吟味し、共有し合うことが何よりも大事だ。これぞ、教育の基本的目標に関する、教育の専門家としてのリフレクションである。もちろんそのための、種々の研修のあり方の改善や時間的余裕などの条件整備も併せて。

さらに、そうした学校現場での工夫や努力と併行して、そうした先生方の教育への思いがよりよく可能になるような日本の「頑丈な」公教育制度の改革、「柔軟化」が追求されてしかるべきであろう。もともと制度と制度をつくる精神とは一対でなければ。

最近またぞろとみに、「これからの教育は〜でなければ」とか「21世紀型の新能力観」とか ICTによる教育の抜本的転換(反転授業)などの言辞が増えてきている気がする。しかし、戦後の教育論の流れを一瞥しても、どうもそういう流れに素直に頷けない。

今度はアクティブラーニングだ、課題解決だといった言辞はほどほどにした方がいいのではなかろうか。教え込みか主体的学びかなどのあれかこれかは止めた方がいい。教育の目標や方法のブーメランは、徒労でありエネロスだ。こういうときこそ、時の政治に過度に振り回されることなく、教育の王道をしっかりと睨みつつ進むべきではないだろうか。

(2014年11月28日)

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道徳教育寸描

札幌市内で行われた学級づくりセミナー主催の「道徳の授業づくり」に出てきた。中心は山形の小学校で長く道徳の授業をやってきた佐藤幸司先生の講演と模擬授業。その他、道内の若手3人と石川晋さんの模擬授業も。参加者は20数人だが、道徳授業テーマで3年目という。少人数であっても、こうした地道な研鑽の場が続けられているのは素晴らしいことだ。

佐藤先生の実践は、徳目の押しつけや型にはまった授業にならないように、写真やデータを見せることから始めたりと、さすがに年期が入り工夫されたものだった。山形ではごく普通に副読本を使った道徳授業が行われているとのことだった。

チキンライスの写真を見せて、レストランに親と行ってもいつもチキンライスしか注文しない少年の話を引き合いに出し、親に気を使って遠慮している状況についていろいろ子どもたちに考えさせる。最後にはチキンライスという歌まで歌って何かを感じさせる。ここまで用意周到に準備をするのは大変だが。

かつ彼の授業では、つねに生徒全員に書かせたり発表させたりを大事にしている。結論も教師がやんわりと例を挙げるなどしてまとめる。子どもたちの「心に残るもの、余韻」を大事にしているのだという。柔らかな語り口、豊富な素材と相まって、なるほどこれだと子どもたちの心にじわーっと沁みるだろうと感じた。

参加している比較的若い先生方は、熱心にその手法、素材の用意の仕方などに耳を傾けていた。それなりに得るものは多々あっただろう。ただこれらから参加者が道徳教育のあり方について何を学び取ったのかについてはどうかな、というのが正直な感想だ。結局明日すぐ使えるあれこれのアイディアが主であることは否定できない。

こういう現役の熱心な先生方の自主的な講座に参加したのは3回目くらいで、明日のアイディアをというのはある意味当然だろうとは思いながらも、やはり違和感が拭えないところがある。せっかくなんだからいろんなノウハウと同時に、そもそも道徳的価値とは何かなどの議論がどうして行われないのだろうか、と。

で、一つ感じたのは、徳目の押しつけにならないようにというのは大事だが、そのことは教師自身の個々の道徳的価値についての見方考え方をカッコに入れてではないだろうということ。子どものきれいごとの発言を問う前に、教師自身の価値観も問われているのではないか。子どもは教師のそれを鋭く見ている。

そこが算数などと道徳の違いだ。算数等の教科は、いちいち計算の意義などの価値感を問わなくても授業は成り立つ。しかし道徳の授業はそうではないだろう。子どもから言えば、では先生は親切とか遠慮というものをどう思っているのかと問えるのではないか。

そんなことを考えながら、ふと福沢の徳育論を思い起こした。福沢は学校で扱うべき道徳を「公徳」でなく「私徳」に限定した。モーゼの十戒等の人類普遍の徳である。かつそれを学校で教えるのに、たいして普遍性を持たない教科書ではダメだと。聖賢の言い伝えのように誰もが認める価値を伝えなければならない。

もちろん今道徳教育を考える場合、盗むなかれなどの人類普遍の徳だけでは不十分だろう。教育勅語制定直前の福沢の公徳=社会的道徳への慎重さを考慮しても。それにしても、個々の教師がどういうように普遍的道徳価値を語れるのかの問題は確かにあると思う。そこを避けては道徳教育は成り立たない。

道徳的価値自体について授業者自身による吟味が必要と前述した。例えば学習指導要領の各学年に割り振られた「道徳的内容」を見ていただきたい。小学校中学校を通して4つの領域(自分自身、他人との関係、自然や崇高なものとの関係、集団や社会との関わり)が区分され、小中それぞれに(小学校では低学年、中学年、高学年に分けられている)16〜24の項目が立てられている。

小学校低学年(1〜2年)の自分との関わりの中身の1番目は、「健康や安全に気を付け、ものや金銭を大切にし、身の回りを整え、わがままをしないで、規則正しい生活をする」、他人との関わりでは「気持ちのよいあいさつ、言葉遣い動作などに心掛けて明るく接する」だが、これらは厳密な意味で道徳と言えるだろうか。

前者は生活規律であり、後者は礼儀だ。同時に自分との関わりでは、「よいことと悪いことの区別をし、よいと思うことを進んで行う」、他人との関係では、「高齢者などに温かい心で接し、親切にする」「友達と仲よくし、助け合う」など挙げげられている。4分類の下でのこうした項目の列挙は理解が難しい。さらに、中学までの各項目の全体を見ると、あまりに内容が盛りだくさんで、それだけで頭が痛くなる思いがする。

問題点を簡単に言うと、しつけや生活規律、礼儀などと善悪の基本、さらには親切などの社会的価値が説明抜きにばらばらに列挙されているのだ。お年寄りに親切にするとか友達と仲良くするということと、身の回りを整える、挨拶をきちんとするなどとを教師はどう区別して教えるのか。ここには道徳的価値としてのフェイズの違いがある。

私見では、①しつけや規律、礼儀、②うそをつかない、年寄りを粗末にしないなどの基礎的善悪(普遍的人類的価値)、③親や教師を敬愛し家庭や学校を楽しいものにするといった社会的主体の形成=社会的道徳の3つのレベルは区別されなければならない。これがごちゃごちゃに挙げられていている。

こうした道徳内容項目(徳目に近い)が、フェイズの違い抜きに全体として社会の中の一員として生きるものの道徳とされているように思われる。これをそのまま大事な道徳的価値として教えると、いくら途中で討論したり「主体的に」考えさせたりしても既存社会の枠組からの押しつけになりかねない。

指導要領の自分との関係など4つの枠組の設定と指導法での主体的自覚の尊重は、ある意味、徳目主義にならないようにとの配慮でもあるかもしれない。しかしその枠組そのものが道徳的価値とは何かについての吟味と説明抜きに行われているのではないだろうか。これでは、変容しリファインされた徳目主義と言われても仕方ない。

そもそも身の回りを整えることや挨拶をすることなどと、うそをつかない、他人を傷つけてはならないなどの基本的モラルとを同列に子ども達に教えるのには無理がある。教科としての道徳を課題にするならこれは見過ごせない論点だ。あれもこれもとなるともう教科としての道徳とは言えない。

教科化に当たって先日発表された中教審道徳教育部会の報告でも、これらが論議されず、むしろ4つの領域の道徳内容をより詳しく指導要領に盛り込むとされているのは大いに疑問が残る。学校で学ばなければならない道徳的価値とは何かの根本的な問いを避けては真っ当な道徳教育にならないのではなかろうか。

道徳教育の問題性は、押しつけか主体的自覚か、単一価値か多元的価値かなどの対立だけではないように思う。道徳的価値の異なったフェイズをきちんと区別した上で、まずは人類普遍的価値に基本を置くこと、社会的主体形成などは普遍価値からの重層的拡がりとして展開することではないかと思う。

この視点からも、福沢の、私徳と公徳とを区別しまずは私徳を基本にという見解は、学校における徳育の可能性と限界を確認する上でなお有意義だと思う。道徳教育は大事だ。とくにいまとこれからの子どもに。でも社会的枠組からの外挿では、小学校ではやはり押しつけになりかねないし、中学校ではきれい事で終わりかねない。

ポイントを整理してみよう。

①学校における道徳教育(とくに教科としての)の勝負どころは、人類的普遍的道徳的価値(善悪)の教育であり、しつけや生活習慣などは基本は家庭や地域の課題であって、過剰に学校が背負うべきでないこと。

②普遍的善悪のモラルは小学校中学年位までに、適切な事例や古今の言い伝えなどを活用し繰り返し子どもたちに問う必要があること。

③しかし、小学校高学年から中学校はそう簡単でなく、善悪価値が社会でどう活きていくかを念頭に、子どもの社会的自立と一体に、さまざまな価値葛藤などを含めて展開される必要があるだろうこと。

ここで留意されなければならないのは、小学校低学年で挨拶とか生活規律などに過度に固執すると、挨拶は苦手だが善悪の観念はしっかりしているなど(逆もある)の子どもの特性を見過ごしかねないことだ。

また、友達や仲間を大事にとかの価値の過度の強調にも、例えそれが多元的価値を認め合うとかにしても問題がある。いじめなどで異質な他者との関わりを強調するのには意味があるが、多元的社会の生き方と、人としての善悪の観念とはまずは区別さるべきだ。要するに、小学校高学年中学校では社会的自立につながる道徳的価値が基本ではないか。

しかしもちろん、小学校中学年までに大事な普遍的善悪の観念の教育でも、徳目の押しつけは論外で、多様な事例から善悪価値にも多元性・多層性が潜んでいることを押さえておくこと、普遍的モラルをどう伝えるかについて素材を、古今の意義あるもの、価値の尊さを感じ取れるようなものから適切に選ぶ必要がある。

さらに、善悪の観念と社会的主体としての成長との内的なつながりをどう押さえるかが極めて重要だ。学校教育だけから両者を一体的なものとすることはおそらく不可能であろう。人は悪いが能力はあるという状況を完全に道徳的観念だけから否定はできないだろうからだ。善く生きることが生きることの根本であることがいかに普遍的真理であるにしても。

古くて新しい問題だが、人柄が悪いが能力があることと、能力はそう大きくないが人柄がいいこととの相克は、学校教育や道徳教育の枠組だけでは決して解決し得ないことであることはよく見ておいた方がいいと思う。

(了)

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学校一日訪問

前から願っていた学校の一日訪問をしてきました。朝7時50分から終業時まで、札幌の閑静な住宅地にある各学年5クラスの大規模校へ(児童数1000人弱)。午前中はフィンランドの教育学博士課程の院生とスコットランド修士課程の院生も同行しました。とりあえずの感想を以下にまとめました。

〈1〉朝8時過ぎ、子供達が登校し揃ったところで、全校一斉朝読書を15分。最近はどこでもやっている朝読書だが若干形骸化している面もなきにしもあらずだ。しかしここでは、10人ほどの地域のボランティアの方々が各教室に入って読み聞かせ。子供達は床に座り込んだりして熱心に耳を傾けていた。各クラス月1度位こうしたボランティアによる読み聞かせがあるとのこと。読み聞かせだけでなく図書室でいろんな仕事をするボランティアの方々、総勢74人とのこと。凄い。

〈2〉こうした朝読書も、先生方がいち早く教室に入るための工夫が徹底しているから生きる。ほとんどの学校がやっている朝の職員打ち合わせは全くなく、すぐ先生方は教室に向かう。かつ、正規の職員会議も年4回に限定。これらを可能にしているのが、校内ITネットワークの徹底した活用だ。全ての必要な連絡や情報は校内ランにアップされており、先生方は朝それを見てすぐ行動できる。朝の職員会をやる学校では20分ほど子供達は教室に放置される。

〈3〉校内ITシステムを活用した健康、出欠状況の把握と迅速な対応も徹底している。保健室の先生が責任者になり毎日朝のうちに全校生徒の出欠状況、健康状況が集計され、素早くネットにアップ。それに基づいて教頭、教務主任らが必要な家庭との連絡(休んでいるが連絡無しなど)を即座に行う。かつ、安全重視の視点から、栄養教諭が給食時の子供の一人ずつの膨大なアレルギー情報を詳細に把握し、日常的に事故防止に努めているのも凄い。

〈4〉読書のあとの各教室の朝の会も数多く見たが、朝読での学習への準備に続いて、ありきたりの係の報告などは少なく、歌を歌ったり授業の準備に入ったりとそれぞれ。子供達は伸び伸びと学習に入る。規律と自由がうまくバランスがとれているように感じた。日頃から、廊下を走らない、机の上に余計なものを置かないなどの規律は徹底しているが、規律一本槍でなく、子供達の学校内での行動はしごく伸び伸びしている。廊下のどこにも「廊下では走らない」などの注意書きの壁紙がない。規律が日常の中で定着し、当たり前になっているからこそ、伸び伸びできる。これはこの学校で終始全体として強く感じた印象だ。
学習規律などが自己目的になっていないということでもあろう。規律が重要とのことで、子供達が萎縮してしまっている学校も少なくないが、そうした欠点がほとんど見受けられない。

〈5〉こうした全体的雰囲気に見合って、授業はどのクラスもオーソドックスで、奇を衒ったところがない。教科書をきちんと使用し、授業の起承転結がスッキリしている。かつ、全ての教室に高性能の実物投影機と60インチモニターがあり、どの先生も当たり前のように使いこなしている。ここまで学校全体として、授業の中で機器を有効に活かしているのは希有かもしれない(大型モニターには NHKのドキュメントなど膨大なコンテンツが内蔵されているとのこと)。後期からはいくつかのクラスで実験的にタブレット活用にも挑戦するとのこと。

〈6〉生徒と同様、先生方が伸び伸びと授業に取り組んでいる。いつ誰が見に行っても普通に対応してくれる。つねに誰にでも公開の原則のもと、先生方はごく自然体だ。管理職も授業をよく見に行くというが、個々の先生に細かい注意などはしないという。規律が当たり前の中での子供達の闊達さと同じだ。
勤務時間もいたずらに遅くまでは避けているという。ある若い女性教師に休憩時尋ねたが、「この学校では特に用事がなければ遠慮することなく普通に帰宅でき、凄くありがたい」とのこと。大事なことだが案外学校では、「遅くまで学校で仕事をするのが美徳」の雰囲気のなか軽視されていることかもしれない。

〈7〉授業は教科書をベースにしたごくオーソドックスなものがほとんどで、無理に協同学習中心にとかしていない。どのクラスも4人位の班を作っていて、随時グループでの話し合いをさせるが、討論のための討論といった雰囲気はほとんど感じられなかった。かつ必要に応じて授業中子供達が立ち上がったりうろうろしたりも自由にさせていた。子供達の発言は必ずしも活発とは言えないが、ほとんどはリラックスした態度で発言していた。

〈8〉自分が気に入った本のポスター作りなどの国語の言語活動重視も、教科書に沿って素直に取り組んでいた。あるクラスの6年の道徳は時間全部を参観したが、わたしたちの道徳に基づいて、自分の長所を互いにコメントしつつ確認するオーソドックスなもの。子供達は他の生徒の自分に対する評価を見ながら素直に自己理解を発表。

〈9〉学習面で学校として力を入れているのが家庭学習。毎朝宿題と自己学習の二冊のノートを黒板前の提出箱に提出させ、教師がこれを丁寧に見る。特に自分で課題を立てる学習ノートを重視しているよう。先生方はほとんど教室にいて、休憩時間や昼休みに書き込みを終わらせ下校時に子供に渡す。

〈10〉非常にユニークなのは、6年間分をポートフォリオ的に200頁のクリアファイルにし、家庭に預けっ放しにしている通知表のこと。「MY通知表」と名付けそれぞれ家庭で自分流に冊子にしていく。通知表自体も完全電子化。いちいち返させる必要なく、受け取った受け取ってないなどのやりとりが無用で作業軽減になるという。成績も、日頃のテスト結果が全部ネット上にアップしてあり、通知表に記載するとき、それらを即座に一覧できる。

〈11〉以上の徹底した事務簡素化、全校統一のオーソドックスな指導法の確立は、就任3年目の校長のリーダーシップによるところが大きい。かつそれはトップダウンでの押し付け的な改革でなく、骨格は校長がはっきり示すが、常にその効果を教師間にフィードバックし、教師の自発性を尊重して行われている。

〈12〉校長が、「日本の学校は画一的とか言われていても、工夫によって自由にやれる余地がたくさんある」と確信をもって語っていたのが極めて印象的だった。先生方も他の多くの学校と違って伸び伸びとやっている感が強くした。職員室の雰囲気も棘がどこかに刺さっているような暗さがない。そして教師のチーム力が良く発揮されている。

〈13〉もちろん課題は残っている。校長は「特別の研究校とかでなく普通の学校を目指している」と語っていたが、子供達が可能な限り学力や人間性で力を伸ばす教育活動になっているか、子供達の学習到達度の検証がたえず行われ授業等の改善に生かされているか。校内での日常的な授業研究がより重視されていいのではと思う。

校内では頻繁に25分位の「授業道場」を手際よくやっているという。教科書を基本にはいいが、子供の変化や教育課題に即した授業法への果敢な挑戦もあっていいのでは。例えば新指導要領の言語活動重視や道徳教育についてこういうあり方を追求するといった学校ぐるみの取組があってもいいのではないかと思う。

〈14〉もう一つ、悩ましいのはどこでも増えている発達障害などの子供の増加だと言う。これに関して、問題が大きくならないように保健室、校長、教頭らの密接で素早い対応ができているが、教育的に十分に解決してはいないようだ。担任だけでは到底不可能で、退職教員らによる短時間のサポーターが配置されているが、現状はまったく不十分とのこと。

これについて、同行した院生の話では、フィンランドもイギリスも同じ悩みがあり、どこも模索中のよう。フィンランドではそういうケースではとにかく専門のサポーターやカウンセラーを付けるとのことだが、日本はまだまだ不十分。担任が個別に対応できることではない難しい課題だと意見が一致した。

フィンランドの教育学博士課程院生に学校の印象を3点挙げて貰うと、子供達も先生方も伸び伸びしている、にもかかわらず教室が静かで落ち着きがある、図書ボランティアなど地域の人の積極的な関わりが凄い、と。フィンランドでは子供の騒がしさなど日本の比ではないところが少なくないという。英国もフィンランドも日本も、小学校で、学級規模や学校制度の違いを超えて、学習をどう成立させ子供達を伸ばしていくかについて新しい大きな課題が生じていると認識をともにする機会にもなった。(了)

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教育再生会議第5次提言についてーメモ

[ 7月3日、教育再生会議第5次提言「今後の学制の在り方について」が公表されました。取り急ぎ感想をまとめてみました。しかし、教育関係の方々は、ぜひ原文に当たって吟味していただきたいと思います。]

(1)6・3制の弾力化も5歳児教育の義務化も方向としては賛成。ただいずれも財源などで実現は至難。緩やかに地域ごとに進むかも。ただ学校は制度変更で良くなるものではなく中身が大事であることは基本。

6・3制から「5・4制」など小中一貫への移行は、現在行われている中高一貫校「中等教育学校」と基本的には同様な位置づけか。自治体が選択といっても、実施には莫大な費用がかかり、そう簡単には進まないだろう。ただ、少子化に伴う学校統合の機会に、というのはありうる。

地域ごとの6・3制の柔軟化は、日本の公教育の硬い構造を崩していく上で賛成。とくに、全国一律の詳細過ぎる学習指導要領の柔軟化につながる点で。ただ、表には裏も必ずあり、小中一貫校が増えれば学校選択制が拡がることにもなり、学校間格差が強くなることも起こりうる。また、理由に挙げられている中1ギャップは付けたしの感で、実質は発達の早期化のもとで初等中等教育の高次化(「世界トップレベルの学力」)が狙いだろう。下手をするとエリート志向が強まる。

(2)5歳児教育の義務化と幼児教育の抜本的充実は全面的に賛成。子ども支援策の緊急性から、莫大な費用がかかるにせよこれは現実性を持つと思う。すでに消費税からの7000億の投入が決まっており、段階的に追求されていくだろうし、仕事と子育てで苦労している母親や家庭に歓迎されるだろう。5歳児教育の義務化は、世界的に見てまだイギリスなどごく一部で、これが実現するとまさに教育立国の名に値するものとなる。

今後、幼保一元化、幼児教育と保育との統合など課題はまだまだ残っている。しかし、これについては、無藤隆氏をはじめ関係専門研究者の長年の奮闘が実りつつあるものと言え、既得利害を超え前に進むことが大事ではないか。

(3)教員養成に関しては遅遅として進まない小高学年の専科化には有効。すでに中教審で小中免の見直しが始まっている。ただ、小と中の免許を分断させない智恵が必要。日本の教師の質は小教師の高水準に支えられていることの繰り返しの確認が不可欠。欧米では日本よりずっと初等教育教師のステータスが低い。

教師インターン制については、当初の学卒=仮免を前提としたものではなく、「採用前又は後に学校現場で行う実習・研修を通じて適性を厳格に評価する仕組み(教師インターン制度(仮称))」とトーンダウンしたよう。これは当然。どだい、一気に新採用教員を仮免でなど現実性を持たない。逆に、教職大学院の充実が明示されているのは歓迎。

政権復活前から自民の部会が主張していた人確法に次ぐ教師の処遇改善も盛り込まれているが、財務省の壁は厚いだろう。OECDの先日のレポート等が追い風になるといいが。

(4)6・3制見直しの影に隠れているが、高校での職業教育の重視(職業教育を行う専門高校)や新しい高等教育としての職業教育機関の創設が謳われている。こちらは6・3制より現実性があるし、緊急度が高い。もっと職業高校を増やしそれにスポットライトを当てるべきだ。新しい高等職業教育校もしっかり作られると有益だ。

(5)もう一つ目立たないが、不登校生のためのフリースクールについて「その位置付けについて、就学義務や公費負担の在り方を含め検討する」とあるのは注目される。先行きは難問だが、こうした文書に明言されたことに意義がある。

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教育と教師について思うこと

[ しばらくブログを休んでしまいましたが、文科省関係の仕事がこの3月末に終わり、久しぶりにゆっくりと考える時間を取れるようになりました。以後、ブログにいろいろ書いていくつもりです。その最初として、ツイッターで書いた、教育と教師に関する総論的な断想を掲載します。]

教師の資質向上に関して、最近リフレクション=省察の具体的なあり方について考えている。省察というタームはこの10年ほど教師教育でもずいぶん拡がったが内実抜きに言葉だけが一人歩きしている感もなきにしもあらずだ。

例えば学生の教育実習後の事後検討会や学校での公開授業の反省会、これはリフレクションと言えるか。まだ多くの場合、板書がどうだとか発問がどうだといった「上から目線」の先輩からの指摘が圧倒的だ。こういうのはリフレクションでも省察でもないと思う。

経験年数が多ければ、個々のスキルについて先輩がああだこうだ指摘するのは簡単で誰でもできる。しかしそうしたものは、往々にしてケースバイケースで、それを真に受けたら却って間違うことが少なくない。スキルはTPOでありかつ属人的なものだ。

もうこういう伝統的な学校での研修文化は止めにした方がいい。学校への保護者や社会の厳しい目の中で管理職や先輩からのこうした目線で自信を失い成長できない(場合によっては教職を断念)事例が少なくない。

教師の仕事はショーンが言うように、医師や弁護士などと違い合理的法則を状況に合わせて適用するのとは異なる。教師ー子ども関係はあくまでも相互的で個別的で法則の適用応用ではまっとうされえない。

だから教師の資質向上は、「実践の中で」自ら作り上げていくべきものだ。これがリフレクション。教師はリフレクションにより「自ら成長する」以外に力量を付け磨くことは基本的にできないのだ。

この自己成長に焦点を置いたとき浮かび上がってくるのが教師の価値感、人間観、教育観などの感情的側面。ここに目を向けたのがショーンを受け継いだオランダのコルトハーヘン。教師の感情的な面を中心とした省察を「コア・リフレク ション」という。

例えばある先生が授業で子どもに「どうしてこんな簡単なかけ算ができないんだ」と言ったとすると、そこにはかけ算の教え方に関する教師の技術だけでなその教師のあらゆる意味での感情が潜んでいる、とコルトハーヘンは言う。

リフレクションは本来個々の教育技術への反省や習得ではない。多くの場合「属人的」な感情、価値感にまで食い入らなければ自らの成長の糧にはならない。

さらにその実際のあり方も、先輩からの一方的な欠点や弱点の指摘ではダメだ。信頼関係が成り立つ小さいグループでの対話性、「語りと傾聴」が基本だ。

教師教育での語りと傾聴、ナラティブラーニングをフィンランドの諸理論をもとに展開しているのが北海道教育大学の庄井さんで、その発想はたいへん優れていると思う。コルトハーヘンのコア・リフレクションとナラティブラーニングとの融合が今後の方向だと思う。

すでに日本でも、福井大教職大学院などでこうしたリフレクション、実践の中での省察が、先輩ファシリテーターのもとでの小グループカンファレンスという形で実績ができつつある。学校内では、メンターと若手教師との親密な関係の形で。

できるだけ早く、校内研修、初任者研修、学部大学院の教員養成で、こうしたリフレクション論に基づいた方法が定着されるべきでないか。そこでは先輩教師が新任、若手教師と共に実践の中で学びながら成長する。

教師が育ちづらい、育たない学校は学校と言えるか。教師が育たない学校で子どもを育てるなどどうして言えるか。いま日本の学校はあまりにも教師が育ちづらいものになりつつあると言わざるをえない。

日本の教育は国際的に見てかなり高い水準にあるのは間違いないし、それが日本の教師のこれまでの一定の質によって支えられてきたのも確かだ。しかしこのままでいいとは言えない。子どもと社会の変化は学校システム以上に変化が激しい。

課題解決力もいい、思考力もいい、21世紀型スキルも十分意義がある。しかし日本の教育がそういう方向へさらに飛躍するためには教師力の向上が不可欠だ。教育改革と教師教育改革は二つながらやらなければ実効性がないと思う。これはぼくの祈りにも似た思いだ。

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報告書「大学院段階の教員養成の改善と充実等について」の解説

[ 協力者会議報告書「大学院段階の教員養成の改善と充実等について」(平成25年10月15日)の日本教育新聞解説記事(10月21日付け)の元原稿を、社の了解を得て掲載します。]

 平成24年8月の教員の資質能力向上に関する中教審答申を受けその具体策を練るためにスタートした協力者会議が、ほぼ1年の検討を経て報告書「大学院段階の教員養成の改革と充実等について」をまとめました。答申作成に関わり協力者会議の主査を務めましたが、今回の報告書は今後の日本の教育と教員養成にとって重要な意義を持つものと思います。

 <「はじめに修士化ありき」ではない>

 当初の答申が、民主党政権が掲げていた「修士6年制」から発したものであったため、今回の報告書に関しても、ただ大学院での資質向上を謳うものとみなされるかもしれませんが、そうではありません。

 もともと答申自体、高度専門職としての教員の資質能力向上を基本方向としつつ、一気の修士レベル化ではなく「段階的に取組を推進」することを提唱したものでした。学部段階での教員養成の在り方をも視野に入れながら、大学と教育委員会・学校との協働で「大学の教育力を活用して」、新卒採用者と現職の中堅リーダーの両方の資質向上を図ろうとするものでした。

 今、教育現場では様々な難しい課題を抱えて、まさに「学び続ける教師」が求められています。それには、「養成は大学、採用と研修は教育委員会」では済まないのです。

 もちろん、学部養成段階の課題も大きく残されていますが、採用後、初任段階、そして10年後20年後中堅リーダーや管理職になる過程で資質を確実に向上させる仕組みをどう作るかが、答申でも今回の報告書でも最大の課題意識でした。
 
 ですから、報告書は、何が何でも大学院でといった単純な見解に立ってはいません。高度専門職としての教職の高度化は、多様かつ確実に進められるべきです。実際に、和歌山県では、120人ほどの新採用の中から18人を県教委が選抜し、和歌山大学教育学部の全面協力のもと1年間にわたり質の高い研修プログラムを行う試みが始まっています。報告書ではこれを受けて、「学位取得」にかかわらず大学と教育委員会との協働が必要であることを強調しています。

 しかし、そもそも大学に実践的な資質を磨くための「教育力」はあるのかという疑問が当然ありえます。今回の報告書は、この点で、タイトルは「大学院段階における」となっていますが、大学側に教員養成教育の大きな改革を迫る内容になっています。複雑化高度化している学校現場の課題に応える「教員養成教育力の実質」が問われているのです。

<既存修士は原則として教職大学院へ移行>

 大学関係者にとっては、報告書の、既存修士課程については「原則として教職大学院に段階的に移行する」との記述は衝撃的かもしれません。かつその中身として、教科専門の在り方について重大な変更を要請しており、これは平成13年の「在り方懇」でも平成24年答申でも明示されていなかったことです。

 これについて、「専門学問軽視だ」などの見解が出るかもしれません。しかしそうではありません。教員養成を目的とする大学・学部にありながら、学校教育の課題と離れたところで専門学問を研究教育する在り方に根本的なメスを入れているのです。その上で、既存修士について、中学の免許教科に即して立てられた従来の専攻を大括り化し、学校現場の課題と密接した「教育実践研究」の場に転換するよう提案しています。

 報告書はその具体的な内容を詳述せず、今後の展開を各大学の創意ある自主努力に委ねています。

 ただ、言えることは、そこでは教科教育学や教育方法学を軸に教科専門がこれまでとは違った形で授業法や指導法の改善に貢献する道が示されており、新しい実践的な学問を作り上げていく気概を持ってのぞんでほしいということです。

 なお、その際報告書が、高度専門職としての教職の高度化について、一貫して「探究的な実践的指導力の育成」を掲げていることに留意していただきたいと思います。ここに単なる学校現場での体験的訓練に止まらない修士レベルの教員養成の固有の意義があります。

<教職大学院の充実拡充>

 報告書は、既存修士の大改革を前提に、5年間の実績を踏まえて教職大学院の充実と拡充を謳っています。ここでも、中学免許教科をそのまま横滑りで教職大学院に持ち込むことを厳にいましめています。教科や学校種の枠を超え、地域を含む学校課題を構造的総合的に俯瞰する力量の形成を繰り返し訴えています。

 詳細は報告書にゆずるとして、これでは若手教員の教科指導力の強化ができないのではないかとの疑問に関して、報告書は教科の専門学問に傾斜した教育になることはいましめていますが、授業法や指導法の工夫改善のための教育を教職大学院において行うことは当然です。学習指導等に特化したコースでは、これまで以上に若手教師の教科指導力の向上に貢献するものでなければなりません。

 今回の報告書で新たに強調されているのは、校長や教頭等をめざす「管理職特化コース」の設置です。文科省にもこれについての実質的な支援を要請しています。すでに教職大学院を設置済みの大学でも、大いにこれに挑戦してほしいと期待しています。

 なお、教職大学院の拡充に当たって欠かせないのは、入学者の確保です。この点で、地元教育委員会との中身のある協議が不可欠であることは言うまでもありません。

<専修免許取得への実習導入>

 教員養成系以外の国公私の大学院での中高の専修免許取得が60~65%を占める現状の中、専修免許への実習導入は、大学における教員養成の改革として大きな意義を持っています。一般大学の教員養成教育力に対しても、報告書は重大な課題を提起しているのです。

 戦後の開放制免許において、一般大学の教職課程にメスを入れることはほとんど行われてきませんでした。

 今回、事が免許法改正に及ぶものであること、国公私の教職課程での対応が容易ならないことなどを考慮して、「義務化」は避けられましたが、実質的に4~6単位を「必修とすることを促進する」としています。実際、各県教委が採用試験の際、専修免許について実習の有無を問うことが増えていくでしょう。

 ここでも問題は、各大学の対応です。学部の教育実習のレベルを超えた中身のある実習をどのような体制で実施していくか。かなりの難問を含んでいると思われますが、ここでこそ、国公私の大学間での連携・連合が有効です。すでに兵庫県では兵庫教育大学を中心に、そのための国公私の連携組織が作られています。

 以上、報告書のポイントをかいつまんで紹介しましたが、大学院段階の教員養成にとりあえず課題を限定しているとはいえ、ある意味で、かつてない根本的な教員養成の改革を大学に求めていると言えます。そしてそれは、報告書が去年の答申を引き継いで一貫して強調している、「大学と教育委員会との協働による養成・採用・研修の一体的改革」なしには成就しえないものであることをぜひとも根底に据えて理解していただきたいと思います。

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(旧稿)中教審「教員の資質能力向上特別部会」の動向と課題

[ 平成25年10月15日、前年8月の教員の資質能力向上に関する中教審答申を受け、その具体化のために1年ほど検討を続けてきた協力者会議が、「大学院段階の教員養成の改革と充実等について」と題する報告書をまとめました。

 筆者は、答申段階から特別部会委員として作成に関わり、その後の協力者会議で主査を務めてきましたが、報告書の発表に当たり、答申作成以来のこの問題に関する筆者の見解を検証する意味を含めて、2012年夏に公刊された日本教育学会特別課題研究委員会研究報告書への寄稿論文(執筆は3月21日)を、学会事務局の了承を得て掲載します。答申段階から何が基本的に継承されたか、何が今回の報告書で新たに展開されたかを読み取っていただければ幸甚です。]

1 はじめに

 2009年9月、政権についた民主党政府は、教育に関して「教員の質と数の充実」を打ち出し、翌2010年6月に「教職生活の全体を通した教員の資質能力の総合的な向上方策について」の諮問が行われ、中央教育審議会(以下中教審)の特別部会で審議が開始された(部会長田村哲夫、委員30人)。

 2010年12月、特別部会は、修士レベル化を基本方向とする「審議経過報告」をとりまとめた。その後、翌2011年7月から、部会内に設けられた基本制度ワーキンググループ(座長横須賀薫宮城教育大学名誉教授、委員8人)で、制度設計に関わる具体的な検討が行われ、2012年3月にその「報告(案)」がまとめられた。今後これを基に、特別部会で、答申に向けた最終的な調整が行われる予定になっている。

 筆者は、特別部会及びワーキンググループの一員として、今後の日本の教師教育に大きな意味を持つであろう本議論に加わっているが、この間その主要論点について自分なりに考えてきたことを、教育政策立案のあり方の視点を含めてまとめておきたい。

2 検討のスタート
 
 今回の諮問に関して、当初メディアが一斉に教員養成6年制化かと報道したせいもあって、部会での議論はその是非から始まった。これに関しては、今後10年間の大量退職・採用の時期に、教職志望者を大幅に少なくする恐れがあるとの指摘が強くあり、早い時期に単純な養成期間の延長論は主流にならなくなった。

 しかし、その議論の過程で、大きく浮かび上がったのは、教育委員会サイドの大学に対する根強い不信感である。

 ある委員は、「大学に教育力はあるのか」「高度な職業的専門性を育てるのは大学でできるのか」
と率直に疑問を呈し、「教員の資質能力向上の第一義的責任を持つのは(任命権者である)教育委員会だ」と発言した。

 部会は、教育委員会関係者、国立の教員養成大学関係者、私大関係者、小中高の校長会等の関係者、その他の有識者などから構成されている。教育委員会関係者、学校現場関係者は大学に対して信頼感を持っていない。私大関係者は、開放制のなし崩しの否定になるのではないかとの疑念を持っている、教員養成大学関係者はとにかく修士化を進めたいといった三すくみ状態がそこにはあった。

 これらは、部会での議論を通してほぼ乗り越えられていったと言えよう。当初大学への不信を表明していた先の委員は、その後「大学と教育委員会が一体となった教員養成というような青写真を描いていかないと、有効な養成ができないのじゃないか」と発言するに至った。

 私見では、こうした部会での議論の深化は、(1)そもそも諮問が、単純な6年制化を前提せず、「養成段階を含めた教職生活の全体を通じて不断に資質能力の向上や専門性の高度化が図られていくようにするための一体的・総合的な取組」という柔軟な方向性を示していたこと、(2)当初から、これから10年ほど大量退職・採用時代が続き、世代間の資質の継承が困難になり教員の質の維持向上が切実な課題であることが共通認識になっていたこと、(3)教育委員会と大学など関係機関の「組織的・継続的な連携・協働のしくみづくり」が検討の基本方向として提起されていたことなどによると思われる。

 しかし、それだけではない。決定的だったのは、厳しい意見のやりとりの中で、大学側が、これまでの大学での養成の不十分さをはっきりと認めたこと、その上で教員の資質能力は、「学校現場においてこそ磨かれる」ことについて共通の理解が得られていったことがあった。さらに、それを補強するものとして、4年前にスタートした全国25大学の教職大学院の実績があった。
 
 これは大きかった。机上の議論でなく、実際に学校を重視した質の高い教員養成の実際の意義について、ほとんどの委員は否定し難かった。

 筆者は、教職大学院の構想時から関与し、設置後はその実施結果審査の委員会委員を務めているが、各地で、これまでになく、実務家教員の派遣、連携協力校などで教育委員会と大学の連携が強まっており、教育内容としても学校課題に即した研究、学校現場での多様な実習と事例研究など意欲的な試みが拡がっていることを実感していた。「教員の資質能力は学校現場でこそ磨かれる」との基本視点と教職大学院の一定の実績の評価——これこそは、その後のワーキンググループの制度設計の中でも貫かれている赤い糸である。

 国の教育政策の立案に関して思うに、欠かせない四つの要素がある。政治的なイニシアチブ、利害関係者の諸利害の調整と当事者責任、政策の実現可能性、それに政策の学問的根拠である。利害関係者や当事者の意識と関与は重要である。また、どんな政策も、状況に振り回され便宜主義的なものであってはならず、系統性と学問的な根拠のあるや無しやも欠かせない。しかし、大きな政策には、財源措置も含めて政治的イニシアチブと実現可能性をニグレクトはできない。今回の資質能力向上とそのための修士レベル化政策は、いまなお、この4者の微妙な緊張関係の中にあると言っていいだろう。

3 資質能力向上の必要性をめぐって

 そもそも一定の政策の立案に当たって、その必要性の議論は避けられない。政策は、当事者の関心、願望によく立脚したものでなかれば切実性を持たないし、実現可能性の大きな部分は、政治的イニシアチブ如何に密接に関わるからである。

 なぜいま教員の資質能力向上が必要なのか。

 私見では、次の二重の視点がある。学校教育現場の実際と、国の教育に関する政治経済のあり方を含めた方向性。
 前者に関しては、前述のように、この10年ほど確実に予想される大量退職・採用時代に、「大量の経験不足の教員と少数の多忙な中堅教員」から学校現場が構成され、世代間の教師の力量の継承が不十分になるという危機感が挙げられる。

 後者に関して、いま日本が未曾有の経済的政治的困難にあり、21世紀を生き抜くための新たな「人材育成像」とそれを担う教員の資質能力観(思考力や知識の活用を育成する「新たな学び」を支える資質能力等)が求められていることは間違いない。

 課題は二重的である。教師としての力量の確実な獲得と新しい教育課題に応えうるそのレベルアップと。

 この両面に関して注意しなければならないのは、教員の資質能力向上が、もはや個人レベルの研鑽の課題としてでなく、日本の教師集団の全体にわたる「構造転換」として求められていることである。

 前者に関しては、世代間アンバランスや学校の小規模化の実態の中で、「同僚性」の欠如についてかなり深い認識が共有されてきた。また後者に関しても、課題は、個々の教師の教育方法に止まらず、学校としての教育成果が地域の中で問われる社会状況をふまえて提起されている。

 日本の教師について、以前から高い研修意欲が国際的にも評価されている。確かに民間の各種の研修への参加など現在も引き続き広く行われている。しかし、問題は、全国に幼小中高、国公私併せて100万人(内、公立小中学校教員約65万人)を超える教師全体の実情である。

 学校現場で、新人教師が先輩教師のサポートの下で確実に力量を付ける状態になっているであろうか。いじめや学級崩壊をまねかず、学級の協働を生かしながら一人ひとりの子どもたちの学力を確実に身につけさせ、知識を活用し考える力を付ける教育が学校全体で行われ、地域や社会の信頼を得るようになっているであろうか。エビデンスの深浅は別として、そう簡単にこれを是とすることはできないだろう。

 資質能力の向上を議論する際によく、それはあくまでも教師個々人の自覚と自発性によるべきだと言われる。この点で、「審議経過報告」が、「教職生活の全体を通じて自発的かつ不断に専門性を高めることを支援する新たな制度」への改革を打ち出していることは貴重である。それを前提とした上で、今回の検討が個々人の努力を超える構造転換を図る制度改革であることの意義を強調しておきたい。制度改革と個人の意欲とを始めから相対立するものととらえることは、議論の出発点を誤らせる。

 なお、求められる資質能力の内容について、ワーキンググループのまとめでは、これまでの中
教審答申から一歩踏み出し、個々の資質能力が「独立に存在するのでなく、相互に関連し合いな
がら形成されること」を重視し、(1)教職に対する責任感、探求力(使命感や責任感、教育的愛
情、自主的に学び続ける力)、(2)専門職としての高度な知識・技能(教科や教職に関する高度な
専門的知識、「新たな学び」を展開できる実践的指導力、教科指導、生徒指導、学級経営等を的確
に実践できる力)、(3)総合的な教師力(豊かな人間性や社会性、コミュニケーション力、他の同
僚とチームで対応する力、地域と連携できる力)を打ち出しているが、これを教職生活全体の中
で、いつどのように順序立てて得られるようにするのかなどの詳細は、今後の課題として残され
ている。それは、政策課題というよりは、特別部会でも必要性が認められている「専門職基準」
とともに、養成教育・研修の現場の中で、専門家によるピアレビューにより果たされるべきもの
であろう。

4 教職の「高度専門職業人」としての位置づけと修士レベル化

 前述の二重の課題を解決するための政策目標は、「高度専門職業人」として教職を「修士レベル化」することである。「審議経過報告」では、「修士レベル化」は、「今後検討を進める」こととされていたのだが、ワーキンググループの具体的な制度検討の上で、「ワーキング報告(案)」では、「改革の方向性」として、「教員養成を修士レベル化し、教員を高度専門職業人として明確に位置付ける」ことがはっきりと謳われた。そして、その制度的な保障として、学部段階の「基礎免許状」、修士レベルの「一般免許状」、中堅の学校リーダーたるべき「専門免許状」への免許制度の改革が明確に打ち出された。併せて、「社会から尊敬・信頼を受け」「学び続ける教師像」の確立も。

 この意味は大きい。今次教員資質能力向上の基本コンセプトと目標が確立されるのである。日本の教員養成は、戦後の「大学における教員養成」政策で、世界に先駆けて学士卒の教員のレベルアップを行ったが、爾来60年余りを経ていま、修士レベルの高度専門職業人の養成へと転換しようとするのである。

 しかしこうした大きな政策目標も、目標として立てられただけでは本来の政策にはならない。目標の実現に向けた周到な制度的・政策的な検討が伴わなければならない。ワーキンググループでの議論の難しさはここにあった。

 ワーキンググループでは、当初から修士レベル化の三つのパターンを詳細に検討した。(1)学部に連続した修士レベルの課程、(2)学部で基礎免許状を取得し、採用直後に初任者研修と連携・融合した修士レベルの課程、(3)採用後一定期間を置いてのち修得する修士レベルの課程である。

 これをめぐる議論は錯綜したが、一定の着地点が定められたのは、どのパターンをとるにせよ、高度専門職業人としての「実践的指導力」の養成を一定期間組み込まなければならないという確認であった。そして、その実質は、経験的に教職大学院の実績の中で積み重ねられていたし、理論的には、状況が違うにせよ欧米の教職に関するプロフェッショナル・スクール的な高度専門職職能開発の試みの蓄積があった。両者とも、理論と実践の往還、実践の中での「省察」を基本的な教育方法としていた。

 さらに、修士レベル化のこうした位置づけに伴い、学部段階の教員養成と一定の区切りをつけることの合理性も確認されていった。そういう構造が設定されれば、先の三つのパターンの違いは、ある意味相対的なものでしかない。つまりいつどこで修士レベル化を図るかの違いでしかない。

 結果として、ワーキンググループ「報告(案)」では、これについて、「それぞれにメリット、デメリットがあり、地域の実情に応じた様々な試行の積み重ねが必要である」との一言にまとめられた。

 これは、一見、方向性の曖昧なまとめに思えるかもしれない。ワーキンググループでも、どれかを基本に設定すべきだとか、基礎免許状取得後7,8年以内に一般免許状取得を義務づけるなどの意見が交わされた。

 確かに、入職7,8年後に一般免許状を法的に義務づけると、一挙に修士レベル化は実現する。しかしそれは、かりに採用後の修士レベル化を想定しても、不可避となる大幅な教員定数増を必須とするし、そもそも3万人に及ぶ新規採用者を受け入れる質の高い修士レベル課程を近々に用意する至難の課題を呼び起こす(教職大学院の入学定員830人、 国立教員養成系教育学研究科の入学定員3,333人、国立一般大学院専修免許状取得者3,000人、同公立350人、同私立3,500人計1万人強、2011年度)。

 さらに、学部教職課程がメインの私学関係は、これでは教員養成の本流から外れることになりかねない。また、義務づけられた修士レベル課程での学修のための授業料負担は重い。これらの難問を度外視して修士レベル化をただ目標とするのでは、現実的な政策にはなりえないのではないか。

 そこで、ワーキンググループ「報告(案)」では、「修士レベル化に向け、修士レベルの課程の質と量の充実、教育委員会と大学との連携・協働による研修の充実等ステップを踏みながら段階的に取組を推進する」とされることとなった。

5 修士レベル化に向けてどういう取組をするか

 「報告(案)」で、「審議経過報告」から大きく展開されているのは、Ⅲの「当面の改善策」である。その内容は、現状の教員養成・研修の大幅な改革を明確に打ち出しており、メッセージ性が強いだけに議論を呼ぶ可能性も孕んでいる。ここでは、今後のさらなる課題提起を含めて、主要な論点について私見を述べることにしたい。

1)修士レベル化の原動力としての教育委員会と大学の連携

 「当面の改善策」の副題は、「学校・教育委員会と大学の連携・協働による高度化」となっている。このことの意味するところは重要である。

 諮問にも、教育委員会と大学など関係機関の「組織的・継続的な連携・協働のしくみづくり」があったが、「報告(案)」ではさらに踏み込んで、「教員になる前の教育は大学、教員になった後の研修は教育委員会という、断絶した役割分担から脱却し、教職生活全体を通じた一体的な改革を構築する」ことを改革の基本的方向としているのである。

 これは、従来繰り返し中教審答申等で謳われてきた教育委員会と大学との連携の一般的強調を超えている。先の、三つのタイプに関する「地域の実情に応じた様々な試行の積み重ねが必要」との見解と重ね合わせると、各都道府県単位に、修士レベル化に向けて、教育委員会と大学が三つのタイプを使い分けながら具体的な検討を進めるように、という呼びかけとも受け止められる。

 確かに、新規採用者数が少ない県では、自らの意志で、新任かつ現職の段階的な修士レベル化をそう遠くなく実現できるであろう。すでに一部では、その方向に向かって、現職大学院生に対して県教委や市教委が授業料を一部負担しているところもある。

 こうした教育委員会と大学との連携について、大学教育が地方教育行政によって左右されがちになるとの懸念を示す向きも大学内にはあるが、カナダ、アメリカなど地方行政と教員養成機関との密着度は、教育行政の地方分権と相俟って元々強力であり、そうした教育の地方分権の方向としては、意義のあることであるとも言える。

 それだけでなく、私見では、今後の修士レベル化の原動力は、まさに教育委員会と大学との連携であり、各都道府県では、できるだけ早期にそれぞれの修士レベル化の構想と計画の協議を開始すべきであろう。

2)国公私を含めた大学連携の重要性

 修士レベル化の現実化の上で決定的なのは、その適切な受け皿の設定である。新規採用者約3万人の壁は厚いし、新人教員だけでなく中堅教師の資質能力向上のためには(つまりは「学び続ける教師像の確立」)、その他の大量の現職教員の修士レベル化も重要であり、道は限りなく遠く思える。

 そこで必要になってくるのは、小中高とも、国公私の違いを超えて実際に行われている大学の教員養成機能をフルに活用することである。確かに、とくに小学校教員については国立の教員養成大学学部の比重はなお大きいが、中学校、高校教員については、すでにそれ以外の一般大学学部が多くを担っていることを無視すべきではない。

 これは、単に量的に受け皿を確保するためというのではない。開放制原則の根本に関わることであり、教職に多様で有為な人材を幅広く求める重要な意義を持っている。

 しかし、国立の教員養成大学学部以外の私大の教育学研究科はまだごく少ないし、一般大学の理学部や文学部などで多く出されている専修免許取得の現状は、教職課程として極めて不十分であり、資質能力向上の修士レベル化においては、学校実習を専修免許所得の教育課程に何らかの形で組み込むなど大幅な改善が不可避である。めざすべき修士レベル化は、何でもいいからとにかく修士の学位を、というものであってはならない。

 となると、一般大学学部が独自にそれぞれ何らかの学校実習の仕組みを作り上げるだけでなく、理論と実践の往還を軸に学校実習による資質能力向上に実績のある教職大学院と連携・連合して修士レベル化をめざすことは、十分有効で現実的な手立てとなりうると考えられる。すでに、7私大と連合した京都教育大学の連合教職大学院があり実績を重ねているが、その発想を超えた大規模な連携・連合が、この機会に追求されてしかるべきであろう。例えば、大規模総合大学の理学研究科、文学研究科などと他大学の教職大学院とが協定を結び、単位互換をするなどの形も考えられていいのではないか。

 さらに、大量の現職教員の修士レベル化については、福井県など一部で、教育委員会と大学との協議で検討されているように、多数の国公私大学が開設している免許更新講習などの法定研修を、教職大学院等への入学の際一部単位として認定することも有効であろう。

3)修士レベル化における教職大学院の役割
 
 ワーキンググループの「報告(案)」は、「教職大学院が修士レベルの教員養成の主たる担い手となっていく」と述べているが、その意味合いを正確に掴んでおく必要がある。前項にあるように、修士レベル化の全体規模を考えると、まずは国公私の既存修士課程を含めた幅広い大学間連携が基本である。その上で教職大学院がとくに重要な役割を果たすというのは、何よりもその理論と実践の往還による実践的指導力育成に関する教育方法の独自性による。かつ、教職大学院は、もともと国公私に開かれた教育機関である。

 その上で、「報告(案)」では、(1)「教職大学院の拡充」(とくに未設置の都道府県での設置の推進)、(2)現行5領域の必修共通科目の見直しと「学校現場での実践に資する教科教育」分野などの新規導入(山梨大教職大学院にはすでに理数科コースがある)、(3)新規設置のハードルになっている実務家教員の割合の柔軟化などが打ち出されている。これらを受けて、各都道府県で実際に新規設置と拡充が促進されるかどうかは、今後の修士レベル化の帰趨を決すると言えるほど重要な課題であろう。

 さらに、とくに国立の教員養成大学学部に対しては、「学校現場で求められている質の高い教員
の養成をその最も重要な使命としていることに鑑みれば、今後、教職大学院を主体とした組織体
制へと移行していくことが求められる」としている。これは関係者の間で大きな議論を呼ぶ提起
であろう。

 その具体的なあり方についてここで触れることはしないが、日本の教員養成の修士レベル化へ
の大きな転換の中で、まさに国立の教員養成大学学部の「使命」として、この課題に背を向ける
ことはできないことに、関係機関、関係者は思いを致さなければならないと思う。かつ、専修免
許と将来の一般免許に関わる一般大学学部との連携など、課題は多岐にわたり、大きな役割を教
職大学院が担わなければ、修士レベル化の構想そのものが成り立たないことに、十分留意すべき
である。

 しかし、これらは制度に関わる実際的な課題であって、より根底には、教職大学院が開拓して
きた理論と実践の往還・融合や省察の意義をどう見るかという大学教育論上、教師教育論上の重
要問題があることをここではとくに強調しておきたい。

 この点で、「報告(案)」が、福井大学などを念頭に、「一部の教職大学院については、学校を大
学院の実習・学修の拠点とする方式により、校内研修と大学院での学びを高度に組み合わせて現
場での課題の解決に当たる試みを行い、成果をあげている」と指摘していることは注目される。

 福井大、山梨大などでは、ストレートマスターは、週3日、フルタイムで特定の連携協力校で
インターンシップを行い、これを1年間続ける。週1日は、大学で大学の担当教員のもとで、そ
れぞれの実践と体験を持ち寄り「カンファレンス」ないしセミナーを行う。中堅の現職教員につ
いては、勤務校でストレートマスターのメンターをやりながら、学校内研修で学校課題に関する
研究テーマを立ててこれを長期間追求する。月1回は大学でストレートマスターと一緒にカンフ
ァレンスに参加する。両者とも修了時点で大部の実践記録報告書を作成する。共通科目のレクチ
ャーは夏休みなどに集中して行う。

 こうした「学校拠点方式」について、学校の勤務に埋没していないかなどの疑念があることは
事実である。私見では、その成否は、カンファレンスなどでの大学教員の学校の実際をふまえた
緻密な指導体制と、学校側が質の高い研修を日常的に目標としているかどうかにあると思う。

 問題の根本は、高度専門職の養成、資質能力向上に、学校現場をベースとした理論と実践の往
還・融合の方式が有効かどうかにある。これを伝統的アカデミズムの意識から、単なる「這いず
り回る経験主義」などと一刀両断にすべきではない。少なくとも、こうした高度専門職独自の教
育方法は、学位課程であるかどうかは別として、アメリカのPDS(Professional Development of
School)などですでに20年以上も実績があることに目を向けるべきであろう。これは、法科大
学院から始まったプロフェッショナルスクールの制度と方法が、日本の教師教育改革の課題の中
で有効性を発揮できるかどうかの問題でもある。

 これは、また、教師教育改革の理論と実践、つまり教科専門と教職及び教育の技能の相互関係
にも関係する。確かに福井大学などの取組は、トライアルの性格を持ち、その実践的なアウトカ
ムの評価及び理論的な根拠づけはこれからの課題である。しかし、実際の物事の進行は、必ずし
も始めに十全な理論と関係者の十分な合意ありきではない。実際的課題に精力的に応えながらこ
れに理論的・学問的根拠づけと展開をつなげていくことこそ重要なのである。その点で、本書の、
教職大学院のカリキュラムなどについての他の諸論稿は、まさにそういう課題に応えるものとし
てあると言える。

 それにしても、課題は、言わば未知の領域に属するものでもある。大学での高度の専門知識の
修得と学校現場での学級づくりなどの具体的な指導法とをどうつなげるか。大学知と現場の経験
知とをどう結びつけるか。その点では、めざすべき高度専門職のための新しい学位課程(修士
及び専門職)のイメージは未だ十分に明示的ではない。ワーキンググループでは、これについて、
引き続き「カリキュラムイメージ」を煮詰めていくことになっている。ここでは、3で取り上げ
た、修士レベル化で求められる資質能力がどのように具体的に達成されるかについて、より分か
りやすいイメージ化が図られるであろう。

 もうひとつ、「報告(案)」は、教職大学院の拡充策と関連し、教科専門の教員について教職大
学院へのよりいっそうの担当を呼びかけているが、これも、当事者自身に問われるチャレンジン
グな課題であることを申し添えておきたい。

4)教職大学院と連携・融合した初任者研修

 「報告(案)」の制度設計で、新たに提起されたのは、修士レベル化の前述の三つのタイプの中で、「採用直後の「一般免許状(仮称)」取得を想定した取組の推進」であり、「教職大学院等と連携・融合した初任者研修の在り方について、教育委員会と大学との連携・協働の取組を進め、初任段階の研修の高度化を図る」としている。これをどう具体化するかは、地域毎の実情をふまえた段階的な修士レベル化の提唱の中で極めて重要である。

 これは、学校づくりと一体に、学校を生き生きとした意欲的な研修・研究の場とする発想からくるものである。そこでは、長期間学校の持ち場を離れることを余儀なくされる、初任1年目の教育センターなどでの校外研修の免除も可能とされている。現行の校外初任者研修は、入職年次毎で世代間継承になりづらい面がある。これを、指導力の高い校長のもと、教職大学院と連携して学校現場で実現しようとするものであり、すでに北海道など一部で開始され始めており注目される。
 
5)学部教職課程の改革
 
 「報告(案)」で、修士レベル化を高度専門職業人養成の基本方向として定めたことにより、学部段階(基礎免許状)と修士レベル(一般免許状)との仕分けと関連づけが明確になった。「学部で基礎的・基本的な知識・技能をしっかりと修得した上で、その土台に立って、大学院レベルで、・・・学校現場における実践とその省察を通じて指導の(高度の)知識・技術を修得する」、と。

 ここで、学部段階の養成について、教職への使命感と教育的愛情の形成をベースとしながら、教員としての基礎的な資質能力として、教科専門の深い習得と探求が当然の前提として位置づけられていることについて十分留意する必要がある。基礎免許状の内容として、明確に、「教科に関する専門的な知識・技能、教職に関する基礎的な知識・技能を保証する」とされているのである。

 教職はどんなに高度化しても、本来的に、他では替えられない「知」に関する専門職であることは忘れられてはならない。教員養成学部の教育課程において、専門教科と教職科目とを併せて教員養成を行っているのは、日本の教員養成の誇るべき伝統でもある。

 その上で、修士レベル化が設定されるからといって、学部教員養成が過去の「教養主義的養成」に先祖返りするとみなすのは見当違いであろう。現今の教職志望の学生の現状をよくふまえ、学校等の教育現場への参加を早期に多様に実施し、学校教育と子どもの実際とを幅広く体験的に理解させるとともに、探求的な姿勢やコミュニケーション力を意識的に育成する手立てが必要である。

 さらに、学部段階で、教科専門と教職、理論と実践とを有機的につなぐ努力は、日本の教員養成大学学部の永続的な課題であろう。この点について、「報告(案)」では、教科専門を「教科の実際に即して包括的に教育すること」、「教科担当教員と教職担当教員とが共同して授業を行うななど教科と教職の架橋を推進する」、「実務経験者について、教職大学院を修了した現職教員等指導者としてふさわしい教育研究実績を有する者の登用を促進する」、としている。

 前者に関しては、教科内容構成学として、岡山大学などで意欲的な取組が進んでいるが、未だ今後の大きな課題として残されていると言わざるをえないだろう。

 修士レベル化を見通した学部教職課程の改善に向けても、国公私を通ずるガイドラインとなるカリキュラムイメージが必要である。

6)多様な人材の教職への参入の促進

 大量退職・採用時代にあって、既存の養成枠組みに止まるのは適切ではない。いまこそ、社会人等多様で高度な人材の教職参入を大いに促進すべきである。これは、これまでも謳われてきたことであるが、免許法上の壁と学校関係者の拒否的反応の中で十分には進んでいない。

 「報告(案)」では、教職大学院等で、教員免許未取得者に2~3年で普通免許状とともに専修
免許状を出すことのできるコースなどを多様に設置すること(すでに兵庫教育大の教職大学院な
どで実績がある)、「理数系の人材や英語力のある人材等多様な人材が教員を目指せる仕組み」(履
修証明制度を用いた特別免許状の活用促進なども想定し、静岡県教委でオーバードクターを対象
に高校教員について新年度から実施予定)が提起されている。

 とくに高校(中学も含められうるが)の専門教科教員については、専門に強い優れた人材を積
極的に登用することができる方策を講ずることは、高校教育の質向上のためにも有効であろう。

6 むすび

 以上、中教審特別部会とその基本制度ワーキンググループの報告に基づいて、おもな論点について私見を述べた。「報告(案)」には5で取り上げた論点以外に、専門免許の具体的内容、現行専修免許取得のあり方の抜本改革、実務家教員の養成などを目的とする博士課程の教育大学院(ED.D)の新設など重要な提言もあるが、紙数の関係で割愛した。

 それにしてもめざすところはまことに大きな課題である。ワーキンググループ報告は、修士レベル化の基本目標を設定するとともに、それに向けての現実的な政策提言として、一歩踏み込んでいる。上述のように、それは十分現実性を持ったものではあるが、それにしても課題の大きさから言うと、事はそう容易に進むものではない。

 では、政策を実現可能にする要素は何であろうか。改めて、2で挙げた、教育政策立案の4つの要因が思い起こされる。

 いまここでそれを総括するなら、まず何よりも、教師と学校関係者などの当事者、教育委員会と教員養成に関わる国公私の大学関係者等が、目的とその実現について意志を共通に固めることが先決であろう。この点では、当の学校教師自身の修士レベル化に関する声が必ずしも強くないことが懸念される。教育委員会だけでなく、教師自身に大学不信が根強いのであろうか。また、個々の教師の授業料などの経済的負担が頭に浮かぶからであろうか。

 しかし、これだけ現実的な政策化が図られても、実現の道は容易ではない。それは、それだけ大きな改革、とくにかなりの財政出動が予想される政策には、政治の適切なイニシアチブが不可欠であるからである。そこは冷厳に見ておかなければならない。

 では、そうした政治のイニシアチブを突破する力はどこにあるか。私見では、やはり迂遠であっても、教師の資質能力向上とそのための修士レベル化についての国民世論の強い支持であろう。それは、また、本政策が目標とする、日本の学校と教師が社会や国民からの「信頼と尊敬」を確かなものにする道でもあるだろう。(了)

(2012年3月21日)

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若手教師の成長をめぐる断想

[ 今日一日、道教委の研修会に行ってきました。1時間ほどプレゼンもしましたが、昨夜それを作りながら、とくに若手教師の成長のあり方について、いろいろ考えをめぐらしました。プレゼンの周辺で考えたことを、まったく不十分で未展開ながらツイッターで思うがままに書いてみました。一部修文して掲載します。]

「今日、教育委員会の研修会で話したのだが、小中校を訪ねてかねがね不思議に思ったことがある。学校の教育目標として、「主体的に学び考える子」などの子ども像があれば、年度ごとの校長の「学校経営方針」、さらに「研究主題」などがあり、それらが整合性がとられないままになっていることが多い。

また、毎年作られる膨大な「教育計画」。その多くは指導要領などの切り貼りだ。しかし作成する労力は大変なもの。実際の教室での授業にはたいして反映されない。こうした学校の教育目標や教育計画を、もう少し整理しかつ簡潔なものにすべきでないか。こういう点を自発的に改善することなしに多忙を言うだけでは世間の理解が得られないだろう。会議などのあり方も徹底的に見直し簡潔化すべきだ。

ある学校では、職員会議はほとんどなしで、毎日の学校運営は校長教頭教務主任などで常時検討し、直ちに関係教員に伝えるようにしていて、それで生み出した時間を校内研修に当てているという。一朝一夕でできることではないが、望ましい学校運営あり方の一つである。

教育委員会の研修会で提起したもう一つ。教師個々の教師力と、学校組織の一員としての教師力がしばしば区別されないまま使われていること。発問、板書、説明、指導言などの具体的なあり様は、ほぼ個人の資質で「属人性」が強いことに留意すべきだ。いま大事なのは、そういうものだけでなく、チームの一員として学び合いながら形成していく教師力ではないか。

新任教師など、力不足の場合すぐ学級崩壊になると言う人がいる。しかし新任教師に、最近はほとんどのクラスにいる発達障害の子や「学習拒否」の子、深刻ないじめなどを一人で解決せよといってもどだい無理な話だ。それはまさにチームとして対応すべきこと。ベテランだって実際の対応は難しい。

特別に難しい事例の解決力や、見事な発問や指導言など名人的な技量を若手教師に求め、それに関する講座や教育書が拡がるというのにはやや疑問がある。若手教師は、「普通の教師」としての基礎的な技術をまず身に付けるべきだ。発問は極めて大事だが、名人的な発問など、何回かはあっても1年を通して全ての教科でなんてありえないことだ。

先日、ある小学校で、採用2年目の教師が、授業が始まっても教科書も開かない二人の「学習拒否」の子の扱いに苦労している様子を見てきた。二人のことで彼は夜も眠れないほど悩んでいるという。それに対して、問題児だけに関わりすぎると必ず学級崩壊が起こるから「スルーする技術」を持つべきという人がいる。

このアドバイスはちょっと無責任だ。教師として学習に参加しない子のことで悩みいろいろ工夫するのは当然だ。先輩が言うべきは「スルー」(っておかしな言葉だが)する技術でなく、そうした難しい子の事例を教えてやったり一緒に工夫したりすることだ。保護者との連携を含めて。解決の基本はチーム力だ。

若い教師に完全や失敗なしを求めるのはそもそも無理。むしろうんと失敗し悩んだ方がいい。それを先輩が、自慢話やお説教でなくアドバイスする。そもそも教育活動では、個々の事例は固有性が強く、どんなベテランの「極意」であっても一般化は出来ない場合がほとんどではないか。これに無自覚に、スキルやテクニックを振り回すのは問題だと思う。

若い教師がまずもって身に付けるべきは、授業法や学級づくりや生徒指導の基礎基本だ。教師の成長プロセスを見通して、それを「教師力のミニマム」として基準化するべきだと思う。ただし、チェックリストで10も20もばらばらに項目を並べるのでなく。

「教師力のミニマム」、初任段階でぜひとも身に付けるべきは、単純化すると、各授業、単元、教科で何を教えるかという「課題の明確な押さえ」と、子どもをよく観察してそれをどう伝えるかの基礎的な技術だと思う。その上で、子ども理解に関わって、学習の定着の把握を加えた方がいい(指導と評価の一体性)。これらのことは、100人初任者がいれば、少なくとも7,8割が習得できるものでなければならないだろう。

学級経営は極めて重要だが、「日々の授業の中で」つかみとる子ども理解、子どもとのコミュニケーションの基礎的技術が優先されるべきだ。高度な学級経営や深刻ないじめ解決などは、一定の経験を経なければ難しいのが普通ではないか。それはチーム力で補い、かつ先輩が導く。基本は、まずは一人前の教師として一人立ちさせることだ。

その上で、しかし、経験だけに頼ってはならない。自分の実践に応じてどんどん教育書などを読むべきだ。そもそも教師力というのは、教育に関する「知識と技能とが合体したもの」であって、知識なしの技能はありえない。かつ、いまは、誰もが踏まえるべき発達障害やITなど、必要な知識は多いし高度でなければならない。

初任段階では大変だろうが、指導書や実用書ばかりではいずれ息切れする。現代の教育課題に確固とした見識と実践力を持つのには、時に教育論や教育学研究に立ち返る必要がある。それが「探究心」と「応用力」「課題解決力」を形成する。これがないと、長い目でみて「ルーティン教師」になって「のびしろ」が無くなってしまう。だから、中堅も問題だが、初任時期、初任後5年間くらいの教師力の形成のあり方が大事なのだ。
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教育の目的をめぐってーコラム4題

[日本教育新聞に4回にわたって書いた教育コラムを、社の了解を得て掲載します。]


「社会の目と教育の目」(6月3日)

 もう20数年前のことだが、北海道教育大学で国際交流を担当していて、ロンドン大学の大学院留学生のために、銀行の幹部を講師に招いて日本経済セミナーをした。

 当時イギリスはたそがれのロンドンといわれ停滞の真っ只中、対する日本は、高度成長のピークだった。セミナーの最後に講師が、20年後日本経済はどうなるだろうと問いかけた。

 経済専攻の一人の院生が答えた。「必ず停滞するだろう、なぜなら今のイギリスと同じように、子どもや若者が一生懸命勉強したり働いたりする意欲を失うから」、と。

 予測は当たった。誰が現在の日本経済の停滞と中国、韓国、インドなどの興隆を想像したであろうか。

 今、日本復活のためには教育再生だと、安部総理はじめ多くの人が論じている。グローバル社会を勝ち抜く人材とそのための学校教育を、と。

 教育は、こうした社会の要請にそのまま応ずることはできないし必要もないと思う。

 福沢諭吉も言っている、「政事は活発にして動くもの」であるのに対して、教育の動きは静かであり緩慢である。

 しかし、学校教育が社会の動きから離れて、ただ子供や若者に寄り添ってその成長を促すだけで済むわけでないのも事実だ。

 社会の目と教育の目の複眼が必要だ。確かに、日本経済だけでなく、世界は今大きく構造的変化を模索している。これを軽視した教育論は無力だろう。

 しかしそれは、あれこれの「活発な」政治言説に追随することではあるまい。教育が社会の力にならなければならないとするなら、政治の臨機応変を乗り越え、社会の新しい姿を構想するような透徹した教育の目をこそ磨きたいものである。

 20年後、人々が、少しはましな世の中になったと言えるように、教育がどんな風に役割を果たしていくか・・・。教育に携わる者の課題は重い。


「何のための教育か」(6月10日)

 学校を訪ねたり、世の教育書を手にとっていつも感ずることだが「どのように」が多すぎるのではないだろうか。「どのように」の前に「何のために」がある。

 教育の目的と言えば、教育基本法だが、これを読み解くのはそう簡単ではない。「国家及び社会の形成者」としての「国民の育成」と、「人格の完成」「個人の発達」の2重性がある。それはしばしば対立的に論じられる。個人か社会か、教え込みか子ども自身の学びか、学力か人間性かなど、教育論上の対立の多くはここから出てくると言える。

 先日こんな話を聞いた。小学5年生の女の子が母親と勉強の意味についてやりとりしていて、「ちゃんとした大人になるために勉強しなければ」との母親の話に対して、娘が「担任の先生は、勉強よりもっと大事なことがある、人に優しい人間になることだと言っていた」と反論したというのである。

 「ちゃんとした大人」になること、教育基本法で言えば「社会において自立的に生きる」基礎を培うことは、公教育の基本的な目的であり、学校はそのための資質能力、とくに基礎的な知識や技能を磨く場である。

 確かに現代社会の大きな構造転換の中で、教育と次世代に求められる資質は盛りだくさんになってきている。しかし、押し寄せる資質能力の波に、ブレたり無気力になってはならないと思う。必要な資質を見極める「教育の目」が必要である。その基本は何か?

 私見では、学校が社会に約束すべきものが「知識と技能」であり、かつそれが創造力や社会関係形成力に確実につながることに関する確信ではないか。

 学校は何よりもまず知の伝承と開発の場である。知を通してはじめて創造力や規範意識は拡がりを持つ。そうした確かで延びゆく知を備えた次世代が新しい社会を担っていくのである。そこに教育の希望がある。知に倦んだ教育は教育ではないと思う。


「社会で自立的に生きる厳しさ」(6月17日)

 ある青年の話である。

 高校卒業後、もともと勉強があまり好きでなく、早く働きたいと3次下請けの建築機材を作る小さな工場に勤めた。10年ほど真面目に働いて結婚し子どもも生まれた。

 しかし例のリーマンショックで工場は閉鎖になり解雇された。30代半ばにして初めての人生の危機である。これからの仕事や家族のことを考え、幾晩も眠れない夜を過ごした。ずいぶん迷った末、彼は、とにかく手に職を付けようと、電気工事士の資格を取ることにした。後に語ったことだが、生まれて初めて必死に勉強したという。それも、直流と交流など電気や理科に関する基礎知識である。

 めでたく一発で国家試験に合格し、いま小さな電気工事店で地道に働いている。

 いまどきありふれた話だが、ここには「社会で自立的に生きることの峻厳さ」が如実にある。かつそれを支えるのが、まさしく学校教育での基礎的な知識と技能の習得であることが。

 もちろんこれは、「国家及び社会の形成者」としての「国民の育成」の半面でしかない。もう一方で、変化の激しい社会で、社会を支えるだけでなく発展させる高度の資質が必要である。

 ここでもしかし、あれかこれかではない。むしろこう言うべきではないか。社会で自立的に生きる厳しさを踏まえることなしに高度の資質もありえない、と。

 大人も学校も、子どもたちに対してこの厳しさをしっかり伝えることを避けたり、曖昧にしてはならないと思う。目指す「成熟社会」なるものは、各人が好きなことを好きなようにできる社会ではあるまい。

 こうした厳しさを踏まえた上で、課題は、基礎的な知識や技能を確実に習得させるとともに、これをどう課題解決力や創造的な思考力など高度の資質に発展させるかである。それに対する答はやはり、「教育の目と論理」にしかあり得ないだろう。


「『生きる力』の在り方を問う」(6月24日)

 昨年12月、変化の激しい21世紀の国際社会を生き抜いていくのに必要な資質能力を明確にし、それを踏まえた教育目標や内容を検討するための会議が文科省に設置された。次期学習指導要領改訂に向けた準備でもあり、第一線の教育学者が参加している。

 当然そこでは、OECDのキー・コンピテンシーや21世紀型スキルなどの「新しい能力論」と、新学習指導要領が継承を再確認した「生きる力」があらためて検討素材になっている。学力か人間性か、教え込みか主体的学びか、などのあれかこれかを教育現場の実際に即して乗り越えるまとめになるかどうか注目される。

 一つ率直に問いかけたい。平成8年以来引き継がれてきた、「知徳体のバランスの取れた力」と言われる「生きる力」のコンセプトはそのままでいいのか、と。

 そもそも、基礎的知識技能を活用した思考力等を含む確かな学力と、人間関係形成力や規範意識とはどう関係するのか。基礎的知識技能の習得がどのように「自ら課題を見つけ考える力」になるのか。知識の習得や活用のベースたる学習意欲や「粘り強く課題に取り組む態度」はどう形成されるのか。

 これらを説得的に解明することはそうたやすくはない。しかし、学校現場では、学力向上もいじめ根絶も学習習慣確立も、常に同時に進めなければならないのである。

 「生きる力」はあくまでも広い意味での「知の在り様」として展開されるべきだと思う。自己であれ社会であれ対象世界と知的に関わるところに教育の論理がある。

 福沢諭吉は、文明化を「智徳の進歩」に求めた。「徳は智に依り、智は徳に依り、無智の徳義は無徳に均しき」が彼の確信だった。福沢は言っている。「人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶し出だすべしと思うが如きは、妄想のはなはだしきもの」だ。頂門の一針とすべき一文である。

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これからの教師像ーある若手教師の実践に触れて

[ 先週、若い小学校教師の1年間の実践まとめの発表を教育人間塾でたっぷりと聞きました。素晴らしいプレゼンテーションでした。それに触発されて、これからの教師の在り方について断想を書いてみました。あくまでも断想で、表現上必要以上に断定的に書かれているところがあることをお断りします。]

発表は、「学び続けること」をがっちりと教育の目的に据えて、自ら学ぶ力を子ども達の学び合いから生み出し、かつこれを膨大な子ども自身のノートとして「可視化」するもの。形に偏した学び合いや協同学習の限界を乗り越えるものだと思った。

同席していた保護者も、我が子の変貌を驚きをもって語っていた。ベテランの優れた校長、中堅教師、民間の経済人もその迫力に圧倒されたよう。このような力のある教師がいることは日本の教育の希望だ。

思うにこの若い先生の実践の迫力の核心は、個々の教育書や教育界のリーダー、時の教育政策などに流されないで、自ら徹底して考え抜いていることだろう。

よく言われるように、日本の先生方は国際的に見てもかなり高いレベルだと思うが、いつも気になるのはこういう自前の思考力だ。

自らの実践に貫通する思考力、探究力。実践からの本物の省察力。あまりに諸々の政策や教育書の受け売りや右顧左眄が多いのではないか。校長など学校リーダーもそうだ。決まり文句の学校言説に時にやりきれない思いがする。もう少し自分の言葉で自分の教育を語る努力が必要ではないか。

教育報道や時の政策であれこれ迷わず、事実と諸理論、政策を自ら分析し自分の考えを持つことに努めてほしい。そしてそれを自分の実践で検証する。さらにそれを同僚と議論し確かめ共有していく。これからの教師は、確固とした教育観、理念とその実践による検証の姿勢抜きに教師の仕事を全うできないのではないか。

教育観、理念を追求する上で大事なのは、教育言説につきまとうあれかこれか、教え込みか自主性か、一斉指導か協同学習か、集団か個人かなどに囚われないことだ。かつそれら一面を誇張的に主張する流派や学説に流されないことだ。そういう言説にはまず疑いの目で臨んでほしい。発表した教師は、ずいぶん教育書など学んでいるようだが、こうしたあれかこれかの議論に、まったく囚われていないのは素晴らしく、希有なことだ。

もちろん授業法や指導法、その技術スキルは大事だ。学級づくりも保護者との対応も。それらは教師の資質のミニマムだ。しかしそれらを学校世界の枠組の中でだけであれこれの流派に拠って追求しても、これからの教師は行き詰まるように思う。社会の中で学校や教育がどういう意味と役割を持つのか抜きには。今の学校や教育はとてつもなく「社会化」しているのだ。

そのために、自分の生徒や保護者、同僚だけでなく、つねに教育政策や教育理論を広い視野で学ぶ必要がある。特に社会と教育の関係を。

もう一つ、個々の教師にとって学校教育がこれだけ「社会化」している中で、個々の教師の個々のパーツ化された資質向上では事が済まないということだ。学校の一員としてどう力を発揮するかを欠かせない。どんなに優れた教育実践であっても、その先生がいなくなったら消えていくようなことでは本当の成果とは言えまい。

まして一定の授業法や技術、考え方を特定の集団で教義のように固守するなど論外だ。戦後何度もそういう硬直化した研究団体の弊害があった。もうそろそろそういう志向を終わりにしてほしい。教師は特定の指導法や主義主張で群れてはならないと思う。

若い先生方が種々の民間研修講座などに参加することは有意義だ。教育書もどんどん読むべきだ。しかし自分の学校の実際から逃避しないでほしい。勝負の場は自分の学校だ。各種講座や教育書はあくまでも「参考書」にすぎない。学校や教育委員会の研修体制の現状は大問題だが、その中で実践と省察を続けることに努めてほしい。

若い先生方は、まずは自分の学校の実践の中で教師としてのミニマムな力を付ける必要がある。大学で教えて貰わなかったなど言う前に。そもそも学校での実践を離れて学び得ないものなのだ。そしてこのミニマムは、ほとんどの教師にとってそう難しいことではないと思う。子どもへの接し方、話し方、発問、板書の仕方、学級のまとめ方等々。初任の人も、半年くらい無我夢中でやりきると最小限は身につく。

時にあまたの教育実践書が、何か完璧な指導法を唱えているかに読めることがあるが、そうした完璧をなぞるのではミニマムも手に入れられないかもしれない。

個々の教師の日々の実践に完璧はあり得ない。不完全性や未熟、弱点を含みながら成長していく教師の資質の在り方を論ずる必要を痛感する。教師力の<ミニマム>、<+アルファ>、<独創力>などを区別して。

問題はミニマムの先だ。ミニマムから+アルファーをつける。きらりと光る授業とか子どもとの関わり合いなど。さらにそれを、自分なりの授業法、指導法としてどう磨いていくかだ。ミニマム+アルファくらいで留まって自ら学ぶことが少なくなり、ただ日々を忙しく過ごす教師にならないように。そのために何が必要か。

簡単に言って「探究心」だと思う。なぜこの授業で子ども達が乗らなかったのか、子どもが分かるというのはどういうことか、なぜあの子は荒れるのだろう、どうしたら一人ひとりが張り切って学ぶようになるかなど、問いは無数にある。これを問い学び続けること、ここにしか教師の自立と成長はないと思う。そして自らの教育の結果を直視すること。

教育では結果ではなくプロセスこそが大事だとよく言われるが、疑問だ。今の教育で、結果を直視しない「主観的教育観」ではやっていけない。そもそも結果を直視することを通してしか探究心は持続しようがないではないか。結果は自分の心の中にだけ(精一杯やったなど)あるのではない。教育の結果は何十年先にしか言えないなど言う人がいるが、それを気休めにしていては足を掬われる。

今回の若手教師の実践で、理屈抜きに感心するのは、自らの実践の結果に関する「可視化」の手法の徹底だ。子ども達が自ら学び続けるように、教え合い、学び合い、協同学習を徹底するだけでなく、それを「ノート」として毎時間最後の15分かけて「書かせる」のである。1年分、5年生全員のノートの量は膨大なものだ。子ども達はそれを積み重ねながら、自分の学習を自己確認することができる。

おそらく彼の独自の指導法は、そうした可視化の意識のもと、学校内で「開かれた」ものとして成り立っていて一定の評価を得ていたのだと思われる。どんな教育法も指導法も、秘教的、秘術的なものではありえない。

どんなに辛くても、教育の結果と評価をためらってはならないのではないか。しかもありきたりの自己満足的評価ではなく、社会に説明できる形で。

教師歴10年、去年4月に他県から望んで札幌の小学校に来て1年の若い教師の実践に、これからの日本の教育の未来を見た想いだった。
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「インターン制」の報道に関して

4月14日の毎日新聞朝刊で、教員養成制度について、自民党内で、まず「『准免許』を与えて学校に配属、数年の試用期間を経た上で本免許を与える」「インターン制度」案を固めたとの報道がありました。

かつ、筆者も加わっていた、昨年8月民主政権下でまとめられた中教審答申の「修士レベル化」について、「事実上凍結か」とあります。

これに関して、まだ正確な状況は分かりませんが、とりあえず私見を書きます。

今回の案は、昨年末の選挙公約にもすでに出ていた方向で、それが新政権のもと与党の文教政策関係者の中で固まったということのようですが、是非は別にして実際にこの方向で制度・法改正をするのにはかなりの難問があります。

昔何度か出ていた「試補制」に近いものかと思われます。しかし現実化は、財政措置や法制度上そう容易ではありません。(なお「試補制」はドイツで長くやってきている制度です。大学卒業後国家試験を経て、2年間、教育行政機関に置かれた訓練コースでおもに学校実習をした上で正式採用するというもの。しかししばらく前から、試補期間の中身・質が問題になり、修士化の方向に見直しされ始めています。これは民間企業などのOJT見直しと軌を一にするものとも言えます。)

法制度的には、免許法上、「準免許」と「本免許」を、教員の身分、資格、教育課程上の役割、教員組織の中での位置づけを的確に規定することはなかなか難しいところがあります。準免許の間(3年から5年)、現行の1年間の「試用期間」と同じ扱いにするのか、一定今のままでなく権限や責任について限定するのか、膨大な数のすでに任用されている教師をどうするのか、そのまま「本免許」に切り替えるのか、であれば、教員の資質チェックは新採用教員にしか及ばないのではないか、免許法上で「準免許」「本免許」に変えると一気に全国で適用され、実際の運用上教委、学校等で膨大な作業と予算措置が必要になるのではないか、などの難問がすぐ出てきます。

アメリカでは、州によって似た免許制度がありますが、それは上位免許への上進制(研修によりステップアップを義務付ける)として制度化されていて、今回の「準免許」「本免許」とは違います。

これらの詳細は今は措くとしても、問題の核心は、インターン教師を補ったり指導する教師の確保のための膨大な財政措置と実質的な体制なしには、つまりは準免許の間、学校現場で誰がどう資質を上げる指導をするのかの体制なしには、「単なる選別制度」で終わってしまということです。さらに、すでに始まっている大量退職大量採用の状況の中、現行の1年間の試用期間の単なる延長になり、結果的に「選別」も形の上だけということもありえます。

制度化が用意周到に行われなければ、毎年3~4万人採用される教員について、むしろ膨大な徒労と無駄な仕組になりかねません。つまり選別もあるとして大量に3年間雇いながら、実際には予算不足で担任までさせ、結果的には辞めさせたりの「選別」にもならないかもしれない。ざるでしっかり選り分けると大がかりな仕掛けを作りながら、実際に選り分けられたものはざるにかける前とたいして異ならない。それなら、そもそもそこに流す材料を最大限良質なものにしていった方が余程いい、ということになりかねません。

また、今回の「インターン制」では、「期間中、学校長が勤務態度や授業の状況、課題への対処能力を見極め、基準を満たしたと判断すれば、教委から『本免許』が交付され」るとされ、記事は「『教員の質』について、校長・教育委員会が責任を持つ点が特徴」としていますが、資質向上の中身が伴わず、結局教員として継続ということであれば(事実上それが大多数になるでしょう)、やはり大仕掛けなわりにまさに有効性を欠いたざるのようなものと言わざるをえません。個々の校長にとっては、自分なりに鍛え厳しくチェックしたのだから有意義と思われても、全体としてみれば事実上、資質向上だけでなく、当初意図の「選別機能」も発揮され得ないのです。

要するに、教員の適格性を厳格にするといっても、少子化と大量退職・大量採用の時代、特定の段階で選別機能つまりネガティブ機能だけを発揮させようとしても無理なのであって、ポジティブ機能である資質向上策がいずれにせよ不可欠なのです。

さらに言えば、以上の法制度上の問題がある程度クリアーされるとしても、こうした教員の免許状の扱いがそもそも保護者や世論から理解と支持が得られるものでしょうか。大事な公教育で、3年後正規教師になれるかどうか分からない教師に担任されたり教育されたりすることが、納得されうるものでしょうか。

現在も期限付き(多くは1年)フルタイムの新規採用者の大幅増で、同様の危惧が生じているのですが、今度は、新規採用のすべてが似た環境に置かれることになってしまうのです。例えば、教員30人の学校で、その内少なくても5〜6人、場合によっては3分の1の教師が準免許や期限付きフルタイムの教師ということになりかねないのです。実際には準免許制になると期限付きフルタイムとの区別の意味が薄れますから新採用は全部が事実上現在の期限付きフルタイムと同じようなものになるとも言えます。

こうした不安定な身分の教師による教育が制度となって拡がることが、公教育の質の向上と言えるものでしょうか。国際的に見ても、極めて変則的な制度となってしまうでしょう。

ある若手の小学校の先生が、「全体を高めるのではなくて、今を低くして(准免許)スタートさせるというのは志が低い」とツイートしていましたが、まさにそういう志の低さの「危うさ」を感じさせます。


翻って、昨年8月の中教審答申の「修士レベル化」は、諮問当初の「6年制」という民主政権の方向付けもあり、かなり誤解されて報道されました。繰り返しいろいろなところで書きましたが、答申は、単純な6年制や、修士にすれば万事解決というものではまったくありません。

財政状況や教員養成大学、教育委員会、学校現場の現状をふまえ、「段階的に」多様な方法で長期的な見通しで修士レベル化を図ろうとするものです。

かつ、その必要性の前提には、フィンランドなどの直輸入でなく、この20年以上行われてきた法定の初任者研修や10年目研修などにも拘わらず、学校現場だけでの資質能力向上には限界があるというリアルな現状認識があります。もう始まっている大量退職大量採用で、学校現場では教員の年齢構成も大きく変わりつつあり、新任や若手教員を育てる機能が大幅に低下してきているのです。

そういう認識に立って、答申では、すでにいくつか先進例のある「学校拠点方式」、つまり学校に勤務しながら、大学ー教育委員会ー学校が緊密な連携をして若手教員の資質能力を確実に上げる方向が提示されています。

例えば、学校の年間を通した活動の中で、副担任等として日常の教育実践に携わりながら、メンターである先輩教師や大学から通ってくる教員から指導を受け、かつ週1〜2日は研修に専念し、さらに学校での自らの実践を教師の在り方として厳しく振り返り、一定期間の間に自立した教師として独り立ちできるようにする、といったプログラムです。もちろん、こうしたプログラムのバリエーションは多様にありえます。

ここで何よりも大事なのは、若手教師の資質形成が、単に個人の資質としてではなく、学校という組織の中で協働的にシステマティックに行われることです。そしてそのためには、これまでの、「養成は大学、採用・研修は教育委員会・学校」というような断絶した状況を根本から変え、養成・採用・研修を一体的に進める体制を作り上げなければなりません。これが去年の8月の答申の根本精神だと考えます。

前述のように、今回の「インターン制」にはいろいろ難問があり、まだまだその通り実施されるかどうかは不透明です。かつ、国の教育政策として、一回中教審答申になった政策は、簡単に破棄されたり凍結されたりということにはなりません。政策の継続性、系統性をまったく無視することはできません。

また、答申ではっきりと打ち出された「教職大学院の量質の充実」に関しては、修士レベル化と直ちにつながるものではなく、それ自体は、「学校拠点方式=現場重視」という教員養成改革のモデルとして重要な内容を含んだものと言えます。それに、もともと教職大学院は、前安倍政権のもと教育再生会議の提言によって創設されたものです。

今回の報道で、「これで修士レベル化はダメになった」、とか、「教職大学院は法科大学院と同様もう未来はない」などど即断すべきではないと思います。今後の教員養成、採用、研修をトータルに改革する幅広い視点から、関係者の間で丁寧に議論が進められるよう切望します。
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学校の教育目標と教師の力量

[ 教師の専門性、教師の資質能力向上、学校の教育目標について、ツイッターで連続ツイートしたものをまとめて掲載します。あくまでも大まかなデッサン、問題提起でしかないことをおことわりしておきます。]

1 「学校の教育目標」について

以前から、小中校を訪ねる度に不思議に思うことがある。どの学校も「教育目標」があり「すすんで学ぶ子」とか「思いやりのある子」とか掲げられている。同時にどの学校も、膨大な年度ごとの教育計画があり、そこでも本校の重点目標等が詳細に書かれている。さらに校内研究があり、3年単位とかで、いろんな研究主題を持った研究が行われ、時にその成果が公開研究会などで発表される。

不思議というのは、これらがさまざまに「教育目標」と謳われているが、それぞれ視点が違っておりどう繫がっているのかの説明があまりないことだ。各学校のホームページを見るとよく分かる。これはどういうことだろう?一番分かりやすい「すすんで学ぶ子」などは教育目標というより追求する子ども像だろう。

教育目的は教育基本法などで制度的に定められているが、目標はおそらく学教法などに基づいて各学校が定めるものだろう。そして学校がどういう目標に向かって教育を行うかのかを校内外に示すのは、今の時代大事だろう。しかし案外、具体的な目標としては明確ではないのではないか。

当該学校として、知徳体にわたってこういう理念のもとにこういう目標を立てて教育に努めているということが、どのくらい各学校ではっきりと教師の間で共有され外に表明されているか?いろいろ書かれてはいるが、実質は案外希薄なのではないか?時に明らかに不整合だと思われるのもある。

考えられるのは、学校というのは日常の授業、行事、生徒指導などで常時ルーティンの仕事があり、かつ各先生方の教室での授業がコアであって、あらためて学校の教育目標など議論して定める筋合いでもない、という発想があるのかもしれない。それは各先生の指導要領に基づいた教育の中で具現化されている、と。

そうした学校日常の事実は分かるが、それでいいのかとも思う。昔の学校と異なり、学校教育は各教師の教育活動の総体だと済ませられない状況がある。学校は社会制度の中にがっちりと組み込まれている。だとすると、各学校はそれぞれ自ら教育目標の原則と具体的内容を明示しなければならないのではないか。

教師の力量向上のためにいろいろな技術を磨くことは大事だ。新しい授業法を積極的に取り入れることも必要だ。しかし、教室で各教師がそれぞれかなり違った理念と目標で教育を行っているとしたら、学校としてはいかがなものか。ある先生はとにかくまず学力だ、ある先生は勉強より人間性だよ、などと。

今の学校は、個々の先生方が腕を磨くだけでは不十分だと思う。その力が学校として発揮されなければ世間の評価を得られないだろう。かつ、個々の先生の技術は、教育法の多様化の中そう簡単にこれがベストとは言えない状況にある。学校として学びの共同体をやるというのもありうるが、評価が確定していない一定手法の導入はそう簡単でないし要注意だ。

そこで、学校として先生方が共有しなければならないものと、各先生それぞれで発揮されるスキルとを区別することが必要だと思う。共有すべきものの基本は目的を踏まえた教育目標であり、かつそれを達成するために先生方が共通に実行できる種々の指導スキル・指導ツール(ノート指導等)だろう。

未だに学校の研究授業では、板書、発問、机間巡視の仕方など個別的な授業スキルが評価の対象になることが多いが、これは個人的スキルに属する。これらを超えて共通化できる指導法の課題は何かが大事ではないか。それとともに、学校の教育目標の本音での共有化が。

要するに、現代の学校で、社会の中の組織体としての学校自体の役割と、その一員である個々の教師の役割との区別と関連を改めて整理しなければならないのではないかということだ。牧歌的に個々の教師の自由とその平等性を叫ぶのも、企業のような縦系統一本の利益共同体を求めるのも不毛ではないか。

そして、両方の一面化を超えた社会の中の学校のあり方のコアになるのが、教師が共有し学校外に明確に伝えられるべき「学校の教育目標」だ。これは案外、必要とされる学校長のリーダーシップと各教師の力量・意識とのせめぎ合いの中で難しいのだが、これからどうしても乗り越えられなければならない課題なのではないか。

2 教師の未熟性と成長について

ネットで評判になっている東京造形大学長の式辞を読んで、ちょっと考え込んだことがある。式辞のポイントは、大学で学ぶ意味について、「経験という牢屋に閉じこもってはならない」ということだが、関連してツイッターで若い高校の先生の次の発言があった。

「この時期、担任は『いいクラスにしよう』と意気込むもの。 でも教員が目指す「いいクラス」は、いつしか「教員にとって都合のいいクラス」や、『いいように見えるクラス』にすりかわることが多い。 誰にとっていいクラスなのか。簡単なことのようで、常に自問しないと、目的がたやすくすり替わる。」

今の時期、書店の教育書のコーナーに山積みされている教育実践家の本や記録、アドバイスを読んでいて時に感ずる。それらは授業なりクラス運営などが凄く上手に、時に完璧な形で描いているが、だとするとちょっと違うのではないか。

授業や生徒指導ってそんなに隙無く行われなければならないものだろうか。教育で教師の指導性の意義を十分に認めた上でも。素朴な言い方だが、教育は教師の働きのもとでその対象である一人ひとりの子供の学び成長が課題だろう。ここがいつの間にか抜け落ちていないだろうか。

教員養成における技術知、経験知の意義をいつも強調しているが、それは技術知などの「限界」をわきまえた上でのことだと思っている。教育における経験知は人の真似ではなくあくまでも教師一人ひとりで自ら実践と理論の中で見いだすべきものではなかろうか。

教師の未熟性と資質能力向上との間は1/0の世界ではないと思う。むしろ未熟性を抱えながらそれが子供達に教育的意義を持つことは大いにある。クラスはいつも整然として、クラスの全員が生き生きとそれぞれに役割を発揮して活発でなければならないものだろうか。

教師はいつも見事に発問し、子供達をわくわくさせ、クラスを掌握しなければならないものだろうか。若い先生方は先輩や優れた教育書や実践に大いに学んだ方がいい。それは確かだが、未熟と成長は常にプロセスにあることを忘れるべきでない。これを身につければ名人になれるとかの思い込みは不毛だ。

若い教師に手っ取り早い早道はないと思う。教師の力はマジックではないのだ。実践知も基本自分で磨かなければダメだ。そこにプロフェッショナルとしての教師の資質向上の基本的方法である省察(リフレクション)の意味がある。未熟を懼れる必要はない。そこからの成長が大事なのだ。未熟でありながら自ら学びつつ力をつける教師像を考えていきたい。

3 「教えることの専門性」ないし「教師の専門性」について

ツイッターである人がこう書いていた。

「小学校の先生は自分を教育の『専門家』だとは思っていないフシがあるんだよね。小学校こそ『専門家』としての力量が問われるだろうに」、と。

これに関連し、東京の若手の小学校の先生がこう書いた。

「多くの人は『1時間なら』自分の専門性を生かしてプロの教師よりも優れた授業ができることが多いと思います。ただ、それを6年間、3年間できるかというとそうではないはずです。」

別の文脈だけれど、ある評論家が面白い言い方をしていた。

「畳屋に『お前の作る畳は話にならない』と言う人は少ない。畳屋より上手に畳を作れると思っている素人は滅多にいないから。でも、教育には、多くの人が一家言を持っていて、その彼らは、内心、自分がやれば専門家よりうまくやれると思っている。『やってみろよ』と言いたくなりますね。私が教師なら。」

これは端的で分かりやすい話だ。

これらの発言をきっかけに、「教えることの専門性」の意義ということで論じてみた。

実際に、学校という組織体を抜きに継続的に子供を教え導くことはまず不可能。アメリカではホームスクーリングがかなり拡がっていると言われるが、それを鵜呑みにしてはならない。このことをもっと先生方は主張するといい。それが教師の専門性だと思う。しかし一つ問題がある。

「教えることの専門性」は小学校で一番純粋に発揮されるが、中高大に行くに従って「専門を教える専門性」になっていく。中高の先生方の多くは、「専門」というとまずは「教科の専門性」を頭に浮かべるのではないか。

未だに何と教育の専門性を「教科の専門性」とほぼイコールに、あまり自覚しないまま思い込んでいる人が多いことか。教員養成大学学部の教員の間でも牢固とした観念だ。

これを乗り越えない限り、教員養成大学学部はいつまでも限界を指摘され続けるだろう。どう乗り越えるかはそう簡単ではないが。今、国立の教員養成大学学部は、あらためてその「ミッション」が国から厳しく問われている。

これに対して、「教員の専門性と教科の専門性は切っても切れないのではないか」という反論が当然ありうる。

たしかにそれはそうだが、「教えることの専門性」を基本に置き、教科の専門性をそれにきちんと活かすことが大事なのだと思う。

単に職業的に教職の専門性、プロフェショナリズムを問うことは、教育学上でなされているが、もう少し包括的にこれを「教えることの専門性」としてとらえ直す必要があるのではないか。暫定的に次のように整理してみた。

「教えることの専門性」とは何か。深い人間・子供理解をベースにしつつ、実際に教科を中心に子供を適確に指導し確実に成果(学力等)を挙げられること。教科+教育諸科学(教育方法学等)を学問的基礎にしつつ、それが教育技術・わざとして具現化されなければならない。

簡単に言うと、従来の教授学・教育方法学をもっと子供の発達に即した方法として展開し、これを教育の本質である知識の教授=学習の核になる教科内容に即して、一定の教育技術にまで具現化されるものと言えないか。

それは、明確に教科内容自体とは区別される。かつ、かつての教授学のように、技術を抜きに教育方法を理論の範囲内で抽象化したものではなく、あくまでも技術やスキルとして実践の中で具現化されるものである。

これは、上述のように、小学校でもっとも純粋に「教えることの専門性」として観察されうるが、中高、さらには大学でも、教育というアスペクトにおいては、教科内容を超えて固有に成り立つものであり、教師である限りそれを習得することは義務であり、教師の専門職性の基本的な根拠である。

さらに、このような概念付けは、教職の専門性を教科指導の範囲に押しとどめるのでなく、子供理解に即して子供の成長発達をうながし導くという点で、生徒指導や学級指導等にも密接する。

もう少し幅広く、教えることの専門性を教師自身が主張展開し、それを社会が認めるような状況が切に望まれるのではないだろうか。道はそう容易ではないが、まずは教師自身が、教えることの専門家の自負と力量をそなえることが先決であるように思う。
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「3.11から感じた命と平和ー国境を越える新世代」

3月23日に札幌ロータリークラブが主催した上記の集まりに参加しました。東北大震災から2年、ちょうどいい時期に行われ、かつ中身もたいへんいい集まりでした。

特筆すべきは、参加者500人の内、ロータリーの応援で被災地のがれき処理などのボランティアに行った人を含めて、高校生が100人も参加してくれたことでした。かつ、集会の最後の方で、その代表の二人が、堂々と被災地で実際に感じたこと、これから何をすべきかを発言しました。集会のタイトル通り、まさに「国境を越える新世代」のための集まりになったように思います。

第1部は、アメリカ人の若い女性報道写真家アリソン・クウェッセルさんの報告。インド、ミャンマー、アゼルバイジャンなど世界各国で貧困や汚染やポリオの現実を報道してきたアリソンさんが、1年前から福島の新地町に入り、すっかり地元の人と心が通じ、被災地のあまり知られていない実際を広く発信しています。

素晴らしいスピーチでした。恐怖の中におびえて生きているのではといった見方や原発に偏った報道を変えるべき、現地では実際に多くの人たちがいろんな葛藤を持ちながらしっかり生きている、暗い町になってほしくない、亡くなった人への哀悼とともに若い世代の人たちのためにどうするかを求めている、辛くても笑って生きることを大事にしているのだ、など。

そうした現地、新地町の人たちの強さと美しさを(beauty of life)を、アリソンさんは、淡々としかし心を込めて話していました。世界の困難地域を駆け回ってきた方と思えない、素晴らしい gentle lady でした。

第2部は、日米中韓台の5人の若手によるシンポジウム。震災との関わりはそれぞれで違いがありますが、皆さん、3.11をどう感じたか、これからの国境を越えたボランティアについてどう考えるかなどを、背伸びせず普段着の姿勢で話されました。

当日アメリカにいてその後日本に行くと言ったら回りから大変懸念されたという若いアメリカ人女子学生、当時東北大にいて外国人の被災の救援で頑張った韓国人大学院生、札幌にいて帰国せず観光復活のため奮闘している中国の若いビジネスマン、3.11を見てとにかく何かしなければと友達と話して避難児童のケアをする「みちのくキッズ」をつくり活動を続けてきた北海道教育大の女子学生、台湾で世界で最も多い募金を集めるために精力的に活動した元北大留学生。

なるほど、世界各国で3.11と日本や東北がこういうように受け止められていたのかということを、会場の皆さん、興味深く聴いておられました。

2時間足らずのシンポジウムでしたが、会場全体がシーンとなってシンポジストの発言に耳を傾けていたのが大変印象的でした。

5人の発言のあと高校生が発言、さらに、福島から栗山に避難してきている14代も続く福島の若い牧場主の方が、原発について、価値観の違いを超えて冷静に議論ができない状況に対する懸念を真摯に語られ、これまた深い感銘を与えました。

最後に、コーディネーターを務めた僕から、元北海道教育大函館校の留学生で、陸前高田市の小中学校で英語を教えていて、津波にのまれ亡くなったモンティさんが大事にしていた言葉を紹介しました。

「世のために尽くした人の一生ほど美しいものはない。」(緒方洪庵について司馬遼太郎が書いた文章の一部)。

これを受けた僕のむすびの言葉はー

「3・11を忘れず
人種や国境を超えて命の尊さを想い
平和な世界のために
美しく善く生きていこう
声高に、名を求めてでなく
ひとつでも何かできることを」

(言うまでもなく、「美しく善く生きる」は、古代ギリシャ時代からの理想的な人間像です。)

こんなに皆さんが集中し、いろいろな人の話を傾聴し、じっと考えを巡らせていた集会は珍しいのではないかと思います。参加者一人ひとりが何か大事なものを感じ取って散会されたのではないでしょうか。

主催されたロータリークラブ、とくにこの企画の実行委員長を務められた児玉芳明さんに厚く感謝します。


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体罰と部活について

1 今こそ体罰根絶と部活過熱是正に向かうべき


1月末明らかになった柔道女子日本代表の告発により、体罰問題は、部活体罰から日本のスポーツ指導全体の問題に拡がった。これは大きな意味を持つと思う。戦後これだけ大きな社会問題になったのは初めてだ。これを機会に徹底してスポーツ指導の鍛錬主義や精神主義を排すべきだと思う。同時に学校部活のあり方が大きな問題だ。
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学校部活のあり方は、教育問題として重要な問題を孕んでいる。体罰だけでなく、部活の過熱だ。時に公教育の目的から外れるほどの。かつそれが教師の過重労働にも繫がっている。新学習指導要領の、指導体制の問題を明確にしないまま部活を学校教育の一環とした位置けそのものにも問題がある。今後、徹底的に国、教育委員会、学校等が望ましい部活のり方を検討すべきと思う。

学校部活については、まず高体連中体連などが体罰根絶を宣言し、体罰を排した指導法を徹底すべきでないか。

次に、学校として、校長を中心に過度の部活過熱を排することを確認する必要がある。保護者との間でも必要だろう。その上で正課と部活との区別を明確にさせ、一部で行われている地域の協力を積極的に仰ぐとか外部指導者への委託もそろそろ本気で検討した方がいい。国や教育委員会はそれらを支援し一定の補助をすべきだ。

教師のあり方としては、間違っても教科やクラスを2義的にし部活に熱中するというのは教師の道を外れていることを自覚すべきだ。時に、教科が苦手で部活熱心という教師もいる。体育教師は、スポーツ指導の目的や方法を再学習再吟味べきだ。大会勝利等を目指すこと自体は悪いことではないが、学校教育の目的を外れてはダメだ。

長年スポーツ指導での体罰や鍛錬主義、学校での部活の過熱は問題と言われながら見過ごされてきた。マスコミも、甲子園児の「純粋さ」などを過度に煽ってきた。これら積年の一種日本特有の病弊にメスを入れる一大チャンスだ。

体罰の是非、学校における教育的指導の難しさ、桜宮への対応に関する意見の違い、スポーツ指導の難しさなどいろいろな論点はあるが、理屈をこね回すときではない。いま世論は体罰根絶に風が吹いている。これを逃すとまた元に戻る。学校も教師もスポーツ関係者も、長年の宿痾を改善する好機ととらえるべきでないか。

学校では(特に中高)、部活熱心な教師と冷静な教師とでよく話し合べきだろう。「あの子は学力はもう一つだが部活で頑張らせよう」などの発想に問題があることも含めて。で、より合理的な部活のあり方を学校として追求、工夫すべきでないか。お金がないとか多忙とか言っているだけでは埒があかない。隗より始めよだ。

大会をめざし熱中し、自分を鍛えたり全力を出すことを学ぶことはいいことだ。でもそうしたスポーツ等で得られる力が、直ちに生徒に必須の知識や技能を学ぶことに「転移」するわけでない。「一人前の大人、社会人に」という学校教育本来の目的に常に立ち返るべきである。それが教育責任を果たすことではないか。


2 体罰と教育的指導

「ただ体罰を禁止すればいいわけでない、実際の学校で教師が生徒指導で力を失ったり指導にためらったりすることになりかねない」、という意見がある。これについてどう考えたらいいだろうか。

体罰は、明確に法律上(学校教育法)で禁じられている。同時に、体罰でない「懲戒的」行為は教育指導上認められており、多くの教師は自分なりの仕方で指導の一環として叱ったり止めたりのノウハウを持っている。学校は一定の秩序とルールなしに学びの場として機能することができず、そのために教師が時にあれこれ厳しい秩序維持やルール遵守を求めるのは当然だ。

日本の教師は、授業中に騒いだり他の生徒に暴力を働いたりするなどに対して、一定の「懲戒的な指導」を含めてかなりの力量を持っている。ただ、いじめでも明らかになったように、犯罪と言えるような行動に関して、「教育的配慮」のもとに学校が必要以上に抱え込み過ぎる傾向がこれまであり、当面このことの是正が喫緊だ。

教師は、現行の体罰に関する文科省通知(平成19年)にあるように、正当防衛を除きどんな時にも体罰などの強圧的指導をしてはならない。同時に、教育的指導のぎりぎりの実行と適切な懲戒的指導にも拘わらず、生徒が極度の触法とみなされる行為を行う場合、学校は抱え込むのでなく、社会的制裁の場に委ねるべきだ。

他方、学校でしばしば必要な厳格な教育的指導と法的に禁止される体罰との間を、より細かく規定すべきだという意見もある。確かに現行通知は分かりづらく、体罰か否かの判断は個々のケースによるとされ曖昧さを残している。その一定の改訂はこの機会に必要だ。ただ、いくらこの規定を詳細にしても、個々の教師や学校にとって、教育的指導と体罰判定との間につねに難しさがあることには変わりはないだろう。だとすると、体罰否定の世論の中で教師は指導の手段を制限され萎縮せざるを得ないのか。そんなことはあるまい。

学校での個々の場面で、荒れる生徒達に対して教師の対応に難しさがあり、理屈通りにいかないことは分かる。ここで言いたいのは、そうした具体的対応の前に、教師の指導の言わば「限界」とも言うべきものを踏まえておくべきではないかということだ。

体罰の多くは、教師と子供との間の「濃密な関わり」の中で行われる。その時の教師側の理屈は、ここで厳しくすることで立ち直りを促す、強い指導で発憤させる、頑張らせることにより「根性」を鍛えるなどだろう。教師の理屈を超えた衝動的な体罰は別として、これらの「理屈」は本当に意味があるのだろうか。ここを真剣に問い直してほしいと思う。

これらの教師の思いと理屈は、生徒との間の人間的信頼がなければまったく無意味であるのは言うまでもない。そしてそうした信頼関係が成り立っているかを判断する根拠は教師側は主観的にしか持ち得ない。

さらに遡って考えれば、そもそも教師は本当に子供達の「人間性」の際どいあれこれについてどこまで指導できるものであろうか。教師の生徒に対する「人間的関わり」は大事だ。しかしそこに「限界」があることをよく見るべきではないかということである。持ち前の才能や性格を超えて、ある生徒を指導で任意にスーパー選手にできるものであろうか。種々の要因から非行に走っていて、乱暴狼藉をものともしない生徒に対して、教師はどこまで彼らの「人間性」に関わることができるだろうか。

「濃密な」関わりに溺れてはならない。任意に子供を「善人」に変えられるとの幻想に拘ってはならないと思う。そうした思いの前に、まずは教師ー生徒、指導者ー選手の関係で何が基本的課題なのかを熟考することが必要である。スポーツ指導では、その種目に関する技術や技能が基本であろうし、秩序を乱す生徒に対しては、まずは学校秩序への最小限のルールを守らせること、その上で学習へどう導くかだろう。

そして本当に生徒や選手の向上を求めるならば、ある焦点的な場面での指導ではなく、日常の教育的指導の有り様と質こそが問われるものであることは容易に見てとれるはずだ。先述のように、一部の突出した強権的「指導」とは別に、日本の教師は、強権に頼らないで日常的に生徒を賢く導いていくノウハウをたくさん持っている。

小学校ではあるが、ある教室を訪ねたとき、それまで大声で騒ぎ回っていた子どもらが、中年の女性教師の、「はい、これから授業ですよ」と一言発しただけでぴたっと騒ぎが収まり静かに授業が始まったのを見て驚愕したことがある。彼女はどういう場面でどうしたら子供を学びの姿勢に揃えられるかをよく知っておりその技術を持っているのである。また荒れた中学校で、生徒指導部で頑張った教師が、どんなに乱暴な生徒にも、保護者を交えて何度も話し合うことで、最小限の学校のルールを守らせた例も聞いている。彼は、一貫して、教師の強権的指導にも生徒の生活に必要以上に入り込んで「信頼」関係をつくることにも反対していた。

こうした日本の質の高い教育的指導を、もっともっと拡げ教師全体学校全体で共有するようにしていく必要があると思う。時に見られる、教師の生徒への乱暴な言葉遣いなども根本的に是正すべきだろう(中高ではよく見られる)。さらに言えば、これらの高いレベルの教育的指導について、学校内できちんと継承されるようにするとともに、教員養成段階で一定程度教育されるべきだろう。

いじめ体罰問題に関して学校と教師にとって大事なことは、あれこれの教師批判へのマイナスの対応でなく、自らの教育的指導の質を不断に高めることだと思う。これだけ大きな社会問題となったいじめや体罰の問題に関して、先生方がひるんだり萎縮したり、分かってくれないとアパシーになったりするのを懼れる。行き届かなかったところは認めて大いに是正するとともに、自らの「教育的指導の質を高める」ことこそが課題なのだという大局観を忘れないでほしい。

教師は子供を教えて育てるプロだ。その教え育てるべき中身の基本は知識であり智恵である。学校は子供の人間性を任意に作ったりできるわけがない。今こそ教師は、子供達を学ぶことを通じて育てるプロだということに自信と確信を持つべきではないか。部活で根性を鍛えるなどは教師の本筋ではない。

同時に保護者や一般社会の人達は、学校と教師に何を求めるのかを見直す賢さが必要だ。多くの誤解は学校や教師にあまりにも多くのものを求め過ぎるところにある。


3 「勉強が苦手な子も部活で頑張らせることができる」という考えについて

よく、こういうことが教師でも保護者でも言われることがある。直ちに間違いとは言えないし、こうした見解は多くは善意から発している。しかし、ここはよく考えてみる必要があると思う。僕自身、中学ではほぼ3年間、卓球部で凄く熱中した。で、中学高校での部活の大事さを否定する気は毛頭ない。

(1)部活について言いたいのは、まず、その部活で子供が何を得るかについてよく見る必要があるということだ。スポーツなどで頑張り力が身につくのはもちろんだが、これは「人間性」や「性格」であって、子供によっていろいろなところでそれぞれに身につけていくのは当然のことだ。しかし、何かスポーツで特別に頑張り力、精神力がつくということをあまり強く考えると(そういう人も間違いなくいる)、かえって子供にプレッシャーになることもある。親としても子供の意欲や頑張り力をどう発揮させるかについて幅広く考えた方がいいと思う。

(2)スポーツで得られるものをきちんと見抜いておくことが大事だ。基本は、精神力でなくそのスポーツの技術や技能であろう。それがどの程度その子に達成できるかは、人によるし、スポーツや芸術の場合、持って生まれた才能というものがかなり大きくかかわる。誰もがオリンピック選手になれるわけではなく、多くは一定の限界があるものだ。僕も中学で卓球をやっていて高校で止めたのは、卓球の実力がこれ以上は自分は無理だなと自覚したからだった。この辺り、親としても教師としてもよく子供を見ておいてやることが必要だ。野球がうまく、高校で私立の野球名門校に行ったが、途中で挫折し荒れて、人生で苦労するというのはざらにあることではないか。

(3)もう一つ、ここが大事で、あまり一般に語られていないが、スポーツでの精神力が、本当に勉強などにうまく「転移」するのかという点だ。実験データなどあるのかどうか知らないが、経験上、これはかなり難しいことだと思う。いくらスポーツで得た気合いがあっても、勉強というのはこつこつと積み重ねが必要だ。とくに学年が上がると、とても精神力だけで学校の勉強についていくことはできない。ここは冷静に見ておく必要がある。勉強には勉強としての頑張りや努力が不可欠なのだ。勉強の頑張り力は基本的に勉強の中でしか得られない。

(4)もう一つ、スポーツ部活に熱中することが、勉強を苦手とする子に勉強を強いたり、学力や学歴を第一とする社会風潮に対するアンチテーゼとして意義があると考える人も少なくない。しかし、これも安易にそう決めつけるのは待ってほしい。学校は勉強を苦手とする子に勉強を「強いる」場ではないし、実際先生方は強いることはできないしやっていない。学力ももって生まれた点があり、先生方はそれをよく知っている。その上で、どの子も少しでも伸びてほしいと思っているのではないか。

この点で、日本の学校教育、特に義務教育が、どんな地域のどんな子に対しても全国共通に一定レベルの教育を、という大原則のもとに行われているのは、国際的に見ても素晴らしい仕組みだと言える(そのことに伴う種々の欠陥があるとしても)。

問題は、どの子も少しでも学力をあげてほしいという思いの中身だ。それが「教育目的」だ。この点では、先生方はかなり考えがまちまちなのが実態だ。ある先生は、本気で受験競争に勝て、と思っている。ある教師は、本気で「みんな仲良く、他人を思いやれる人間になってほしい」と考えてやっている。

しかし、そもそも、学ぶ場としての学校での勉強や学力はどういうものだろうか。人間、誰しもいつまでも子供ではいられないのであって、いずれ社会に出なければならない。つまり「一人前の大人、社会人」にならなければならない。その際、昔の職人や農家の人と違って、今は、どんな職業につくのにも一定の知識やその分野の技能が必須になっている。漁業もいまでは小さな漁船でさえコンピュータが備えられていて、その操作ができないとダメだ。農業でも通信衛星を使った天気予報などかなり高度の情報収集が必要なようだ。スポーツでも、コーチング学とかイメージトレーニングとかバイオメカニクスとかもの凄く高度化している。

要するに、よく言われるように、今は「知識基盤社会」になっていて、これまで以上に社会でどんな仕事をするにも、一定の知識や技能が不可欠であり、とくに義務教育は、そうした国民として備えることが望ましい基礎的な知識・技能をどの子も身につけるためにこそあるということだ。また現代社会が、高度に組織された複雑な構造になっていて、それらに関する一定の知識と技能なしには社会生活を営むことができないということも大事だ。プロ野球選手だって、時にそのモラルや社会規範が厳しく世間から問われることがある時代なのだ。

迂遠だけれど、こうした学校教育の本来の目的について、教師も保護者も社会も、今一度心するべき時ではなかろうか。


4 桜宮高校の生徒、入学希望者の皆さんへ

不幸にも自殺した皆さんの友人は顧問宛の手紙でこう書いています。

「一生懸命やったのに納得いかない。理不尽だ」「毎日のように言われ続け、本当に訳が分からない」「もう僕はこの学校に行きたくない。それが僕の意志です」。

この手紙が意味するもの、苦しみ、理不尽への怒り、人権蹂躙、人間性破壊の重い意味を、まずはしっかり考え抜いて下さい。そこが出発点です。

集団で高め合う喜び、熱中することの意義ーこれらは大事です。でももう一つ、自立すること、個人には侵しがたい尊厳があること、集団と共に互いに個人が自立性を尊重・発揮しなければ社会で生きていけないことはもっと大事なことです。

空気に流されない、自分の利害だけで考えない、友人を大事にする、自分自身で考える、正義が人間の基本・・・日々の授業でこれらのことを習ったことでしょう。いま皆さんの人間としての学びが問われているのです。とことん自分で考え抜いて下さい。

いま皆さんは悔しい、辛い思いで心が揺れ動いていることでしょう。でも社会に出ると、もっときつい場面がたくさんあります。そこでは、集団・仲間を大事にすると共に強い自立心とその力が試されます。そのための学びであることを忘れないで。

******** ********* ********* ********* ********* ********* *********


桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

人には死ぬほどつらいことが本当にあるということを
自分にはたいしたことでなくても、ある人には凄く辛いかもしれないということ

思いやってごらん、人は顔がみんな違うように感じ方は違うのだということを。


桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

どんなに仲間や先生が大事でも、やっぱり人は自力で力をつけて生きていかなければならないのだということを
高校生活は、そうやって学んで世の中に出て、一人前の人間になるためのものであるということを。


桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

君たちは大きなものを失ったかもしれないけれど、
新しいものをつくるのはやってみればそうむずかしいことでないということを。



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「習得」と「活用」の連関の論理づけ ー 戸坂潤を想起しつつ

昨日ツイートした「分析的方法」に関連し、ふと大学紛争の頃夢中になって読んだ戸坂順の科学論と科学的精神のことを思い出しました。最近、科学論ってすっかりマイナーになったようですが、ちょっとまずいと思う。科学は科学で偉大で固有の論理を持っている。それをかみ砕いた先駆者、戸坂潤の復権がいま必要な気がします。

戸坂潤といっても50代以下の人達はほとんど知らないかもしれません。1900年生まれで物理学を学んだが、後に在野でファッシズムに果敢に抵抗し、科学的精神を説き、敗戦直前に獄死した哲学者。いま全集本は入手不可能ですが、青空文庫に論文多数掲載されています。

情報化社会からSNSの時代に、言論スタイルがどんどん「劇場化」していっているようです。劇場型言論の核はポピュリズムとレトリック。それはいつの間にか「科学的論理」を置いてきぼりにしてしまう。科学的論理の核は、一言で言うと、A→Bの因果法則でしょう。少し分析と因果的説明の意味を、教育活動に即して見直してみたい。

科学と因果の説明といってもそう難しいことではありません。よく欧米の教育で教師がたえず why? と問うと言われますが、一般的に言えば、これに答える because です。これは教育のあらゆる場面でゆるがせにしてはならない教育活動の核心にあるものだと思います。「知る」、「分かる」、「できる」、「考える」、「伝える」は皆これに関係しています。

「知る」は単に事実を知るのでなく因果の繋がりの事実を知ること、「分かる」はまさに因果関係を理解すること、「できる」は因果関係の理解に基づいてそれを駆使活用できること、それらを通じて「考える」活動が働く。「伝える」もこの因果の繋がりを他者に説明することと言えるかもしれません。

教育活動の核心である「分かる」とは、理解や反復や練習などを通じてこの因果関係を言語的に再現可能な形で脳に貯蔵することと言えるように思います。それを子供達の思考に即してあらゆる方法を用いて工夫するのが、教師の教育活動です。

注意しなければならないのは、このAーBの因果関係は固定的で不変なものではないことです。現代論理学によれば、事象の絶えざる変化を踏まえると、より適切には if A, then Bと言うべきです。ここに、因果関係を変化の中で相対化したり、想像力を駆使した行動の原理が成り立ちます。

whyーbecauseは教育の基本です。それはA→Bを繰り返し習得することなしにはありえません。しかし、それだけでは受動的な単なる知識に終わります。A→Bを想像力を含めて仮説的総体的にとらえるところに活用があります。仮説といってもA→Bから跳び離れたものであってはなりませんが。

要するに、「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ」(学教法31条)にある、習得と活用とを論理的にどう結びつけるか、これをもっともっと論じる必要があるのではないでしょうか。認知学習論には、諸要素を連関づけ構造化する論理=論理学が必要だと思います。

上記習得と活用についての「論理学的説明」は、昔取った杵づかで、論理学の勉強も70年代初め K.Popper 位で終わっていますのでもうすっかりout of date のラフスケッチです。元々ヘーゲルの論理学が好きで(法哲学はどうも苦手だった)、修論(大論理学)後、記号論理学や科学論を少し勉強しました。

ヘーゲルから現代の課題に向かおうとして科学論に首を突っ込み始めた頃(哲学科の博士課程の初期)、かつそろそろ日本の思想もと思っていた頃出会ったのが戸坂潤で、一時もの凄く熱中しました。全集を隅々まで読みました。

日本の思想への興味は、学生時代から丸山真男が大好きで、その影響もありますが、同時に当時の指導教授が国際派で、よく外国人哲学者を招きその付き添いみたいなことをさせられていて、国際交流に目覚め始めていたのがきっかけでしょう。

時まさしく大学紛争の最後の時期(20代後半)。将来への不安とともに、自分の研究を日本の現実に根ざさなければの思いが強烈でした。そんななか戸坂潤は、その軽快で鮮やかな文体もあって、ぱっと新たな世界が開かれた思いがしたものです。

戸坂潤で忘れられない一文が、初期の「科学方法論」冒頭。

「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。」

ここにある「生活」は「民衆の角度」からのもので、通俗唯物論を抜けきった「生活意識」への着目や「世論」や「ジャーナリズム」への注目などまさに目が開かれる思いでした。

丸山が名著「日本の思想」(岩波新書)で言った日本における「思想的基軸の欠如」(我が国古より哲学なし〜兆民〜と同趣旨)は、いまなお重い意味を持っていると思います。そこから戸坂潤→福沢諭吉と辿ってきましたが、未だまとめてこれらを論ずるところに至っていません。内心忸怩たる思いですが、気負わず衒いなくマイペースでやっていくつもりです。

ヘーゲルが言うように何かをするには何かを捨て限定しなければならないわけで、いま関わっている教育政策・教育論を一つの切り口にしながら、とりあえず福沢論を、日本近代のアウフヘーベン(近代と超近代との緊張関係)の視点から纏めてみようと考えています。そのなかで、教育学の本筋、教授〜学習論にも、論理的な視点から何かポジティブな問題提起ができるといいのですが。
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「生きる力」と教育目的・目標の検討方向について

昨年12月13日、文科省内に、「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価にの在り方に関する検討会」(座長安彦他8人の委員)がスタートしました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/095/shiryo/1329013.htm

この検討会は、次期指導要領に向けて、専門家によりその基本方向をじっくり検討することを課題にしていると思われますが、教育の目的・目標という教育政策の基本に関わる点で注目されます。

年明け早々、これに関連して、「生きる力の概念定義」、「検討のありうる方向性」についてツイッター上で連続してコメントしました。そのツイートを一部修文して掲載します。

なお、後段の21世紀型スキルについては、教育評論で長い経験を持ち、的確な見解を述べておられる渡辺敦司さんのブログでの言及に触発されたものです。氏の提起を全て否定するものではなく、いつも有意義に学ばせていただいていることを付言しておきます。
http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d842.html

最後に、定義に関わる思考法について、東京の若く優れた小学校教師、遠藤康弘さんとのやりとりを補論として付け加えました。

以上、いずれもツイッター上でのやりとりで、展開不十分ですが、一つの問題提起としてお読みいただければ幸いです。

<「生きる力」の概念に関して>

>@aristotetsu: 「生きる力」は、たしか、中教審で初めて使われたものでは

1996年(平成8年)の答申かと思います。元々は「新学力観」を踏まえて子供の主体性を強調しようという文脈だったのですが、学力論争後の2003年の指導要領基準化でも生かされ、2009年(平成21年)の新指導要領へ繫がりました。

しかし知徳体全体を包含した「生きる力」はあまりにも幅が広すぎて、学校教育の目的・目標を曖昧にしている面があると思います。学力観との関係など再整理が必要でしょう。

とくに、教育基本法や学校教育法の目的・目標の規定との関連づけが不十分と思います。教基法第1条、5条の、社会で自立して生きる基礎と国民的資質形成、学教法31条の基礎的知識技能と活用などの規定ときちんと関連づけなければならないのではないでしょうか。

文科省の答申ではどうも、それまでとどう違うかなどの概念定義が弱い感がします。きちんと定義しないままあまりにも包括的な「生きる力」が拡がったことが、学校教育現場に一定の混乱をもたらしているのは事実だと思います。答申がどうであれ、現場できちんと議論して使えばいいと言えばそうなんですが。

よく使われる基礎的知識・技能の習得と活用のための思考力・判断力・表現力は、学教法の小学校の目標規定にしか出て来ませんし、両者の関係については何も言っていません。これをそのままにして、「確かな学力」とか「生きる力」などの抽象概念が言葉だけ流通するというのはおかしい。この辺りぜひ新委員会で検討してほしいと思っています。

<教育目標のありうる方向について>

>渡辺敦司さんのブログ記事「「21世紀型スキル」重視に備えを」 に関連して

昨年12月にスタートした教育の目標に関する検討会のありうる方向について、「幼稚園から大学・大学院までをも一貫した資質・能力育成の系統化」はありえますが、「教科の枠を超えた21世紀型スキル」への転換をもっぱら謳うのはいかがなものでしょうか。

新指導要領で引き継いだ「生きる力」の3要素とOECDのキーコンピテンシーとはズレがあります。新指導要領に関する長大な解説(平成20年)もこの点については説得的な解明にはなっていません。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/news/20080117.pdf 

検討会での率直な検討を望みたいところです(但しこの解説は「生きる力」や教育目標について立ち入った検討をしていて、今後の議論の大事な手がかりになることは間違いありません)。

21世紀型スキルを全部否定する訳ではありません。しかし、例えばその根拠になっているPISAのテスト内容をご覧になったことがありますか?。これを一見すると分かると思いますが、求めるものが教育法制・文化風土上あまりにも違います。このズレを無視した議論は困ります。

新指導要領後も文科省の教育理念にブレが残っていると思います。創造性、個性重視か国民共通教育・学力重視かなど。そういう文脈で見ると、「グローバル人材」とか「答のない課題に応える大学教育」とかが急にクローズアップされるのはどうも気になります。

もう一つ、求めるべき教育目標の議論に関して盲点があります。幼小から大学までの教育階梯と繋がりを無視した議論があまりにも多い。その点では、最近中教審等で高校教育や大学教育・入試に比重が置かれてきていることは間違いでありません。これまで教育というと初等教育に余りにも多くを求めすぎてきました。

さらに、本気で21世紀型スキルを言うなら、教育課程の改訂だけでは全然不十分で、オールタナティブの導入も含めた学校制度や明治以来の日本独特の学校文化などの大変化なしにはありえないのではないでしょうか。

そのためには、教基法の目的規定の根本見直しまで必要となります。「人格の完成」(務台理作氏などの強い主張で入れられたと言われています)や「国民の資質形成」規定(教基法第一条)まで遡って。これは、日本の「公教育制度」のトータルな大変革に繫がります。

かつ、そうした根本変化は教育の世界だけで行いうるでしょうか。日本の社会構造や意識がそう大きく変わっていない中で。教育を根本的に変えなければという議論は分からないわけではありませんが、こうした議論には、往々にして、教育が社会組織・構造の一側面でしかないことへの無理解があります。教育のイノベーションは社会のそれと相即的にでなければありえないと思います。

その上で、教育の営みの持続性や緩慢性を盾にとって改革を軽視するのは怠慢です。教育界がともすれば現状維持的になるのに棹さすべきではありません。教育は社会組織の一面だからこそ、社会と共に変化を要するのは当然のことです。これに後ろ向きであってはなりません。

<定義と分析的思考について>

>@microcerasus: 語義がきちんとしている用語は「科学」として生かすことができる。

大事な点ですね。あと研究史を踏まえること。それと「分析的思考」が大事かと。概念の定義と分析的思考は一体ですね。

昔デカルトの方法序説を読んでいて、偉大な新発見をしたと言う方法が分析と総合でしかなかったのを知って拍子抜けしたことを憶えています。

でも、よく考えると分析は確かに科学的思考の基本。漠然としたものを砕いて分けて、一つ一つの「何」を明確にする。明晰判明の基礎です。政治的思考や文書はこれと対極的で、あくまでも総合知がベースです。

もう一つ、概念について、ヘーゲルの、「規定は否定である」も意義深いと思います。何かを明確にするのは「〜でない」によってである。人は「〜だ」という主張を急ぎすぎ。丁寧に「〜でない」を積み重ねることが大事だと。

> @microcerasus: 教育では多くの場合「あれも大事、これも大事」で内容が増えてしまう。

「あれもこれも」も「あれかこれか」も、教育界というか教育論者の宿痾のような気がします。論理が大事ですね。論理の基本はまさにヘーゲルが力説しているように、分析と総合を適切に結びつけて行う、物事の関連づけをふまえた総体的認識でしょう。分析的思考=科学的思考はその基本的ベースです。

ヘーゲルはこうした思考を、「悟性」の原理として、通説に反して非常に重視しました。物事を一つ一つ明確に確固としてつかまえるのはまさに悟性の役割であり、理性もこうした悟性の厳しさに耐えなければならない、と。慧眼です。
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共同シンポジウム「専門職養成と教育学」に参加して

12月16日午後、東大で、教育学関連諸学会の「専門職養成と教育学」という共同シンポジウムに出ました。

中教審8月答申に基づき高度専門職養成として、教育学修士課程と教職大学院の見直しが問われているなか、タイムリーな企画で、リアルな政策に教育学がどのように関心を寄せているか、教育学関係の研究者が、修士レベル化や高度専門職養成にどのような関心と考えを持っているか興味があります。教育に関する改革には、なんといっても教育学研究者の理論的実践的関与が必要ですし。

最初のスピーカーは村田晶子さん(早稲田大)。社会教育として、理論と実践の往還の専門職養成について、福井大などの例をあげて紹介しました。僕の関心からすると、ちょっと周辺的かも。

2番目は、東大の若手の小方直幸さん(東京大)。教育学研究者がどういう教育組織で仕事をしているかから始まり、なかなか実際的で論点がはっきりした話です。前置きで、今日のスピーカーに養成系の研究者が入っていないことに疑問を呈していました。中心内容は、大学教育の、専門職モデル、探求モデルなどの類型化。

小方さんは、専門職モデルと教養モデル、探求モデルを、社会の需要と供給にら関連づけて論じます。その具体例としてコンピテンスモデルをひきます。これは、分かりやすく面白い視点。

かつ小方さんは、専門職モデルと教養モデルとの乖離をかなり意識しているようで、具体的な提案としては不十分ですが、現実課題意識をしっかり持っているなと感じました。最後に、専門医一型、ニ型、総合診療型と、医学と対照させて教育学のあり方を説明していました。最近専門職として医学と教育との比較の議論がいろいろ出ていて、アイディアとしては面白いと感じました。

最後は山名淳(京都大)さん。大変率直に、教員養成との関わりで教育学が展開されて来ただろうかと反省の弁。本論は、教育哲学に関して理論と実践の有り様を論じようとするもの。哲学で、唯一学校というフィールドを持つ教育哲学からの新しい息吹を感じさせます。真摯な論じ方に好感を持ちました。

山名さんは最後に、教育哲学が教員養成にどう関わるかについて、教職スタンダード作成への関与や教育政策の省察など具体的に提起しました。さらに、教育哲学が学校現場でどう評価されているかのアンケート結果も。ここまで教育哲学が政策や学校現場に関わろうとしているのを知ってちょっと新鮮でした。

三人の報告は昨今の教職の高度化や教員養成改革からの刺激をそれなりに受け止めています。しかし実際の政策との真に有効な絡み合いはまだまだの感です。また、教職高度化と学術の高度化とは必ずしも一致しないという思いが強いのは当然といえば当然です。でももう少し踏み込むとまた違った光景が見えるはずだとも思います。

政策のアカデミックグラウンドが大事というのは僕の持論で、そういう点から、教育学会のこうした新しい息吹に新鮮な思いと期待感を持ちました。

3人の報告が終わり討論時間が30分ほど。進行がいかにも型通りで(いちいち報告者の話の要旨を司会が繰り返すのは時間の無駄だと思う)、討論は活発ではなかったのですが、折角の機会ですから、教育学研究への期待の気持ちを込めて、次のような発言をしました。

教職の高度化と学術の高度化との緊張関係を踏まえながらも、教員養成大学や学部のなかでの教育学や教育学部のアイデンティティの再吟味が必要で、そうした視点から、教育学研究者こそ今の修士レベル化や高度専門職養成のプログラム化に積極的に関わってほしい、と。

午後4時過ぎにシンポジウムは終わりましたが、そのあと懇親会があり、藤田英典さん、佐藤学さん、広田照幸さん、さらにはツイッターで知り合った何人かの新進の教育学研究者の方々といろいろ有意義な懇談ができました。

ツイッターで知り合った方とこうして実際にお会いするのも、楽しく知的刺激を喚び起こすものです。その中のお一人は教育哲学で、京都大の山名さんの報告と併せて、教育哲学会の新しい息吹に触れ、もう少し若ければ教育哲学の世界でもう一度哲学に邁進したいという夢想に思わず駆られました。

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教員養成の修士レベル化をどう実現するか

[ 以下の小論は、雑誌「シナプス」9月号(ジアース新社)に掲載されたものです。中教審答申を受けてその具体化をどう図るかについて私見をまとめたもので、5月に執筆しました。現在、将来の免許法の全面改正の前に、文科省内に「教員の資質能力向上に係る当面の改善方策の実施に向けた協力者会議」が設置され、年内を目処に当面の教職大学院の量質の充実などについて鋭意検討が始まっています。筆者はその委員になっていますが、その検討のためのひとつの参考になりうると考え、出版社の承諾を得て本ブログにアップします。 ]

1 はじめに

 諮問以来2年近い議論を経て中教審・教員の資質能力向上特別部会でまとめられた案を基にして、8月末ようやく教員養成の修士レベル化を正面に掲げた答申が出た。

 本答申は、教員養成・採用・研修等全体にわたる広範囲の内容を含むものであるが、そのポイントは言うまでもなく、日本の小中高の教師の資格を修士レベルに引き上げることにある。これは、基礎資格を学士とした、戦後すぐの大学における教員養成原則の導入以来の教員養成の大改革だ。

 しかし、今回の修士レベル化は、諮問当初新聞等で報じられたような、修士5年ないし6年制として養成期間を単純に延長しようとするものではない。総数で100万人を超える日本の教員層を一挙に修士化することは、政治経済のあれこれの動向を別にしても、非現実的である。修士レベル化を基本方向として見定めながら、これをどう現実的に追求していくか・・・答申は、「Ⅲ 当面の改善方策」に重きを置き、修士レベル化をステップを踏んで段階的に推進するとの観点から、修士レベルの教員養成の「質と量」に関していくつか重要な課題提起をしている。本稿では、その主要な論点について、少々踏み込んで私見を述べることにしたい。

2 修士レベル化にどう接近するか

 一挙に修士レベル化することが非現実的なのは、大量退職採用時代に単純に修業年数を延長することが教員志望者を減らしかねない恐れとともに、修士レベルの教育体制が量的に不十分な点にある(小中高等の新規教員採用者数約3万人に対して、教職大学院の入学定員830人、 国立教員養成系教育学研究科の入学定員3,333人、国立一般大学院専修免許状取得者3,000人、同公立350人、同私立3,500人、計1万人強、平成23年度)。

 これは、理論的には、奨学金などによる手厚い国のサポートや修士レベルの教職課程の大幅な拡充により解決可能ではあるが、現在の国の財政状況などから容易にすぐ望める状況にはない。

 かつ、こうした物的諸条件と同じく重大なのは、現在の大学における教員養成について、そのまま修業年限を延長してどれだけ質の高い養成ができるかとの疑念が、教育現場などに強く残っていることである。他方で、教育課題が複雑化・高度化している中で、採用後の教師の資質能力の維持と向上が、近年の学校規模の縮小や年齢構成のいびつ化もあり極めて困難になってきている実態もある。

 そこで、課題は、ここ10年ほどの大量退職採用時代に、教員の量と質の両方を二つながら確実に追求する方策をどう立てるか、大学における教員養成を改善しつつ、大学等の手持ちの教育資源をフルに活用する中で、高度の質を持った教員養成(高度専門職としての教員養成)の実をどうあげるかということだ。

 であれば、いま何よりも肝要なのは、教員の資質能力に関わるおもな当事者である大学と教育委員会が、「養成は大学、研修は教育委員会」の壁を打ち破って、教職の高度化のために何をどうするかである。

(1)免許法の抜本改正など国の制度改革をただ待つ姿勢から脱却しなければならない。実際の教員養成の質、教師の力量の切実な課題から出発して、可能な手立てをすぐにでもできるところから始めるべきである。

(2)大学における養成や教育委員会による研修への相互の不信を克服しつつ両者が力を合わせれば、現行制度の中でも、教員の質の維持・向上の方策として修士レベル化を有効かつ不可欠な形で追求することは十分に可能である。かつ、それは、答申が述べているように、それぞれの「地域の実情に応じて」進められるべきであろう。

(3)しかし、そのためには、国公私を通した学部教職課程の改革のみならず、後述のように、教員養成大学・学部における既存教育学研究科の改組と教職大学院の拡充、現行の専修免許状の見直しと教職の高度化のための国公私の連携の推進が必須である。

 都道府県の教員構成や採用数、資質向上の力点に応じて、まさにステップを踏んで、現行制度を活用した修士レベル化を進めるのである。採用数が少ない県では(平成23年度実績では200人以下が14県ある)、新規採用者を計画的に教職大学院等で修士レベル化することが可能であろう。ある県では、ミドルリーダーの資質向上を重点的に推進することもあろう。採用者が多数のところでは、場合によっては、高校教員を先行させるなど学校種ごとに進めたり、教科ごとに特定の教科を先行させることもありうるかもしれない。その際、国の役割は、これらの地域ごとの修士レベル化の推進に、種々の予算上(加配を含めて)のインセンティブを提供することであろう。

 それにしても、各地域の教育委員会(デマンドサイド)がこうした実質的・段階的な修士レベル化を主導するには、併行して大学側(サプライサイド)の修士レベルの教育体制の量と質の充実が不可欠である。

3 教職大学院の充実と拡充

 答申は、修士レベル化のおもな担い手を、教職大学院に置いている。今回の修士レベル化の基本的な方向付けの根拠として、平成20年度にスタートした教職大学院の実際の成果があることからして、これは妥当である。教職大学院は、高度専門職としての教員養成に関して、間違いなく、学校現場を重視し理論と実践を往還させる従来にない
あり方を生み出した。

 しかし、20都道府県25大学入学定員830人の規模しかない教職大学院をどう拡充するか。

(1)教職大学院未設置の27府県で、府県教育委員会と関係大学とが協議し、早急に設置計画を立てる必要がある。設置済みの都道府県でも、資質能力向上の有効な教育機関でありうることを踏まえ、教育委員会からの派遣数を可能な限り増やし、教職大学院の入学定員の増を図る(各大学で、学部入学定員に対して一定比率で計画的に増やしていくことも考えられる)。また、学部教員養成が主の私立大学教育学部でも、学部と接続した教職大学院の設置を促進すべきであろう。

(2)その際、現職派遣に要する財政負担の困難さを考慮するとともに、学校を拠点とした理論と実践の往還の有効性を一層重視し、一部で「学校拠点方式」として実行されている、学校に勤務したまま大学院で修学する方式を積極的に検討する。これは、教職大学院の教育の質を低下させるのではなく、むしろ、学校現場に根ざした実践的教育をより徹底させようとするものである。

(3)設置後4年経ち、内容上一定の実績と蓄積ができてきたことを踏まえて、新規設置の大きなハードルになっている実務家教員の比率や必要教員数について若干の柔軟化を行う。併せて、教育課程上大きな部分を占める5分野の「共通科目」について、ともすればそれぞれの分野ごとに「コンパートメント化」しかねない弊害を避ける点から、より学校現場の課題に即したものとして統合的に行われるように見直す。現職教員の学校実習の免除について、学校課題の実践の中で資質能力を向上させることにつながらない面があり、学校拠点の理論と実践の往還をより徹底する方向に実習のあり方を見直す。

(4)個々の教科専門に偏らないように学校経営全般にわたり学修させる当初の趣旨を活かしつつ、ストレートマスターないし採用直後初任段階での修士レベル課程を重視して、学校での実践に即した教科教育・授業法をより幅広く学ぶことができるように工夫する。

4 既存の教育学研究科の改革

 教職大学院が徐々に充実・拡充されていくにしても、一挙には進まないし、すでにより大きな規模を有している既存の教育学研究科(国立が大多数であるが私立大学も小規模ながら含まれる)が、修士レベル化でどういう役割を果たすかは重要である。

 大まかな方向性としては、既存の教育学研究科は、一般大学の専門に関する修士課程と同様に、教科専門を重視した修士レベル教職課程として役割を果たしていくことが可能だと言える。しかし事はそう簡単ではない。

(1)教員数約100人以下の教育学部では、教職大学院との並立は事実上困難であり、教育委員会等の望む資質能力を備えた教員養成の要望次第では、教職大学院への全面転換が求められるであろう。これは長年継続した教育研究体制の大転換となり、所属大学教員にとって大きな試練になると考えられるが、日本の教師の資質能力の向上のための修士レベル化という使命からすれば、避けて通るべき課題ではない。とくに、義務教育学校の教員養成の主要部分を担っている国立の教員養成大学・学部は、この課題に正面から応える責務がある。

(2)比較的大規模な教員養成大学・学部であっても、既存の教育学研究科のあり方が現状のままでいいわけではない。後述するように、答申では、、専門教科中心で学校現場に即した実践的な研究になりがたい専修免許状の現状について、一定期間学校実習を課すなどの改善策を打ち出している。教員養成系の教育学研究科では、学校をフィールドとした調査研究が重視されるなど一般大学との違いは確かにあるが、いま求められている高度専門職としての資質能力の獲得には十全とは言いがたい。こうした視点から、既存の教育学研究科について、教職大学院と併存するにしても大幅な改革が必至である。

(3)上記(1)に関しても(2)に関しても問われるのは、学校現場に即した修士レベル教育に、教科専門の教員がどのように関わるのかであろう。これは3の(4)で述べた、教職大学院への教科教育・授業法の適切な導入にも密接に関係する。ここでこの問題について詳述することはできないが、最小限以下の点は言えると思われる。

 教科専門の教員の、教職大学院や、より実践的な教育学研究科への関わりは、教科専門の高度の専門研究を軽視することではないこと、高度の専門教科の研究を踏まえつつ、これを学校現場の授業等の実際の場面に活かすあり方が問われるものであること(答申では、これを仮に「教科内容構成に関する科目」の導入としている)、理論と実践の往還を核とした高度専門職養成を前提にすると、学部段階での教員養成に関しては、これまで以上に専門教科の基礎知識の教育が重視されるべきであること。これらをふまえ、今回の提案が、教科専門を厚く擁し教科への深い理解に基づく教員養成を積み重ねてきた日本の伝統を放棄するものではないことに、十分留意する必要がある。

5 専修免許状の見直しと大学連携

 修士レベルの教育体制の量的整備の観点から言えば、上述の教職大学院の充実・拡充、既存教育学研究科の改革と並んで欠かせないのは、一般大学の理学部、文学部等の大学院をより適切に活用することである。実際に、これらの修士課程で、すでに教員養成系の大学院のほぼ倍の専修免許状が取得されている。この活用は、単に量的な数字合わせのためではない。小中高の教員世界に多様な人材の参入を促すことは、教育の質向上のために欠かせないからである。これは、戦後の開放制免許制度の本来の趣旨でもあった。教師の個性の多様性、それぞれの専門研究の深さは学校教育の発展にとって貴重である。とくに、高い専門性が求められる高校教育においては、一般大学の修士課程は重要だ。
 しかし、ここにも難問がある。これらの一般大学修士課程は、課程認定を受けて専修免許取得可能であるとはいえ、教育課程の中身としては実践的指導力の形成には極めて不十分な仕組みになっているのである。学部で中学ないし高校の1種免許状を持っていれば、事実上ほぼ教科専門の積み重ねにより専修免許状を取得できるのである。これではいま求められる高度専門職の養成とは言えない。修士レベル化だからといって、中身を問わず修士の学位があればいいわけではない。

 答申は、ここにメスを入れ、専修免許状取得に何らかの形で学校での実習を組み込むことを提案している。その詳細は今後の課題であるが、いま留意すべきは、修士レベル化をここまで押し広げるとき、必然的に、大学間の多様な連携が必須の課題になるだろうということである。

 目前にあるのは、稀少な教育資源である。そうした点から言うと、あれもこれもそれぞれの機関でこなそうというのはまことに非効率であるし現実的でもない。

 総合大学で、学部の教職課程に加えて、専修免許に関わる実習等の実践的なプログラムに取り組むことが可能であり効率的であろうか。ここに、互いに足りないところを補い合う連合方式、共同教育方式の大学連携の必要性がある。すでに、京都では、7つの私立大学と京都教育大学との連合教職大学院の実績がある。これを修士レベルで、一般大学と教職大学院との間に応用することは十分に可能である。

 答申が提起している修士レベル化は、最近強調され始めている大学間連携に、教員養成に関わる諸機関が本気で取り組むかどうかを問うものでもあるとも言えるのである。

 以上、教職大学院の充実・拡充、既存教育学研究科の改革、教職の高度専門職化に関わる国公私の多様な大学間連携等の着実な推進により、修士レベルの教員養成の有効性が一層明らかになっていく中で、修士レベルを基本とする抜本的な免許法改正の展望も開けてくると思われる。
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資質能力向上の答申具体化のための検討が始まります

8月末の教師の資質向上の答申に基づき、現行の教職大学院の中身の見直しや専修免許取得に学校実習を含めるなどの具体策を検討する協力者会議が、9月26日にスタートしました。

国立私立の大学、教育委員会、民間の学校支援関係者など18人で、年内を目処に案を練ります。私も委員として入りまとめ役をやります。日本の教師のパワーアップへ、確実な一歩を進められればと思っています。

その第1回協力者会議の資料が公開されています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/093/shiryo/1326294.htm

資料3「検討項目について」にご留意ください。今回の検討は3段階免許の具体化ではなく、現在の教職大学院、教育学研究科、一般大学院の教職課程の中身の充実化が課題です。

教科を含む高度専門職に相応しい修士レベルコースの再設計、私学も参入しやすい設置基準の柔軟化、一般大学の専修免許への実習義務づけなどが検討される予定です。

そして、再来年度の教職大学院の新増設、教育学研究科の改革、一般大学専修免許条件の変更等の実施のため、来年3月の所定の規則改正が目指されています。再来年4月実施のためには、各大学は来年春までに実施計画を提出しなければなりません。

実際の検討は、省令や告示の個々の改定という細部になりますが、大事なことは、教師志望の多様な学生にも現職教員にも、魅力あり効果的な修士レベルをどうコースデザインするかです。その中で課題となっていた教職大学院の教育にどう教科を組み込みかも検討されます。

修士レベルの教育体制の量質充実の起動力になる現職派遣増については、大学院派遣を積極的に進める都道府県への研修定数増などが用意される予定です。

一気の免許法改正や修士卒へのインセンチブの付与の前に、確実に修士レベルの必要性の理解が拡がるように実績を上げるための検討が趣旨で、各大学・教育委員会の主体的・意欲的な取り組みを促すものです。

中でも国立教員養成大学学部は、その設置目的がまさに教員養成であることから、信頼される教師育成の大目的のために、厳しい自己吟味が求められるでしょう。

「学び続ける教師」はいま、全教師に必須の課題だと強く思っています。学び続けない教師は教師としてやっていけません。教師の資質能力問題は、学校や教師への不信が沈殿しつつある現状で、まさにアクチュアルな課題です。

同時にそういう教師を養成するために、教員養成に関わる大学研究者の責務は重いことを徹底自覚してほしいと思います。大学のミッションを度外視した現状維持意識ではやっていけません。意識転換が不可欠です。

なお、これらに関連した当面の課題について、私見を雑誌「シナプス」9月号に書いています。http://www.kyoikushinsha.co.jp/book/4015/index.html

近く出る日本教育学会の報告書には、もう少し長めの文章が掲載される予定です。

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こう読むー修士レベル化の中教審答申

[ 諮問以来2年ほどかかった教員養成の修士レベル化を中心とする中教審答申が、8月28日正式決定され文部科学大臣に答申されました。答申の報道直後から、ツイッターはじめネット上でかなりの数のコメントがありました。
中に、大学にただ長くいさせるのでは資質の向上にならないとか、一般の総合大学では免許が取れなくなるといった、新聞報道を元にした誤解とも言うべき意見も少なからずみられました。
私は、この間、答申案検討の中教審部会委員、ワーキンググループ委員をやっていましたが、委員としての立場は別として、少しでも正確に答申内容を見てほしいとの思いで、ツイッター上で集中的に私見をコメントしてみました。以下はそれをまとめたものです。
答申は、教師の資質能力向上のために多方面にわたって書かれていますが、ここでは、関心が集中している、「修士レベル化」がいつどのような形で構想されているかを、答申原文に即して整理することに絞りました。もちろん私個人の解釈と考えであり、内容上のすべての責任は筆者にあります。
答申発表を機会に、教育や教師の資質に関心のある方々で幅広く議論されることを期待しています。なお、この文章と併せて、本ブログにある筆者の教師の資質能力や教員養成改革に関する文章を読んでいただければ幸いです。]


修士レベル化に関する8月28日の中教審答申全文がアップされています。http://t.co/KhqR8tvB 長い文章ですが、ぜひ原文に当たって読んでみて下さい。

この答申について、①採用前に修士が義務づけられ経済的負担が増える、②大学に長くいさせても資質向上にならない、③国立の教員養成系中心になり開放制が崩れる、④総合大学や私大で教師になることが難しくなる、④実習重視で専門知識が弱くなり専門学校化するなどいろいろな疑問が出されています。それらも念頭に置きながら、自分なりに答申から読み取ったポイントをまとめてみました。

(1)将来の3段階免許と当面の改善策とを区別

答申は修士レベル化だけを言っているわけではありません。今から現職教員の修士=専修免許取得者をどうやって増やすか、種々行われている現行の公的研修を改善し専修免許の単位に認定することの可能性、研修プログラムについてもっと積極的に大学と教委とが協力し合う必要性、社会人など多様な人材の参入を促進する方法、管理職の力量アップの重要性、修士レベル化を国公私の大学連携で進める課題など、広範にわたって提案が行われていますが、ここでは焦点の修士レベル化に絞ってまとめてみます。

まず、将来の3段階の免許制度の提案と当面の改善策の提案とがはっきりと分けられていることにご留意ください。3段階免許への免許法の全面改正はかなり先のことです。答申はその方向を、高度専門職としての教職=修士レベル化と明言しつつ(「教員養成を修士レベル化し、教員を高度専門職業人として明確に位置付ける」P5)、それに向けてどういう課題があるかを、答申の過半を占める「Ⅲ 当面の改善方策」で詳細に論じています。

そのポイントは、①現行制度でも現職が修士を取れるように教職大学院を拡充する、②同時に学校課題への取組が主だったのに対して教科も含めてより幅広く学べるものにする、③総合大学の専修免許取得に当たって一部実習を課す(現行では学部で免許を持っている場合、ほぼ専門科目だけで専修免が取れる)が中心で、学部については研究授業への過度の傾斜を避けて、日常的に学校ボランティアなどで子どもと触れるようにするなどです。

(2)当面の課題の中心は、現行研修の改善と高度専門職にふさわしい教育内容の確立

同時に、教育委員会からの現職派遣の増と各種研修の改善が提起されています。つまり3段階免許への免許法全面改正の前に、実際に教師の資質を上げる方策の実施を強く提起しているのです。特に初任者研修の抜本改善が強調されています。学校が、小規模化や多忙化で、若手教師を育てる力が弱くなってきていることをふまえてのことのことです。

しかし、現職の派遣増も容易ではありません。各地域で現職の大学院入学の希望は多いのですが、現職休職(多くは1年間)のあとを埋める教員の加配が不可欠ですし、授業料の負担もあります(大学と教委で授業料減免をやっているところも一部あります)。現職派遣増の成否は、文科省からの財政支援次第でしょう。同時に、教員の資質向上への各教委の自覚と意欲が大事です。そのためには、各教委の信頼に耐えうる中堅リーダー育成の内実ができなければなりません。

学部卒については、経済的負担にも拘わらず大学院でより力を付けてから教壇に立ちたいという学生(ストレートマスターと言います)に、採用試験の一部免除などの措置が取られつつあります。実際にストレートマスターの教員採用率は非常に高くなっています。しかしだからといって、相当の授業料を負担してまで大学院を志望するのには、長期インターンシップなどで、学生が本当に力を付けたと実感できる修士コースの中身の充実がもっと図られなければなりません。

学卒者・現職教員双方について、改正前の最大の課題は、大学院レベルの高度さで資質を確実につけられる教育内容を具体的に作り上げることでしょう。これなしにただ修士レベル化を言っても無意味です。この蓄積を基にして初めて3段階免許へ進むことができます。

(3)3段階免許はいつ?

さてその上でいつ免許法を全面改正するか・・・これについて答申はまったく触れていません。いままで述べた改善策の準備によるし、何よりも修士レベル化の受け皿がどう用意できるか難しいところがあるからです(全国の新規採用者約3万人、現在教職大学院入学定員800強、教員養成系教育学研究科入学定員3300、国公私の総合大学等の専修免許取得者約1万人)。もちろん政治的・財政的状況も大きく影響します。少なくとも2,3年内は無理ではないかと見ています。

大量退職時代が終わってからという見方も有力です。しかし、そこまで教師の資質問題について待っていられるでしょうか。学校の教師育成機能の衰えや現行の各種公的研修の効果への疑問は拭えません。私見ですが、修士レベル化を、日本の教員養成の質の大改革のチャンスとして、できるだけ早期に実現した方がいいと思います。教師の資質能力の改善と向上は、国民世論からも待ったなしだと言えるでしょう

では、3段階免許実施の時、免許取得と採用はどうなるのか。ポイントは、学部=基礎免と修士=一般免、それらと採用との関係です。ここを正確に見ないと、改正後は、採用前に教師志望者全員が修士まで行かなければならなくなるとだけ捉えられることになります。これは正確ではありません。

(4)一般免許と基礎免許との関係

新免許制度については次の2点にご留意下さい。①一般免許が「標準免許」で「当面は」学部の「基礎免も併せて創設する」が「早期に一般免許取得が期待される」となっていて、将来像としては一般免許が「標準免許」で、それなしには教師になれなくなるように書かれています(8~10P)。

他方、②基礎免が維持されている段階で、一般免許と基礎免と採用の関係について3つのパターンが記されています。1)一般免許取得後採用、2)基礎免許を取得し「採用直後初任研と連携・融合した修士の課程で」一般免許を取得、3)基礎免取得採用後一定期間(7~8年?)のうちに一般免許取得の3つです(「一般免許状(仮称)」と「基礎免許状(仮称)」との関係、P11)。

この3パターンについて、答申は、「それぞれにメリット、デメリットがあり、地域の実情に応じて様々な試行の積み重ねが必要」としています。つまり、①についても②についても確定化を避けているのです。ここがわかりづらいかもしれません。でも、まずは、①の一般免許=標準化と、②基礎免許から一般免許の3パターンとを区別して下さい。

ここはこうとらえられるでしょう(あくまでも私見です)。将来の一般免許標準は間違いなく想定されているが、それまでは学部=基礎免が維持されるわけで、その際、学部卒で採用されその後修士=一般免を取得しり道が明記されているのです。

曖昧といえば曖昧ですが、一気に修士6年制による教員養成が現実的でないことをふまえた配慮とも言えましょう。この点の明確化を、資質向上への関係者や国民世論、さらには財政的見通しに託したと言っていいかもしれません。

注意していただきたいのは、「基礎免」が答申で否定されているわけではないことです。また、論理的に言って、基礎免がそれ自体修士レベル化と矛盾するものでもありません。実際問題として、そう簡単に学部での免許取得を完全に止めることなど簡単にできるわけでもありません。そこで、将来の「標準化」は別にして、まずは②で考えてみることができます。

(5)3段階免許のもとでどうやって教師になるか

もし3段階免許に法改正された場合、大きくは、学部から直接修士に進み専門や教職の力を十分付けてから採用試験を受け教師になるケースと、学部卒で試験を受け採用されて教師になり、その後一般免許を取るの二つのケースが考えられます。

この二つをただ並べた場合、お金と時間をかけて修士に行くより学部卒で教師になった方がいいと一般には思われるでしょう。ここは考えどころで、法改正後もあの3パターンが維持できるかどうかは問題が残るところです。ただ、修士卒の方が確かに力がつき採用でも有利が明確であれば違ってきます。実際に高校教員については、現状でもかなりの数、総合大学の修士卒で専修免許取得者です(答申ではさらに博士修了者の高校教員への参入を謳っています。P25)。

他方、学部卒で採用後修士の場合は、経済的負担は軽減されるし、採用後10年近く経ってからだと教師としてのブラッシュアップとして、現行の現職派遣と同様なやり方で(福井方式の勤務しながらもありうる)十分意義があります。ただそれでは、学校の教師育て力の低下のもと、新卒採用者はどうなるのかという問題が残ります。学卒新採用者が、採用直後から教壇に立ち、ただちに一人で子どもたちと格闘する困難さは想像以上のものです。すでに東京や千葉では、初任研修を3年間に延長し、若手教師育成の長期的体制を整えつつあります。

(6)採用直後の修士コースの意義

先の2)「採用直後初任研と連携・融合した修士課程」というのはこの点で意味があります。しかし、初任段階で勤務しながら修士コースというのがイメージしづらいのも確かです。担任を持たないにしてもアカデミックコースたりうるか?かつ大量の補充教員の必要が出ててきます。かつ必要有功であっても、これは教委サイドだけで決断できることか。

難問です。でも答申はそれも含めて「試行を積み重ねる必要」があるとしています。未知に属するチャレンジングな試みです。でもやってみる価値は大いにある。ただそれは、国の全面バックアップなしには無理ではないか。コース設計は工夫と努力次第でできますし、世界に類のない挑戦でもあります。

学校現場に即した、理論と実践の往還と自らの振り返りによる新しいタイプの高度専門職養成への挑戦です。一人で教室で子どもに面する若い教師たちに、そのくらい念入りな育ちを社会的に用意するのは無用でしょうか?

法改正後の基礎免の維持について、答申は確定的ではありません。でも基礎免が維持される限り、上述の初任段階での修士化の道を放棄すべきでない、むしろ新たな挑戦課題にすべきと思います。3万人の新採教員にもう少し自信をもって教育に当たって貰える体制を全国的に作りあげることには大きな意義があります。一人ひとりの教師の個別の力量に依存するだけでなく、組織的に日本の教師の「底上げ」が可能になります。

答申は、上記①についても②についても、制度的に確定的な内容にはなっていません。ただ強調されているのは、たなぼた式に教育にお金が回ってくる状況でない中で、まずは教育関係当事者で工夫し努力し、日本の教師のレベルアップに向かおう、そのための具体的準備に着手しようということだと思います。その方向性は、明確に示されており、それは日本の教員養成の大改革を期するものとなっています。

(了)
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資質向上が難しい学校のいまー退職教員からの手紙

[ 40年近く、東京近辺の大都市で中学の教師として生徒指導面で活躍し、去年定年退職した元のゼミ生から、学校現場の生の体験を基に、教師の資質向上の難しさを切々と訴える手紙を受け取りました。学校の現状を伝える貴重なレポートとして、ご本人の了解を得て紹介します。なお、最後のほうにある「下世話」との表現は、あまり適切ではありませんが、彼流の思いがこもったものと受け止めてもらえればと思います。]

僕自身が勤めてきた中学校も含めて、生徒指導の仕事上、普通の先生たちよりも相当数の学校を見聞してきましたし、この20年間は各地の学校を回ってきました。その上での感想ですが、40年近い前に僕が教員になったころと比較すると、教師集団の最大の違いは、教師集団の助け合い(鍛え合うことも含めて)がほとんどなくなったことです。個人個人の教師が一人で学び、一人で成長し、一人で教師としての理想(理想でないものも含んで)をつくらなければいけなくなっているということです。ということは、学ばないで、成長しないで、理想も描けずに年数を重ねる教師が、とても増えたことです。
         
この理由はとても複合的なので難しいのですが、

(1)学校に任せられることが肥大化したこと(たとえば、人権教育・情報教育・ 福祉教育・金融教育・キャリア教育・国際理解教育・環境教育などの数え切れない〇〇教育、生徒指導上の問題など)、           
(2)実務的な書類の作成、報告書の作成などの事務仕事が増加してきたこと、
(3)先生に任せておくという時代から、学校に要求する時代に変化し、親への対応も増えてきたこと、                     
(4)教師のいわゆる「教師観」「職業観」も個人主義的なものへと大きく変質してきたこと、

などたくさん挙げられます。いずれも時代が進めば当然のものもあります。共通しているのは、そのために教師間の意思疎通の時間がなくなってきたことです。だから、ますます教師は初任の時代から、勝手に一人で成長しなければいけないのです。

教師の仕事は「職人」の世界と似ていて、本を読んでも先輩の講釈を聞いてもだめなんです。とても、育てるまでが大変なのです。見よう見まねでまねをしながら、その瞬間瞬間で学ぶものなのです。鉄職人が弟子に見せることもなく、一日の終わりにまとめて講釈しても、弟子は鉄を一生作れないでしょう。今や若い教師は親方の仕事ぶりを見ることもなく、しかも先輩教師が講釈する暇さえないのが実態です。

企業と同じで、即戦力が喜ばれるようになったのです。そうすると、校長も主任クラスも手間がかからず楽です。ところが教育においては(ここは企業とは違うのか同じなのかはわかりませんが)、即戦力というのは始めから結局そこそこの教師ということですから、そつなく問題も起こさず、管理職にも忠実で、目立つこともせず、新しい何かに取り組むこともないということになります。「出る杭は打たれる」ですから、常に周囲に合わせながら、無難な道を歩む。 職人の世界では、まず親方の下で何年か修行し、原理原則を学びます。その上で工夫をして独自の物を作り、親方を乗り越える場合もあります。

次に昔の教師集団との最大の違いは、教師集団に核となるリーダーがいなくなってきたことです。これが一番社会を反映していると思います。リーダーは率先するべき実践と理論が必要です。実践するための決断力も問われ、責任も問われることになります。こういうことを嫌い、避けて通る風潮が強いのです。それよりも無難に続けたほうが良いということです。本来、その最大のリーダーは管理職なのですが、実は管理職は無難な教師の側からしかなれない場合が多いのです。教育委員会も無難な教師が良いのです。

それに校長になるためのステップが余りに馬鹿げています。30代の半ばには主幹教諭(または統括教諭)、30代の後半には学年主任になって、40代には教務主任になって、そして副校長(教頭)になってと。結局、学年主任からは担任を外れますので、学級経営もなくなり、生徒と直接相対することもなく、親との直接対応もなくなるのですから、教師最前線時代はわずかに10数年という出世頭も多いのです。これではとても指導力など発揮できるわけがありません。特に委員会の指導主事に35歳前後でなった人は、その後は教頭か校長で必ず現場に戻るのですから。今のままでは文科省がどんな施策をもってしても、多分無理だろうなと思っています。10数年しか教育実践をしていない人間が、指導力がないのは当然ですから、どんなに校長の権限を増やしても、その権限は生徒や若い教師を導く指導力に発揮されず、委員会のスピーカーとしての権限の発揮になっていくからです。

もう一つ。無駄な会議が少なくて愚痴がこぼせる井戸端会議のできる学校が減ってきました。個人個人がパソコンで文書をつくり委員会に送付するとかになってしまいましたが、昔なら係がまとめて紙で送るから、その時に係に愚痴をこぼせました。

石川県の金沢市のある女性の先生が言ってました。「私はこの学校に来て5年になりますが、あの先生の子どもはいくつなのか、保育園はどうしているのか、そもそも結婚しているのか。そういうことも何も知らない同僚の先生が何人もいるのです。だから、その先生が学級で困っていることがあっても、助けられないのは当然ですよね。親密感も何もないんですから。」

なぜそうなるのかと聞いたら、「だって、放課後になったらただ黙々とみんなパソコンに向かって仕事をし、話しかける雰囲気じゃないですよ。どうせ4月には転勤ですし、どうでもいいやという感じです」。教員の転勤の回転も早くなってきたということもあります。

ここまで書いていると、「何だ、君のただの愚痴だよ」と言われそうです。村山先生とこんな話がしたいと思っていましたが、先生がこのようなまったく下世話な話に興味関心があったということに驚いています。哲学は、下世話で世俗的なことには縁がないというのはやっぱり僕の偏見でした……。

下世話ですが教育問題はどれも、結局は現場の問題を抜きには無理なんです。教育学者は掃いて捨てるほどいますが、現場に影響力のある人はあまりいません。特定の教育学者や心理学者には迎合しないのが、僕の「生徒指導」論です。何から何までを支持して賛成するというのは、 “信奉しろ”と言われていると同じで、どうも僕にはできませんでした。
 
どの民間教育団体に所属しても、異論や疑問が出てきて、違う道を歩んでいました。ただ、41歳の時にある出版社が発表の機会を与えてくれて、そのお陰で今も、「荒れている学校」のコンサルタントをしているわけです。今は時間的に余裕がありますので、メールや電話で来た質問や対策に回答する日を送っています。メールで回答できない難問は電話で、電話でも埒があかない問題は直接訪問(交通費と食事代のみ)して、あちこち行っています。

こうした下世話なことに関心を持ち心配するという村山先生にも頭が下がるし、僕の教師像の中には、昔からそうだった先生の影響があるのです。「大学に勤める、下世話なことに無縁な哲学者が面倒見が良いのに、一介の中学教師が子どもを見捨てて良いのか」と時々思っていました。

それにしても長くなってしまいました。現場を知っていただきたいという思いと、退職後の思いが入りつい長くなってしまい失礼しました。(2012年4月16日)
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革新的な試みーカルガリー大学の教職修士コース(翻訳)

The Master of Teaching Program
  Annette LaGrange, Dean of Faculty of Education, University of Calgary

《平成11年の夏、北海道教育大学岩見沢校が中心になって行った国際教育シンポジュームで、北海道教育大学の姉妹校 であるカナダ・カルガリ大学教育学部のラグランジュ学部長が報告を行ったが、それは、欧米の 教員養成の新しい動向を示すものとして極めて注目に値するものだった。ここにその概要を訳 してみた。》(2000年5月記)

《上記のように古い訳文であるが、欧米の教師教育改革の先駆けをなすもので、そのエッセンスはなおこれからの日本における教師教育に有益と考え掲載することとした。
その後の筆者の教師教育改革論については、村山紀昭『北の教育と人づくりを求めて』柏櫓舎2007年所収「Ⅲ 日本の教師教育への提言」を参照されたい。》(2012年3月記)



1996年に、カルガリ大学教育学部では新しい教師教育プログラムを導入した。これ は、カナダにおける教師教育の中でもユニークであり、伝統的にカナダの大学で使われて きたフォーマットとはまったく異なるものである。Master of Teaching Program として 知られるようになったこのプログラムは、「探求(inquiry)とフィールド」をベースと し、「学習者中心」であるという特徴をもっている。

1 改革の理由

 革新というのはたいていの組織においてたいへん難しいものであり、教育学部の教師た ちにとっても例外ではない。世界中の教師教育プログラムについてその改善の必要が認め られ努力が続けられているが、決定的な革新は不可能ではないが困難だと見なされてい る。カルガリ大学のプログラムを説明したとき、よく、プログラムの内容自体よりこの大変化をどのように実現したのかにより多くの関心が寄せられた。われわれの経験では、プ ログラムを仕上げるさい、特に新しいプランが現状と衝突するときに生ずる諸問題に十分 な配慮を払わなければならないと言える。われわれは徐々に、制度上の構造が革新を抑え たり促進したりする力がどんなものであるかについて理解するようになった。また、系統 だった知識への強い固執が、カリキュラムを再構築するさいにわれわれをがんじがらめに 縛り付けていた。さらに幾人かのスタッフは、彼らの専門分野へのあまりにも強い関わり (commitment) から、学習者主体のプログラムに参与するのは難しいと感じ、改革努力に 抵抗した。これらの困難にもかかわらずわれわれは、過去のプログラムとはっきりと異な る教師養成の方法を開発することに成功したのだ。

 革新が必要だと教員スタッフに考えさせる動機には多様な要因があった。第1に、教授会に教師教育の新しい方向を提案するためのプロジェクトチームがいくつかあった。この 作業は完成することはなかったが、改革のためのベースを形づくった。

 第2に、学部長が新しくなり(Dr. Ian Winchester)、カナダのMcMaster大学での専門教 育に注意を喚起した。ここは、問題解決法的な(problem-based) 専門教育のリーダー的な 大学である。Winchester学部長のビジョンは、カルガリ大学で問題解決法的な教師教育のプ ログラムを作り上げることだった。彼は、問題解決法的なプロセスを何らかの形で考慮に 入れた理想的なプログラムを提言するよう学内の委員会に委託した。予算と制度的な足か せから自由になって、委員会のメンバーは、カルガリ大学の現行の教師養成の実際と根本 的に異なるプログラムを提案した。それらは、理論と実践を統合すること、探求の精神を 強めること、学校と地域とがもっと共同すること、学生が教師としての実践でもっとよく 使えるように知識を習得することなどを含んでいた。

 第3に、カルガリ大学自身、戦略的な大改革の真っ最中で、カリキュラム改定とその代 替プランを積極的に受け入れる用意ができていた。大学は、公的及び私的資金、学生や教 員の獲得、学位授与権をめぐる競争的な環境が強まっていることをはっきりと理解してい たのである。

 第4に、州のレベルで新しい保守政府が財政的な締め付けを強め、われわれのプログラ ムを変えざるを得ないような一連の予算削減を始めていた。また州政府は、50年間で初 めて、教師養成のための協定を大学側と再交渉しようとし、その中で、教育学部の卒業生 と現場のすべての教師に期待される資格・能力に関する新たな枠組を導入しようとしてい た。

 実際的にも教育学的にも教師教育のあり方を再構想すべき時だった。以上のような変化 への種々の刺激要因が、改革推進への動機づけを十分に貯えていたのである。

 そうこうしている中で、委員会のあるグループが、70人の学生と20の学校で行うプ ログラムのプロトタイプを作り出した。パイロット・プログラムというよりはプロトタイ プという形で始まったのは、プログラムが開発される普通のやり方と大事なところで違っ ている。学部による新しいプログラムへの公式的な関与は、学部の教員たちに、新しいプ ログラムへの努力がいずれ廃棄されるのではないかという心配をなくしてくれた。教員た ちはあまりにもしばしば、政府に採用される段になると欠点が目立ち採用されないままで いる パイロットプログラムを目撃してきたのだ。

2 学部とプログラムの構造

 カリキュラムへの 高度の統合的なアプローチと、哲学と方法論の調和の要求は、現在の大学の構造と種々の手続きとに対する挑戦である。学部の構造は、プログラムの目的を維持し高めるために注意深く見直された。学部は、すべての教員がそれぞれに入ることになる2つの部門に再組織された。そのひとつは、教師養成の基礎部門(initial teacher preparation) であり、もうひとつは、卒業研究部門(graduate work) である。大学もまた、新しいコースと学位 をどのように位置付けるかを再検討しなければならなかった。例えば、Master of Teaching Program では単位制は用いられていない。

 このコースでの学習と教育は、6つの首尾一貫したテーマによって組織されている。文章上の評価も点数もない。あるのは学期を通じた学習、学習の自己記録、卒業発表にもとづいてこのコースにパスしたか否かだけである。こうして互いに競い合う形で、学生たちは協同で作業することを受け入れるように動機づけられた。

 教育学部の800名の学生は、100人からなる8つのグループに分けられ、60人の教員が8つのチームの一つに所属する。大学院生、補助教員、非常勤講師が教員チームを補完する。これら教員チームは、チームリーダーのリードのもとに、それぞれ特殊な課題を立てた15人から20人の学生グループと緊密に仕事をする。

3 プログラムの概要

 Master of Teaching Programとして知られるプログラムは、学位をすでに取得した者のための2年間のプログラムである。このプログラムは、幼児・初等教育課程と中等教育課程の二つのコースを持っている。プログラムの特徴は、学習者中心、現場志向、探求主体である。

 Master of Teaching Programのハンドブックにも述べられているように、このプログラムの目的は、学生たちが、専門職である教育者とは何であるかを理解し、その役割に伴なう義務を果たす意欲と能力を身をもって示すことができるようにすることである。これは、未来の教師が次の事柄を理解すべきであるということを意味している。


(1)生徒、その両親、自分の同僚、教師という職業、さらには地域社会に対する教育論的な責任意識。

(2)人々が学んだり学んだことを表現する多様なあり方。

(3)理論と実践とそれらの成果に関する瞹昧さは、実際に探求しよく考え対話することを必要とするという認識。


 これらの理解を通して学生たちは次のようなことが出来るようになっていく。

(1)子どもやカリキュラムや(学校をめぐる)環境から発する 複雑で互いに衝突する要求に適切に対処すること。

(2) 「学びと教えが成り立つ土壌」を創造し維持すること。

(3)互いに協同することも一人で仕事することも、状況に応じてそれぞれふさわしい形で行うこと。

(4)教師としての行動を賢明に決められるように、自分、生徒、カリキュラム、教育環境について適切に評価することができること。

(5)多様な聞き手に対して明瞭にコミュニケーションしうること。

4 プログラムの支柱となるキー・コンセプト

教育の概念

(1) 教えるという能力は、実際的な活動であり、実践つまりは意図的で状況対応的で思慮深い行動である。

(2)教室にあっては情熱と信頼と興味関心こそが最高のものである。つまり学習と教育には主体性が不可欠なのであり、客観的なスキルや知的理解というものは全体の一部分でしかない。

(3)教育は複合的な活動であり、学校外の広範な社会的、文化的、政治的文脈から切り離し得ない。これらの文脈が、教室での教師の活動の枠組を形づくる。


教師教育の概念


(1) 教師教育は、それ自体相互作用的実践である。

(2)理論と実践は相互に滲透しあうものであり、教師教育のプログラムはなによりも理論と実践の統合を含んでいなければならない。

(3)教師はまとまった知識を獲得していなければならないが、大事なことは、学習と教授の中で一つ一つ生かしていくためにそれらの知識を「保持しつづける」ことである。

(4)教師教育における経験と知識は、それを行う場(例えば大学外のフィールドと大学内の学習)や方法論(ケーススタディ、講義、インターネット等)の多様性とバランスを中心に据えたものでなければならない。


 学習者と学習、教師と授業、カリキュラム編成、カリキュラム開発、実践、統合などの概念は、講義、専門セミナー、現場体験、個人研究、ケーススタディによるチュートリアル(個人教授)などを含む系統だったプログラムによって練りあげられなければならない。専門セミナーにおいては、学生は、さまざまな学部教育のバックグランドをもち、幼児・初等教育専攻と中等教育専攻の両者を含む「異集団」として編成される。

 ケーススタディ的な学習がプログラムの中心をなすのであるが、ここでも、幼児・初等教育、中等教育両コースに共通しているが学科毎に異なる研究テーマや教授法上のさまざまなテーマに関して「異集団」を構成することが重要である。ケーススタディにおいては、事例自体は教員によって立てられるが、これを全学生が実行する。学生は,フィールドワークで体験した事例に取り組み、プログラムの終わりに自分で立てた調査プロジェクトを完成させる。

 学生は、プログラムが始まって2、3週間のうちに現場体験を開始し、プログラムの間を通して現場とコンタクトを保つ。フィールドのほとんどは学校であるが、学生は、地域での体験実習にも加わる(図書館、刑務所、野外レクレーションプログラム等)。これらの地域体験実習は、学生に非常に大きな影響を与えている。学生たちは、教育的なアプローチや施設の多様性についてディスカッションし、教育作用が学校よりずっと広い範囲で行われており、生徒や子どもたちが多様な環境で学習しているのだということを理解するようになる。

(初出、北海道教育大学ホームページ「学長室だより」掲載、2000~2006年)
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日本の教員養成、いま・これから

いま日本の教員養成で決定的に重要なのは、アカデミックスとプラクティショナーとが手を結ぶことです。互いに無視、蔑視している時ではありません。互いに少し謙虚になれば、学び合うことは無数にあると思います。修士レベル化で、それが少しでも前進すればと痛切に願っています。

よく、「どのような要件を満たせば教員免許をもらえるのか。 教員免許は、自動車の運転免許ほども明確な基準がない」と言われます。これは大きな問題です。戦後ずっと「免許状主義」でやってきました。つまり国公私にかかわらず、大学で一定のコース=教職課程を履修すれば免許が取れるとしてきたのです。

免許状主義は、戦前の師範学校での閉鎖的な教員養成に代わって、広く免許を開放しました。しかしその弊害も近年強くなってきています。免許取得者と実際に採用される人とが数の上で大幅に違ってきているのです。大ざっぱに言って取得者は17万人、採用者は4万人くらい。これは高度成長期の大学増に伴っています。

つまり、多くの新設私大など教員免許を取れることが、学生集めの大事な手段になっているのです。このことと、教職課程の、単位の集合による認定。免許法上の単位の指定はありますが、それによりどういう資質能力が必須であるかは示されていません。

でも法人化前後から国立教員養成大学学部では、教職基準を独自に立てる動きが拡がっています。「教職スタンダード」とか「教職チェックリスト」など。4年間を通した学校現場への関わり、補習などのボランティアも多くの大学で行われています。しかし一般学部では、相変わらず最小の免許法指定科目の取得で済ませています。

そこでようやく出てきたのが、近く始まる平成18年答申の「教職実践演習」です。でもその中身は各大学任せですし、トータルに教職の必須基準をチェックするものになるかどうか疑問も残ります。たった2単位ですし。

要するに、教職課程での単位の寄せ集めによる免許取得というのが、各大学の努力に拘わらず「制度疲労」になっていると言えます。だからといって国家試験化は資質の底上げに必ずしも有効ではありません。一回の試験で資質をよく問えるはずがありません。免許取得のハードルを上げて教職に就く気のない人を排除するのには役立ちますが。開放制も簡単に廃止はできません。さてどうするか?難問です。ここがロドスだ、ここで跳べ、です。

免許状主義を維持しながら質保証をどう徹底できるか。思案のしどころです。いずれ中教審で一定の方向付けが出るでしょう。でも、いくら制度的に質保障を唱えても、実際に教員養成をやるのは個々の大学です。で、大学の教員自身の姿勢、質、教育力が問われます。免許制度と大学教育の内実の双方を問うべきです。

免許単位を増やしたり単位取得を厳しくしたり、欧米に一部ある「専門職基準」を導入したりは簡単です。でも、どういう教師の資質をどのように大学で確実に形成すべきかについての一定の共通理解と、そのための実際の教育内実がなければ、課題は全うされません。丸山真男ではありませんが、「制度をつくる精神」が大事です。

もうひとつ欠かせないのは、大学の養成と採用、研修とを一体的に変えることです。学校や教育委員会は大学の養成に不信、大学は採用後の資質に無関心ではダメです。初任研をいくらやっても、入ってくる若者は大学で年々養成された連中です。蛇口をいくら絞っても、元々の水がちゃんとしていなければ徒労です。

そこで、まずは養成段階で、学校の実際に即した養成教育が徹底されなければなりません。それを学部段階、修士レベル段階それぞれで教師教育論、教師の職能開発論として具体化しなければなりません。この内実なしにいくら修学期間を延長しても成果は期待できないでしょう。その基本的方向は、実践的な教師教育、つまりは学校現場に根ざした教員養成であり、そのエッセンスは、まさに理論と実践、学問と学校現場との「融合」でしょう。この点で、大学における教員養成は、工学や医学、看護学以上に実践的であるべきでしょう。

そのポイントにあるのが、アカデミックスとプラクティショナーとの本気の協働です。教科や教育学に関する専門的知識は高度に必須です。でもそれをアカデミックに教えるだけでは教師のプロフェッショナルとしての力はつきません。そこで、学校現場で十分に経験を積み、学級をどう運営するか、子どもにどう声をかけ接するか、いじめをどう早期に発見するか、発達障害の子を含んだ授業で留意すべき点は何か等々について豊富な「実践知」「経験知」(「暗黙知」も含めて)を持った実践家が大学の養成教育にぜひとも積極的に加わるようにしなければなりません。両者が、それぞれの持ち味を生かし足りないのを補いつつ緊密に協働の教育を行う形で。

例えば、優れた実践家からはすでに、学期はじめにクラスをどうまとめるかについて極めて具体的で有意義な知見が提出されています。これを何らかの形で大学教育でも取り入れなければなりません。かつそこでは、単なる個別のスキルの提示に終わらせず、日本における学級づくりの歴史、外国における種々の知見などとしっかりつなげる必要があるでしょう。

すでに教職大学院では、こういう教育が、研究者と実務家とのティームティーチングとして広く行われています。すべての授業が、ばらばらな教員たちによる「オムニバス」授業でなく、二人ずつの教員で緊密に共同して行われている教職大学院も少なくありません。

さらに、教員養成で重要な学校実習についても、従来のあり方とはずいぶん違ったものが求められてきています。これまで教育実習は、最後に行われる「研究授業」に収斂する面が強かった。実習生は、担任の指導のもと、たいへん緊張してこれに臨みます。それはそれで貴重な経験です。でも、これでは、学校における教師の仕事の一部に触れたにすぎず、かつ、授業を苦労してやった、との実感しか残らない場合が多いのです。ですから、教育実習が終わって、教師にますますなりたい、という学生もいますが、中には、これで自分は本当に教師になれるんだろうか、というまっとうな疑問に駆られる学生も少なくないのです。

確かに現行の4週間ほどの実習ではそう十分なことはできませんが、それだけでなく、学校での実習のあり方を学生自身が自分の実践を振り返り(省察)、それを自らの知識・技能として確かなものにする実習に必ずしもなっていないのです。その基本的責任は大学にあります。つまり、学校現場で実際に学生が苦労しながら体験していることに対して、大学教育の一環として適切に関わるすべが、これまで大学にあまり用意されてこなかったのです。実習期間のうちせいぜい2,3回指導教員が学校を訪ね、短時間実習生と話し合うだけで終わっているケースが少なくないでしょう。

授業の内容に関してもそうですし、子ども理解、学級づくりにかんしてもそうです。例えば算数で子どもが実際の授業でつまづいている点にどう関わりどう指導したらいいのかについて、教科の知識と授業の実際をつなぐ方法ができているでしょうか。学級づくりについて実際の場面に即して実習生が直面した具体的な事項について、これを一定の確かな知見として学生に身につけさせるすべが大学にどこまで用意されているでしょうか。これらがなければ、学生の実習に際して大学教員が、実習体験の学生自身の振り返りを教育的に「看取る」指導が成り立たないのです。ここに、アカデミックスとプラクティショナーとの協働の必須さがあります。

アカデミックスとプラクティショナーは、いままであまりに互いに無関心で、時には対立的でした。それでは、教員養成の必須知識の講義でも学校実習でもいい教育はできません。両者が本気で手を結んで、それぞれの持ち味を発揮して協力し合わなければならないのです。

教師の資質能力の向上のための教育について誰が悪いの議論は不毛です。問題の所在を大きなパースペクティブで透察したいものです。その上で少しでも解決の方向に向けて手を結び合っていかなければなりません。大量退職、採用時代の今それをやらなければ日本の教育は変わりません。その急所が、アカデミックスとプラクティショナーとの協働なのです。
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福井大学の学校拠点方式(2)

福井二日目は、朝9時から午後2時までびっちりと「ラウンドテーブル」。

400人が6人ずつテーブルに別れ、無意味な挨拶など抜きに討論に入ります。かつワールドカフェとは違い、予めテーブル毎に3人発表者が決まっており、30分ほど資料に基づいて話をします。それについて1時間話し合いします。

これはいいやり方です。中身がありますから。僕のテーブルの発表者は、中学の教務主任である現職の教職大学院2年目学生、ストレートマスター1年生、数年前に修了した高校家庭科の中堅教師。その他コーディネーターは、県教育センターの指導主事、もう一人は上越の教職大学院の准教授です。

いずれも興味深い発表でした。最初はベテランの教務主任院生。彼は新設の小規模中学の設置準備そのものが大学院での研究テーマでした。福井の学校拠点方式では、現職院生は自分の勤務校で職務をしながら院生としての研究に2年間取り組みます。

興味深かったのは、学校の教育目標を作り上げるプロセス。学校内で週1回行われる研究会のグループで1年かけて徹底討論をします。まずは地域の子どもの実態から始め、小さな地域社会に閉じこもりがちな状況から、「外でも通用できる力」をつけることがホワイトボードを使って導きだされます。

面白いのは福井の先生方はそうしたやり方をファシグラとか流行のタームを一切使わないで普通にやっていることです。

で、作り上げたのは、「社会で通用する人を育てたい」という目標で、それを「社会参画型学力の育成」と定式化します。その際武器にしたのは、最新の中教審のキャリア教育に関する答申です。それは、現職の場合、月一回大学に集まり指導教授のもとで蓄積した学習です。

その目標はすでに実行の段階に入っていますが、問題点を質問したところ、生徒の活動力は上がっているが低学力の問題になかなか食い込めないとのことでした。福井は皆さんが「協働の学び」と言います。しかし基礎の習得と活用をどうつなげるか?、基礎自体の習得は?、というのは大きな課題のようです。

次は、中学の体育教師を目指す若いストレートマスター。彼女は拠点校に週3日フルタイムで通います。学校でTTとして体育の授業に加わったり、毎週の校内研究会にも職員会議にも専任と一緒に参加します。でも自分の研究テーマも持っています。テーマは「自己肯定感を高める教師をめざしてー生徒の行動を見取ることで変わった対応の仕方」。

きっかけは、体育の授業でいつも何人かの生徒が、授業に参加せず体育館の隅で座り込んでいたことだそうです。そういう生徒をちゃんと指導して参加させるにはどうしたらいいか、学部では全く分からず、このままでは教師にすぐなる気になれなかったとのことです。まっとうなモチベーションです。

彼女は、一年間体育の授業もやりつつこの課題のために問題行動のある生徒数人と個別にとことん関わってきました。褒め方叱り方などいろいろ試行錯誤しながら。その際、毎週一日大学に戻ってやる指導教授を交えたカンファレンスが大きな役割を果たしているそうです(あとの一日は教材研究などの研修日)。

午前中はそれぞれが持ち寄ったケースを出し合い討論します。こういうカンファレンスはアメリカでよく見られる方法です。午後は教授が提起する課題とテキストについてゼミ的に学びます。彼女は文科省の最近の「生徒指導提要」を読み込みます。当日のやり方はゼミというより英国のチュートリアルのような感じです。

でも問題ある生徒との具体的な対応策の答えはまだ見つかっていません。ピアスを付けたりその穴を空けた生徒をどう指導するか、ずいぶん考えているようでした。おそらく一年後彼女は、それなりの答えを報告書にきちんとまとめるでしょう。福井では修了時点で、百数十頁に及ぶ報告書を立派な冊子として残します。

午後は、すでに修了した高校家庭科教師です。彼女は東京の私学の家政学部卒業者です。教職大学院に入った動機は、大学で教職課程を経て免許を取り教師になったが、専門は自信があったがあまりにも教職について無知であったので自信を持てなかったからと言います。就職後10年以上たって志願しました。

彼女の発表は具体的な授業の中身で、興味深かったです。簡単に言うと住居の設計図を読み取る授業で、特に引き戸と扉の違いを理解させようというもの。生徒はその違いをほとんど分かっていません。なんでもドアの感覚です。で、いちど興味を惹くためにグループに分けて夢の家ということで自由に絵を書かせます。

しかしその結果はかんばしくありませんでした。テストで、引き戸と扉の違いをかなりの生徒が分かっていなかったのです。特にグループの中で勉強苦手な子は、ほとんどグループの活発な子に任して自分では考えていないことに気づいたのです。それで翌年作戦を変えます。

はじめに両者の違いをきちんと教え、その記号を紙に書かせて練習させたのです。結果は90パーセントできるようになったと言います。これを巡ってのテーブルでの討論は意見が分かれました。やはり生徒の興味や自発性が大事だというのと、両者の違いをとにかく理解させることは十分価値があるというのと。

発表した先生は、生徒がいずれアパートに入るときにも必要だと話していました。でもここは結論を出す場ではありません。テーブルの6人それぞれ問題意識を持って終わったと言えるでしょう。

以上がラウンドテーブルの概要です。

教員の資質能力向上の福井方式について、かなり具体的なイメージを持てました。要するに、徹底して学校での実際に即してやろうということです。かつ、それを院生自身の自らの「振り返り」を通してやる。固く言えば実践の「省察」です。その際グループでの討論が大事です。

これは、アメリカのPDSやショーンの高度専門職に関する反省的実践家の蓄積を一つのベースにしたものです。ただ、そのモノマネでなく、またがんじがらめの押し付け的枠組みでなく、柔軟に伸び伸びと展開している点が注目されます。

ショーンも言うように、医師や弁護士と違って、高度専門職といっても法則性の「応用」が容易に効かないのが教職の難しさです。多様な子どもたちは応用では済みません。また丁稚奉公的な訓練で済むものでもありません。その点で、福井大の学校拠点方式は、高度専門職としての教員の資質能力向上の有望な試みだと言えるのではないでしょうか。

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福井大学の学校拠点方式(1)

福井大主催の教師教育等に関する集会で今日3月3日から三日間福井に来ています。

全国から、大学関係者だけでなく、学校教師、教育行政関係者、大学院生など400人くらい参加。今日は、中教審の修士レベル化の動向の報告のあと、グループに別れて討論。明日は、一日小グループに分けてラウンドテーブルです。

今日の討論で注目されたのは、関西で、教員採用が多いなか教師志望学生の学力がかなり下がってきていて、十分資質を磨かないまま、例えば授業案もまともに作れない状態で教師になっていっているという現状。しばらく続く大量退職、大量採用時代にこれは深刻な問題だと再認識しました。

教師の資質能力で大きなテーマは、教育委員会と養成大学との連携。例えば福井はこれがずいぶん進んでいます。教育委員会の研修も上意下達のようなものでなく大学の協力を得て学校現場を基礎に、世代を混みにしワークショップ型で行うなどどんどん変えていっているとのこと。

更新講習や10年目研修なども大学が協力し、後日の教職大学院入学の際単位として認められるようにしていく予定とのこと。そして県独自にいずれほとんどの教師を修士レベル化していく方向とのこと。これは刮目に値します。

これまで教育委員会や学校は、大学の養成は当てにならんと不信、大学は採用されたら後は教育委員会の問題と、知らんぷり。この辺り福井ではかなりの水準で信頼性と協力の関係ができつつあります。

その中で今回注目したのは、大学側が達成すべき教師の資質能力のスタンダードを検討しこれからじっくり教育委員会とワークショップで詰めていくとの試み。これに関しては、福島大の先例があり、学生の意欲低下の中2年かけて教育委員会と一緒にどんな教師を育てるかを研究しそれに基づいた教育を始めているという。

福井大の教職大学院は「学校拠点方式」といい、現職も学部卒者も一年間、インターンのように学校に所属し、学校の中で毎週一回全教師参加で実際的な研修をおこないます。院生は学校の全ての活動に加わりかつねにその経験を記録し大学の教員に報告します。その中で各自テーマを決め修了時に冊子にまとめます。

その中で特に重視しているのは、週一度大学に戻って数人のグループで長時間、指導教授のもとでやる「カンファレンス」。それぞれ経験を持ち寄り吟味し合います。修了時の冊子は、これらを自ら振り返り自分の達成度を確認する意味を持っています。レクチャーは、夏休みなどに集中して大学で行われます。

このように学校が大学院教育の大事な場になっています。その学校は、教育委員会が県の研究モデル校に指定していて、研修が日常の主要な活動になっていて、すでに教職大学院修了者が何人もいて院生の指導に当たります。修了者をこのように教育委員会がミドルリーダーとしてキャリアパスの中に明確に位置づけています。

そういう位置づけのもと、大学院の授業料も、現職院生が勤務している市町村の教育委員会が一部負担しています。ここまで大学と教育委員会との連携が進んでいるのです。

福井のこのような取組は今後の教師の修士レベル化に大きな示唆を与えてくれています。(続く)

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厳しさの中で問われる教育の目標と教育改革への視点

(1)エルピーダの破綻の中で

エルピーダの破綻、液晶テレビに続いて日本の製造業の危機、どこまで続くのか。これらの産業構造の大転換は、就業構造に繋がり、さらには確実に学校教育の在りように関わってくる。これからはITだなどの言説には与しないが、教育問題を産業構造と繋いで検討しなければ無力なのは間違いないと思う。

教育の目標は、とりあえず子どもたちの社会的自立だ。しかし自立しようにも高校・大学からの出口が混迷を極めている。その中でも生き抜く力をどう育てるか。しかしそれは教育の力だけで全うしない。教育と社会とが緊張関係にありながら、相互に正の相互関係を作っていく視点が必要なのではないだろうか。

学校や教師、そして種々の教育論はともすれば学校世界内部の議論に閉じる傾向がある。これでは、パワーのある政治経済の現実に翻弄されるだけだ。学校世界の外にあるものに目を向け、政治経済の要求を見極めながらそれを乗り越える力をどう教育が持ちうるか。難しい課題だが避けられない。

就活で挨拶の仕方や会話力を問い詰められる学生たちを見るとやりきれない思いがする。下手をすると、調子がよくしゃべりの上手い学生ばかりが目立つだけになる。教育の力ってそんなものだろうか?知識基盤社会はそんな言葉だけの世界ではないだろう。知は力であるの精神をあらためて噛みしめるべきだ。

こんなときだからこそ、知が、教育が社会を作り動かすことへの想像力と構想力を持ちたい。そういう視点から、これまでの教育論を問い直したい。学校世界内部だけであれこれの方法の是非を論ずるのをそろそろもう止めた方がいいように思う。教育の世界ほど言葉だけがきれい事で舞う世界はないのでは。

例えば「自立」という言葉がある。その実質をどれだけ教育関係者は厳しく吟味してきたか。何かかっこよく自分を発揮するような浮いたイメージが溢れていないだろうか。自立は自分勝手に自由に事をなすだけの甘いものではないだろう。福澤流に言えば、社会で一人前に生きていけることだ。社会に益になるように他者への尊敬と寄与をしっかり備えつつ。そのとてつもなく厳しい姿を重く理解し適切に子どもたちに伝えてきただろうか?

ふわふわとして実体のない「自立」観念、しっかりした基盤のない「主体性」の観念を、教育論の中でもう一度じっくりと見直したい。いままでは知識の詰め込み、これからは思考力判断力表現力だという中身の不透明な言辞もよく考えなければならない。

一つ一つの知識の習得と考える力がどう繋がるのか、知識の積み重ね抜きに思考力はそもそも可能なのか?思考力はなぜどのように社会で生きる上で大事なのか。それはどの程度どのように公教育の中で満たされなければならないのか?

(2)公教育の改革

時まさにこのような日本社会の危機の中で、橋下氏の過激発言などで日本の教育改革をめぐる議論が再びホットになってきている。

なかなか変わらない日本の学校教育に関する橋下さんのいらだちも分からないわけではない。しかし、本当に変えようとするなら学習指導要領さらには教基法・学教法の全面改正が必至。そこまでやるパースペクティブをもって議論するのかが問われる。

日本には小中高の教師が100万人いる。巨大な組織だ。これを号令一つで変えることなど到底できない。教育論ほど地に足のついた改革論が必要だ。

そもそも学校教育の改革には、教育目的、目標に関する「国民的なほぼ共通の理解」が必須だ。いまそれはどうだろう。どんどん競争を進め創造的なエリートを作るとか、学校不適応のどんな子にも居場所を保障するように一部ヨーロッパ型のオールタナティブ教育や学校選択制を導入するとかにどれだけ合意があるか。

同時にいつも気になるのは、学校や教師の社会的視野の狭さ。ともすれば、学校という隔離された空間に発想を閉じ込めてしまいがちだ。教師が教育の理想を語ることは大事だが、もう24の瞳の時代ではない。学校世界の「出口」を小学校からもいつも見据える発想がなければ。

教師一般に根っからある信念は、自分たちは子どもたちの成長や夢のために絶対に有意義なことをしているという思いだと思う。それはそれで貴重だ。さすがに一昔前の、「全面発達」や「無限の可能性」とか、勉強がダメならスポーツをなどの議論は影を潜めたが、こうした特有の思いが「学校王国」の中で「検証の意識」を欠くことが問題だ。

というと、教育の成果はすぐ確認されるようなものでないという議論が出る。しかしそういう一面まっとうな議論が、時に自己弁護や無責任につながっていないかが問われている。活動の結果を他者に説明できないようなものはやはり問題ではないか。学校と社会の壁があってないようになっているいまはとくに。

学校や先生方が、直ちに確定的な数値で表されなくても、自分たちの活動の目的や意味、確認されつつある結果について堂々と説明することは、現代社会では必須だと思う。こうした発想を成果主義、競争主義などとイデオロギー的に断罪するだけでは自分たちの権利も守れなくなるのではないだろうか。

義務教育段階での教育の成果、結果を客観化し確認する方法を開発しなければならない。これはおもに教育行政と教育学者の仕事で、従来から評価理論などの研究は盛んだが、社会的な視点がやはり弱い。最近市川伸一さんが「社会の中で生きる学力」という視点を強調し始めているが、まだまだこれからの課題だろう。

日本の教育学者は、実践と結びつくというと、特定の学校を自分の教育方法の実験場としてデータを集めるとかをメインにしている方が多いように感じる。自分の教育方法がここまで拡がったと自認するのを見てもどうもむなしい。現実の教育政策と切り結んだ展開を期待したい。

例えば先日ETVで大々的に報じられた「学び合い」。素晴らしいと思うが、これといまの指導要領の中身、実際の学校の教育体制・指導法などとつなぎ合わせなければ、現場の大多数の教師にとってはあさってのことでしかない。そういう問題意識を持って教育方法の開発を、現代日本社会に厳として存在している日本の公教育全体の改革とつなぎ合わせる方向で取り組んでほしいと願う。

学校として学力をどうやって確実に向上させるか、こういう目標を立ててこうやって学力を向上させた、できる子も勉強苦手の子もこのように精一杯力をつけている、公教育である限り学校間、地域間の「格差」は最小限にするようこうつとめている、いじめや学校不適応になりがちな子にはこのように学校全体で取り組んでいる、学力とともに大事な子どもの社会性の発達のためにこういう取組をやりこんな成果を生んでいる・・・。

これらを、各学校、教育委員会は、はっきりと分かりやすく地域と国民に説明していかなければならない。そうした実際の活動と事実に基づいて、日本の公教育全体の構造と政策をどう変えるかについて、教育行政や教育学者等は課題提起と解決法を提示しなければならない。難事だが、この大道を行かずして日本の公教育と教師への信頼と尊敬は取り戻せないであろう。



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学校の役割・小考

先週、ある小学校を訪ねて、給食の時間に、2年生の子どもらが全員頭に白い三角巾、胸にエプロンを着け整然と食事をしているのを見て驚いた。1年生からやっているとのこと。しかも当番が盛りつけまでやっている。同行した韓国の校長先生はただ驚くばかり。

学校は、学力をつけるとともに「社会性」を養うところ。日本の学校ではこれが徹底的に行われている。かつこうした学校規律如何が学習にもつながっているのは事実だ。学校で規律が日常的に重視されるのは、社会的ルールを教えているだけでなく、集団での学びは規律なしには成り立たないからだ。日本の先生方は、このことを過剰なくらい無意識のうちに感じ取っている。ひょっとすると昔以上にいまの方が強く。こうした「日本の学校事実」をふまえないで、個性とか他人と違っていることの意義を強調するのは議論としてはいいがリアリティを欠きがちだと思う。

ある優れた若い先生が、「学校で行われている「個性尊重」って俳句の決まりの中の自由みたいでちょっと窮屈。そう思っている子供は多いと思う」とツイッターで書いていたが、その通りだ。日本の学校教育のそれこそhiddencurriculumかもしれない。

つくづく思うのは、学校文化と社会文化とは根底でつながっているということだ。学校だけで社会文化を超えて変えろといっても土台無理な話。少しずつ相乗的に変えていく視点が必要でないか。

そもそも、それまでの家庭教育から、学校という社会制度で、家庭から隔離して一定の子ども集団を系統的に学習の場に置くのが近代学校。元からそこには社会性の育成が含まれている。これを認めた上で、さて一人ひとりの個性を学校としてどこまでどう関われるかが問われるのだ。

学力というと、よく先生方は豊かな人間性とか言う。これがどうもambiguousだ。もちろん人に迷惑をかけないとかのモラルを教えることは必要だ。しかし一人ひとりの性格や個性に学校がどこまで関われるか。そこに明確な限界が横たわっていないか。持って生まれたものと社会からの影響の意味は大きい。

にもかかわらず少なくない教師たちが豊かな人間性に拘り、学校の役割の基本を学力に置くことにためらいを持つのは、子どもの側からその可能性を開発することが学力より以上に意義があると感じているからだろう。

たしかに、例えば学校行事で、子どもたちは感性が磨かれ文化の豊穣に触れる。それは人間として望ましいことだ。あるいは音楽の授業の合唱で、歌の技術だけでなくハーモニーのすばらしさや芸術の人間的癒やしなどを感じとり自分の資質として養う。

しかし、考えてみよう。だからといって子どもらはみんなが芸術家になるのでもアスリートになるのでもない。一時教育で言われた、英語のできない子は理科が、学科ができない子はスポーツが、スポーツが苦手な子は芸術ができればいいのだ、という言説は非常にトリッキーな議論だ。おうおうにして、小学校段階ではとくに、運動がダメな子は勉強もダメだ。それに将来のそうした特別な進路は到底学校教育でまかなえるものではない。最近では、サッカーも学校の部活よりは、専門家による地域のクラブに入って将来をめざすケースが多い。

もうひとつ、学校でよく子どもに問いかけられる「将来の夢」。バレーリーナになりたい、野球選手になりたい等々。そうした子どもの夢を大事にすることはいいことだが、それと「社会に出て一人前になること」とは別だ。社会制度としての学校は、この点では、やはり子どもら全員の「社会的自立」こそが目標であり社会から託された責任だ。

学校の役割と目的に、過大に豊かな人間性などを置くべきではないと思う。公教育は、社会に出て一人前に食べて生きていけるように基礎的な学力と社会性を身につけるのが基本だ。このベースがちゃんとあって、そのすそ野の上に個性と人間性が開くのを期待するのではないか。

教師がいくら努力や頑張ることが大事だと諭しても、頑張れない、努力できない子がたくさんいる。そういう子にも、教育のプロとして、ちょっとでも分かって嬉しいところに導くのが教師の本分ではないだろうか。

中に、他人に対して乱暴を働いたり万引きに手を出す子もいる。そういう子どもにいくら人間性を説いてもそれだけでは効果はない。学校ができるのは、学校と社会のルールをきちんと身につけさせ守らせることと、そういう子にも、学んで知識を得ることの喜びと意味を実体験させることだ。そういう子たちも、何かを知って分かればどこかで自分を振り返ることができるかもしれない。

そういう意味で、学校は何よりも「知の共同体」だ。学校は子どもの何から何までを引き受ける必要はない。知の共同体としてのルールを通して社会性を発達させる。その上で個性や性格や人間性は、ルール破りにならない限り尊重し励ます。

要するに、学校と教師の役割は、どんな子に対しても、少しでも分かり知識を得て拡げていくようにすることだ。上位の子にも下位の子にもそれぞれに相応しく。それをどんな状況でもできるのがプロとしての教師の力だ。この基本を忘れてはならないと思う。誰が悪いこれが悪いの話に振り回されないでほしい。
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不登校生に関する福井大教育学部の取り組み

 福井大学教育学部は、不登校の子どもたちに対する取り組みで、素晴らしいプログラムをやっています。


 札幌市では来年度から、フリースクールへの財政支援とともに、不登校への新たな取り組みとして退職教員中心に個別に不登校生徒に対応する「心のサポーター」制度を始めるようですが、福井の取り組みはその弱点(退職教員だけだとどうしても学校サイドからの対応になる)を補う大事な方向とも考えられます。


 福井のプログラムは、大学と教育委員会が全面協力し、教育学部の学生が必修で個別に不登校の子どもと関わり一緒に遊んだり勉強したりするものです。任意の学生ボランティア的な不安定なものではありません。やり方がとにかく徹底しています。


 4月年度はじめに、顔合わせをし、個別に1対1の組み合わせをつくり、週一回必らず子どもの状況や希望に応じて家庭、学校の相談室、適応教室その他で継続的に1年間活動します。福井県ではいま約800人の不登校生がいるそうですが、その内の福井市内の約200人をほぼ同じ数の学生が面倒をみます。1回2時間で、学生には交通費として2000円が教委から出ます。


 学生たちはただふらっと子どもと関わるのではありません。活動ごとに必ずネット(e-ポートフォリオ)で、今日はこういうことをやった、こういう問題を感じたなど記録を書きます。それに対して、大学の教授連中が必ず確認し、ネットで意見を書きます。さらに、月1回、全員が集まり、小グループで、カンファレンスを行い、それぞれの事例を報告し、自分の子どもへの対応を振り返り改善策を考えさせます。これには、市の適応教室の専門のカウンセラーも加わるとのことです。


 この活動は、福井大の教員養成のカリキュラムの中で中核をなす3つの「教育実践研究」のうちのひとつで(教育相談実習、ライフパートナー事業、その他は授業づくりと総合学習の探究カリキュラム)、まさに正課そのものなのです。もちろん単位になります。


 このプログラムを終始リードしてきた福井大の先生が言っていましたが、福井大では教師としての資質を学生として磨くうえで不登校生との関わりが必須であるとの強い信念のもと実行してきたのです。しかも、付け焼き刃でなく、平成5年から、はじめは希望学生だけで行い、平成15年からは文科省の補助金も得て教師志望学生全員に必修化したのだそうです。


 実際の活動の中身ですが、大学発行の小冊子によれば、もちろんそう簡単にすべてがうまくいっているわけではなく、学生が家庭を訪ねても子どもに会わせてくれなかったり、子どもの先生への不満を学生がポートフォリオに書いたらそれが拡がって学校から抗議されたり、約束した日に学生がたまたま行かなくてその後相手との接触が不可能になったりなどいろいろあったそうです。


 しかし、この難しい事業がここまで続いているのは、教師としての成長にこういう実践ー反省というサイクルが非常に有効であるとともに、「学習」と「支援」を一方に偏らずに位置づけてきたことにあるとまとめています。


 現地で実際に担当の先生から説明を聞いたとき、ぽつりと、「学校復帰などを目標にはまったくさせていません」と言っていたことが強く印象的でした。これは不登校問題を扱うときの急所です。


テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育

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教員の資質能力向上のためにー修士レベル化の可能性(下)

4 一般免許=修士レベル化とは


1)今回の修士レベル化の議論に関して、未だに「ただ修士化しても教員の資質能力向上には役立たない」「教師志望者が激減する」という意見が多く出されます。これは、そもそもの中教審への諮問の段階で、5年ないし6年の養成期間の延長による修士化が方向性として一斉に報道されたことも影響しています。
 しかし中教審特別部会での議論は、養成期間の延長による単純な修士レベル化を基本方向として行われてはいません。すでに述べたように、教師の成長過程の中で、基礎免許=学部教員養成に続く一ステップとして検討されているのです。


 教師になるための基礎的な教育として、まずは知識として学ばなければならないことが多くなってきています。教科の深い知識だけでなく、教育の基本原理、世界と日本の教育の歴史と現状、学習理論、教授法、さらには環境やジェンダー、国際理解、 ICT、発達障害、不登校など、その基本的なところは大学できちんと学ばなければなりません。これらは、大雑把に言って20年前くらいと比べても格段の違いです。またそもそも教職は何といっても「知的」な専門職です。


 同時に教育の仕事は、目の前の子どもたちとの関わりの実際場面ではじめて機能する実践的な行為であり、その技能と力量は教育の現場での実践的な活動を通して磨かれる面が強いものです。教科書が同じであっても実際に教室で向き合う子どもたちは、年によっても違いますし同じクラスであっても日々その反応は異なります。これに直接一般的な教え方の知識を応用することは非常に難しい。日々の実践経験から言わば体に染み込ませるようにして身につけて得られるのが教師の技能です。この点で医師や弁護士など専門的知識の蓄積を実践場面で基本的に合理的・技術的に適用可能な専門職とは、やや位相を異にしています。


 この両面、知的側面と実践的側面とを教師の成長プロセスと養成・採用・研修の仕組みの中でどう適切に組み合わせるかに資質能力向上策のポイントがあります。
 これまで、大学では一般的知識、実際の力は現場に入ってからというのが暗黙の了解で、実際のところそれで何とか保っていたのも事実です。しかし知識基盤社会のいま、知の面でも実践の面でも課題はあまりにも多く、到底それでは済まなくなってきているのです。


2)この10数年、こうした課題の認識から、多くの大学の教職課程、とくに国立の教員養成大学・学部で、1年次から学校に入り子どもの学習支援をしたり4年間の実習時間を大幅に増やすなどの努力が続けられています。しかしそれだけでは体験的知識の強化にはなっても、教師としての専門的技量の獲得にはなりません。それには、一定の期間、当事者意識をもって系統的に自分の実践を吟味するような時期が必要だからです。
 そこで、1年ないし2年間ほど、当事者意識をもって実際の学校現場を基礎に行われる系統的で高度な技量形成の期間が必要でしょう。これを学部における教師の「基礎的資格」の形成と区別して、自立した教師の「公証」として新たに設定しようというのが「一般免許=修士レベル化」です。


3) このような専門職としての技量の形成の仕組みは、欧米ではこの20年くらい職能開発ないし職能訓練として広く行われています。
 アメリカでは、入職後の多様な研修による免許更新・上進制とともに、PDS (Professional Development School) が学校の実際と課題に即した資質能力向上のための実習・職能開発システムとして位置づけられていますし、イギリス、ドイツ、フランス、カナダ、オランダなどでは、それぞれ性格は違いますが一般学部卒業後1年から2年の教師訓練コースが教員養成で重要な役割を果たしています。


 それらは多くの場合、learning by doing をモットーに、学校現場を基礎とした理論と実践の往還(理論→実践→省察→実践・・・)による資質能力の獲得・向上をめざしたもので、理論の応用としてだけでは困難な、教師の専門職としての技量を確立する方法としてほぼ確立されたものになってきていると言えるでしょう。
※その具体的なコース内容は、例えばオランダ・ユトレヒト大学のフレット・コルトハーヘン著『教師教育学ー理論と実践をつなぐリアリスティックアプローチ』学文社、2010年を参照。


 日本では、こうした流れを踏まえながら、専門職大学院(プロフェッショナルスクール)のひとつとして平成20年から教職大学院がつくられ、理論と実践の融合を基本理念に、研究者教員と実務家教員とのTT などによる協働の教育、指定協力校による学校現場との密接な連携、フィールドにおけるケーススタディ重視など従来にない教員養成の仕組みを展開しつつあります。


※上記の欧米のPDSや教師訓練コースは学位課程ではありませんが、近年フランスやドイツでも内容の充実のため学位化=修士化の方向に進みつつあります。ただ修士化といってもヨーロッパでは小学校教員と中学校教員の養成が大きく違う場合が少なくありません。またアメリカのPDSともつながる更新・上進制は、現職の免許保有率がかなり低い状況のもとで成り立っており、かつ上進のための研修が極めて多様であるなど特殊な状況にあります。欧米のものをそのままモデルにすることには無理があります。


4)欧米の新しい職能訓練・開発システムと日本における専門職大学院としての教職大学院の経験から、こうした一定期間系統的に理論と実践を往還させるコースを教師としての養成と自立のある段階に何らかの形で組み込む必要性と可能性が、いま明確になってきているのです。


 一方で大学における養成で実践的体験を重視し、他方で教育委員会等が採用後初任者研修や更新講習で資質能力向上に力を注いでも、教師への信頼と期待には応えられません。問題の根本解決には、まず、1ないし2年間にわたる実践的な訓練コースを養成ー研修のプロセスに組み込むシステム転換が必至なのです。


 もちろんこうした方向は、一定の結果を出しつつある教職大学院を中心に一気に6年養成制にしたり、学部4年の養成はそのままに採用後1-2年間担任など担当させず徹底したOJTを行うなどにより、免許制度に関係なく実現することはまったく不可能なことではありません。しかし実際には両者とも現実的ではありません。前者については、実践的教育の徹底において大学側はまだ十分な体制と意識が確立していませんし、後者についても、教育委員会と学校がそこまで研修に力を注ぐ余裕はおそらくありえないでしょう。


 ここで学部教員養成のあと免許上ひとつスクリーンを入れて「修士レベル化」としてシステム転換を試みることは、それをいつどの時点でどのようにして行うかという難問が残るにせよ、十分意義あることと言えるでしょう。


 このような意味での修士レベル化=一般免許の設定にはおおよそ次のような有効性があります。


(1)高度専門職として教師が備えなければならない資質能力を「一般免許状」という形で社会的に明確に公証し、ひいてはこれを教師への信頼尊敬を強める手だてとなしうる。
(2)教師の資質能力の知的側面と実践的側面とを、学部教員養成と修士レベル化との間で順序立ててつなげることができる。
(3)教師志望の学生に、自立した教師の目標を目に見える形で示し、教師への自覚を強めることができる。


5 一般免許から見た学部教員養成


1)以上の「一般免許=修士レベル化」から見て学部段階の教員養成のあり方についてどう考えたらいいでしょうか。これは修士レベル化が現実化される中で各大学が大いに検討すべきことですが、修士レベル化との関わりに限って私見を述べたいと思います。


2)まず、基本的な視点として、学部段階で「実践的指導力」を過大に求めたり、他方で実践抜きの専門教科ないし教養重視に陥ったりするのはどちらも適切でないということです。
 教師志望者にとって学部段階は、学士教育においてまずは幅広い教養と深い専門知識をどん欲に学びとらなければならないかけがえのない時期です。それとともに、教育の実際に触れつつ教職への自覚と決意を固めることが重要です。


※この点に関連し、18年答申が、学部教職課程は「教員として最小限必要な資質能力」を確実に身につけさせるもので、その意味は「学級や教科を担任しつつ、教科指導、生徒指導等の職務を著しい支障が生じることなく実践できる」こととしたのは、「消極的規定」であって再吟味が必要だと思われます。


3)幅広く深い教養と専門的知識は教師の資質能力の言わば土台であって、学部段階で一貫して追求されなければなりません。教師の仕事のコアが知的営みであることは片時も忘れられてはなりません。教師はひとことで言えば、「大いなる知の使者」なのです。


 しかしそれは、単なるばらばらな個別の専門知識や教養の寄せ集めであってはなりません。子どもたちの学びと教育の実際を踏まえつつ、一定の教育学的テーマ(教科内容を含む)について「探求」し続ける姿勢を磨くものであることが大事です。国語でひとつの童話を教えるにしても、子どもの視点に立って、作品の狙いや背景、童話史の中での位置などをとことん探求したり、地域課題を教材にすべく産業の実態を徹底的に調べたり、発達障害や不登校について、その教育的課題を踏まえてどう関わるかを自分なりに探求するといったように。おそらくこうした知的・実践的テーマは無限にあるでしょう。


 その際、養成カリキュラムの中で、これを「探求プロジェクト」として主要な柱のひとつにすることが考えられます。その中で、教育の実際を視野に置きながら専門的知識と教育学的知識とをつなげ、教職への使命感や自覚を具体的な探求と学習の課題にしていくのです。教師としての探求的な姿勢とそのための手だての習得こそ、学部の養成段階を通じて最も重視されるべき資質能力だと言えます。それは、学生の知的好奇心を最大限満足させ知的に成長させるものでもあります。


 さらに、この探求プロジェクトは、学生グループの協働的な活動として組織することも重要です。これは、資質能力の重要課題になっているコミュ二ケーション力、社会性さらには「人間力」の育成に有効であり、ぜひとも学部段階で一定程度達成すべき課題です(発話、会話、発表、討論、協働の力量形成など)。


4)教育実習については、これまでの「研究授業」に収斂したあり方を改めて、1年から4年まで、学校や教育施設を訪ね、子どもと直接触れ合ったり学校や教師生活全体を観察するなどして、教育と子どもの実際を踏まえて教師としての自覚を高めるものに改善する方向が考えられます。
 現行の研究授業中心の実習は、受け入れ学校と担当教師の奮闘、学生の根を詰めた努力にもかかわらず、これからの教師に求められる資質能力の形成の一部をカバーしているだけと言わざるをえません。「教師は授業が命」という点からは、これまでの形の教育実習を継続しつつも、1年から4年までを通じる広い意味の教育実習によって、より幅広く学校と教育、子どもの実際を学び、これを上記の探求プロジェクトとも結びつけて、教師への使命感を、幅広い社会的文脈にある教育的環境の中で、何のためにどのように教育を行うかに関する自覚と見識へと成長させることが求められます。


5)教職への決意を固める段階で新たに実施される「教職実践演習」を、上記の教育課程を通して獲得した資質能力を総合的に自ら判断するための科目として積極的に生かす必要があります。その際、先に述べた理論と実践の往還と省察の方式を学部段階で緩やかに応用する工夫が有効と考えられます。


6)しかし上記3点は、一般の総合大学の教職課程では実行が容易でありません。そもそも総合大学の教職課程では、専門的知識は理学部や文学部の教育的観点と無関係な専門にほぼ委ねられています。かつ教育学を中心とした教職科目は、おうおうにして大人数の一方的講義になっています。これらを乗り越える格別の努力と工夫が求められます。全学年にわたる広い意味の教育実習や教育的事実と課題に関する探求的プロジェクトはしかし、工夫次第ではどの大学でも可能です。少なくとも教職課程のおもな内容である教職科目について、学校現場の実際と実践に結びついた教育への改善が強く求められます。


7)学部(大学院)の教職課程について、18年答申以来強化されてきている課程認定の厳格化と事後評価をいっそう強めなければなりません。しかし膨大な課程認定大学数を考えるなら、これをすべて国(文科省)が担うことには限界があります。また学校教育は地域ごとの特色が尊重されてしかるべきで、その点では免許状の発令主体が、申請側の大学とともにこれに積極的に関わることは有益です。これらを考慮し、課程認定とその事後評価に関して、地域ごとに何らかの形で教育委員会と大学が関与する方式の導入が望まれます。


6 中堅教師としての成長ー専門免許


1)一般免許により自立した教師として歩みだしたとしても、それで教師としての成長が終わるわけではありません。先述のように教師生活は入職後40年近くに及びます。知識基盤社会における教師の最大の資質は、「学び続ける教師」、「探求し進化する教師」だと言えます。


 最近教師のライフコースについての実証研究が行われるようになっていますが、詳細は別にして、20歳前後の教職への出発、25歳前後の教師としての自立続いて、30代半ばから30代半ばの時期に中堅教師としてもう一段飛躍することが重要です。これに応えようとするのが<専門免許>です。


 現行の免許更新制は、35歳、45歳、55歳の3回、1週間ほどの「講習」を受ける形で課せられていますが、いかんせん短期間でかつ大規模講義形式が主流で、中堅教師へのキャリアアップとしては十分ではありません。<専門免許>を、とくに35歳、45歳の更新講習の実質(新しい教育課題などの習得)を包み込みつつより達成目標を明確にしたものとして位置づけることができます。


2) しかし専門免許の導入には一般免許以上に難問があります。
 そもそも、いったん入職した上での専門職としての高度化であれば、「専門看護師」や「専門薬剤師」のように職能団体自身の職能基準として立てればいいことであって、国が認める免許状による必要があるのかという問題があります。
 また、現行の学校におけるラインと校務分掌(校長ー教頭ー教務主任等)あるいは指導主事や社会教育主事とどう関係するのかも重要な問題です。さらには欧米で一部見られるような、一般教員に関する身分上のランク付け(上級教師)なのかどうかも明確にしなければなりません。個別問題として、現行の「専修免許」とどう関係づけるのかもあります。これらはなお慎重な検討を要するところで、まだ特別部会やワーキングでも方向性は明確でありません。最小限の私見を述べます。


3)まずは、学び続ける教師像の確立のためには、教師のライフコースの中で、この中堅教師段階での何らかのレベルアップ、ブラッシュアップはたいへん大事だということが確認されるべきです。
 ゼミの卒業生などに聞いても、10年くらい教師をやると授業や生徒指導に一定の経験と自信ができるとともに、無性にブラッシュアップしてもう一度学びたいという欲求に駆られると言います。これはおそらく普遍性をもつでしょう。


4)その際まず大事なことは、日本の教師で盛んな多種の自主的研修や更新講習が、どちらかといえば個人の資質能力の向上として行われているのに対して、まさに現在の学校と教育の課題に即して学校における分掌及び教師の協働的組織的活動に寄与するものとして設定されるべきであろうということです。それは具体的には、学校の諸活動の中堅リーダー的役割を担うことでもあります。
 そうした中堅リーダーの力量を特定の専門分野で発揮しうることの公証として、<専門免許>は一定の有効性をもつと思われます。


5)専門免許状として、目下のところ、学級経営、生徒指導、進路指導、教科指導、特別支援教育、外国人児童生徒教育、情報教育などの分野別があげられていますが、上記の観点からすると、単なる分業的な専門性の確立ではなく、校務分掌とつながり学校の運営と協働でリーダー的な役割を発揮することができるものとして設定することが重要です。


6)さらにこの専門免許の取得を、全教員必須のステップとするのかどうか、内容的に学位課程とするのかどうかも大きな問題です。
 一定程度力量を有するこの段階では、教師の自発的研修の要素を重視する必要があります。また学位については、一般免許=修士レベルにさらに学位を基礎資格とするのには無理があります。それらを考慮すると、大学と各県の教育センターなどとの連携による質の高い系統的なコース(認定講習等を含む)での免許取得とすることが妥当と考えられます。


7)中堅教師の段階では自発的な研修意欲を尊重することがとくに重要です。その点で、アメリカの上進制の柔軟なプログラム設定が参考になり、一定の条件のもと、校内研修、民間団体の研修への出席も積極的に一部単位として認める必要があります。
 しかし、専門免許として一時期を区切るためには、単なる講習の積み上げでは不十分で、理論と実践の往還による資質能力向上が一般免許段階より高いレベルで達成されるべきであり、各種研修や講習の積み上げを認めつつも確かなコース設計が不可欠で、そのためには大学等の専門家の関与と協力が不可欠です。


 専門免許制度の創設の上で欠かせないのは、現行の更新講習、各種法定研修、さらに専修免許との関係の整理を制度的にどう断行するかです。これなしには専門免許は画餅に帰するでしょう。最低限、専門免許取得による更新講習の免除が実行されなければなりません。


7 修士レベル化の可能性


1)今回の制度改革=システム転換の中で、しかし、決定的に重要なのは一般免許つまり修士レベル化をどの段階でどのようにして導入するかです。


 修士レベル化には、簡単に言って次の三つの途が想定されます。


(1)「ストレートマスター型」[学部4年に連続して修士レベルの実践的なコースを設置]
(2) 「採用直後型」 [採用直後初任者研修に代わり学校拠点の修士レベルコースを履修]
(3)「キャリアアップ型」 [採用後7年から10年後修士レベルコースを履修]


 以上についていずれも学位は「専門職学位」ないし「修士」(教育学研究科や一般大学院入学の場合)で、期間は基本的には2年(一定の条件により1年への短縮もありうる)。


2)しかしこれらはそれぞれにプラスマイナスがあり、いますぐどれかに絞って制度設計するのは現実的ではありません。
 「ストレートマスター型」は、4+2の一貫したカリキュラム構成が可能であり、教育効果は潜在的に高いとみなされますが、総合大学の専門研究科はもちろん、既存の教育学研究科でも先述した理論と実践の往還システムを導入し定着させるのにはかなりの困難が予想されます。また国公私の教員養成のバランスを欠くことになる恐れもあります。
 「採用直後型」は、自立した教師の育成として社会的にその意義が分かりやすいけれど、学校拠点に徹した場合学位コースとしての質がどう担保されるか、また大量の採用者を一気に受け入れる受け皿をどうつくるかの難しさがあります。
 「キャリアアップ型」は、言わば緩やかな修士レベル化で、現職教員の一定の願望には適応していますが、初任段階にはまったく及ばず、修士レベル化の社会的意義と効果が一般に見えづらい面があります。


3)そこで私見では、 当面3者の緩やかな併存を想定しつつ、漸次的な推進を図るのが現実的で賢明なアプローチだと考えます。
 かつ大事なことは、それぞれについて、自立した教師、高度専門職としての資質能力を確実に獲得させる方法として未だ十分な確証をもっていないことです。
 教職大学院は、発足後4年経ちこれまでに見られない成果を間違いなく上げつつありますが、まだ規模が小さく、理論と実践の往還の実際的な成果を確認するにはもう少し時間が必要です。


4)一気に制度改革するには、簡単に言えば、例えば免許法上基礎免許の有効期限を7年とか8年と定め一般免許を設定すればいいわけです。
 しかし、どの修士レベル化にも伴う困難な条件整備(授業料や修学期間延長の負担感、3万人に及ぶ採用者の受け皿の希少さ、学校現場への代替え教員等の人員整備など)を無視し安易に単なる制度改革に突き進むのは無謀です。
※現時点で教職大学院の入学定員830人、 国立教員養成系教育学研究科の入学定員3,333人、国立一般大学院免許取得者3,000人、同公立350人、同私立3,500人に対して採用者小13,000人、中8,000人、高5,000人、その他4,000人計3万人弱・・・平成23年度。


 にもかかわらず、発想を変えれば道はあります。必ずしも法制度改正を待たなくても修士レベル化は部分的には可能なのです。
 自発的に学部連続の修士大学院(教職大学院、既存教育学研究科、一般大学大学院等)への入学者増を待つだけでなく(余程の条件整備をしない限り多くは望めません)、採用直後型でもキャリアアップ型でも地域単位で教育委員会と大学が全面協力してやる気になれば実現できるのです。
 県ごとの採用者数は、100人前後から千数百人まで幅があります。とりあえず比較的小規模な採用数の県では一気に実質的な修士レベル化ができます。そしてこれを「パイロットケース」としてその成果を確認し拡げつつ全国的な制度整備に向かうわけです。


5)それにしても、せっかくの修士レベル化もその内実が問題です。先述の理論と実践の往還による高度専門職の資質能力の確実な獲得が至上命令です。この点で重大な課題が存在します。既存の教員養成系教育学研究科も、まして一般大学の専門研究科も、こうした実践的な教育システムをいまのところほとんど欠いているのです。だからといって、これらの機関を修士レベル化からオミットすることはできません。教科の研究面ではそれらは修士レベル化に十分貢献できるのです。


 この問題の解決は理論的にはそう難しいことではありません。それぞれの教職課程ないし専修免許取得に際して、教職大学院を活用した短期の(3ヶ月~6ヶ月)インテンシブなコース履修を必修にするのです。そのためには、県単位に教職大学院を置く拡充策が必要ですし(現在は20都道府県25大学)、都道府県では、教職大学院と一般大学研究科との連携(共同大学院ないし連合大学院)を構築しなければなりません。


 またこうした教職大学院の開かれたインテンシブコースは、今後いっそう期待される社会人の教職への道を用意することにもなります。とくに高校の教科教員に関しては、専門学部ないし大学院卒業者を、こうしたインテンシブコースで短期間に訓練することにより、より門戸を拡げることができると思われます。とくに高い専門性をもつ博士課程修了者(オーバードクターを含む)に関しては、このコースの柔軟な運用により確実に一定の参入を期待できるし、それは高校教育全体の底上げとレベルアップに小さからぬ貢献をすることになるでしょう。
※実際の修士レベル化の内容は学校種ごとにも検討する必要があり、とくに幼稚園教諭に関して一律修士レベル化は必ずしも現実的でないと考えられますが、免許法上の処理には一定の難しさがあり、ここでは触れません。


6)以上のような「現実的アプローチ」を追求する場合、県ごとに先の3タイプについても柔軟に選択できるようにするのが望ましいのですが、実際には多くの県は、修士レベル化の社会的意義の明確さを求め、(2)の「採用直後型」を選択することが予想されます。


 その際のコース設計上重要なのは、学校拠点の研修と学位取得との一体化を具体的に実現することです。学校における一定の職務遂行に埋没してもダメだし、学校の日々の教育活動に障碍になるようなものであってもなりません。


 この点で、現行の教職大学院の現職教員の教育方法について一定の整理と改善を図る必要があると思われます。多くの場合、教育委員会派遣か自発的進学かにかかわらず、必要な講義を主として夜間や長期休業期間に開講したりして円滑な学修環境に努めています。かつ実習(10単位)を一部免除している場合でも、いろいろな形で連携協力校に出かけてフィールドに根ざした研究に尽力しています。


 しかし実習の実際のあり方を見ると、実習を免除しているいくつかの大学は、基本は大学でのレクチャーで、その実践的な課題のフィールド調査のために不定期に学校へ出向く形が主になっています。また実習免除をしていないところでも、例えば、1年目は週3日勤務校でない連携協力校で授業などを一定担当しつつ研修し、あとの2日は夜間大学でレクチャーを受ける形になっています。


 先に想定した採用直後の修士レベル化を考えた場合、これでは、理論と実践の往還と自己の実践の省察が恒常的に行われているとは必ずしも言えません。かつ自己の実践をたえず仲間との協働で省察し合い自らの力量の到達度を客観的に確認する恒常的な仕組みがぜひとも必要です。
 この問題を解決するには、現行の教職大学院でも、いま以上に学校における職務に即して大学院教育が行われるような思い切った工夫と改善が必要です。


7)しかしこれだけでは学校現場の負担回避の面でまだ不十分です。現職大学院生のための特別の定数配置が行われても、学校には容易に負担感は拭えません。
 すでにこれに配慮し、多くの教職大学院では学生の研究テーマを、学校や地域の教育課題を中心に設定することとし、少しでも学校現場にその成果を還元する仕組みをとっています。しかしこれでも根本の解決にはなりません。


 根本的なソリューションは、私見では、学校自体が日々の教育実践の中で資質能力をたえず向上させようという実践即研修の体制になっているかどうかにあります。まさに学校自身が「進化する学校」でなければならないのです。連携協力校では研修が日常的なものになっていなければなりません。そして大学院生の研修と研究は、この日常的研修とぴったり「融合」していることが望ましいと思われます。
 この点は、アメリカの PDS の導入に当たって大学と学校との対等の関係として大いに強調されたところです。


8)以上にような教育方法を前提にしつつ、さらに修士レベルの到達点を明確にする必要があります。個々の資質能力について挙げるのは措くとして、基本的な目標は、自立的な教師として一定の指導法を確かに身につけるとともに、以後の教師としての実践で予想される種々の困難を教師の協働の中で自力で解決できる力を獲得することだと思われます。それには、自己の実践の反省的な振り返りと一定の一般化が不可欠です。教師の資質能力の向上策としての現場実践重視は、菓子職人が一人前になるためにひたすら先輩や親方の腕を盗み技を磨くようなものではありません。ここに学校を拠点とした研修の、大学の学位コースとしての意義があります。


 そのためにこそ、専門職大学院修了の実を確かなものにする、ケーススタディを中心とした「実践研究報告」作成の意義があります。ここで大学の教員は大いにアドバイスをし導かなければなりません。


9)しかしながら、新しい専門職大学院としての教職大学院は、まだ数と規模の点であまりにも少なく、漸次的・地域的であろうと修士レベル化を担い切れるまでにはなっていません。量的に不十分なだけでなく、知識基盤社会における高度専門職としての力量の形成獲得に教職大学院的な理論と実践の往還方法が有効であることが、まだ広く浸透していないのです。


 この点では、大学側が教育委員会の各種研修に積極的に協力しその教育方法の意義を拡げていくとともに(場合によっては、福井大学で検討しているように、法定研修の一部を教職大学院の単位として認めるやり方も有効)、教育委員会や学校側は、教職大学院修了者を校内外の研修活動のリーダーとして活用したりして教師のキャリアパスの大事なステップとし生かしていくことも必要だと思われます。


10)以上、修士レベル化の制度改革を大局的に展望しつつ、現実的で有効なアプローチを探ってみました。繰り返しますが、これからの教師の資質能力向上は、理論と実践の往還による実践的な力量の高度で確実な形成獲得を抜きには基本的に考えられません。
 これを本格化しつつある知識基盤社会における高度専門職の資質能力向上策のモデルとして切り拓いていく必要があると痛感します。


 日本では、大学教育の中で、高度専門職養成の蓄積が十分ではありません。教員の資質能力向上のためのステップアップ型免許制度とその中核にある修士レベル化は、そうした中で実に挑みがいのある課題です。日本の教師の伝統的な高い研修意欲を拠り所に、大学と教育委員会が真に連携協働するなら、必ずやこの道が拓かれることを確信しています。教師の資質能力向上のための修士レベル化へ一歩一歩着実に歩を進めたいものです。


(了)


[本稿については、中教審特別部会とそのワーキンググループでの討論とともに、とくに委員会で同席している福井大学教育学部松木健一教授との集中的な議論に多くを負っています。ここに記して感謝の意を表します。もちろん内容表現とも責は全面的に筆者が負っています。]
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教員の資質能力の向上のために ー 修士レベル化の可能性(上)

 [ 昨年6月以来、中教審の特別部会で、修士レベル化を軸に教員の資質能力向上が議論されています。現在そのワーキンググループがつくられ年度内の答申案をめざして検討されていますが、その一委員として、自分なりに考えていることをまとめてみました。言うまでもなく、部会やワーキンググループの見解そのものではありません。
 なお、この文章は、11月23日に都留文科大学で行われた教職員向けの講演のレジメに手を加えたものです。]     

1 なぜ資質能力の向上か


 教師の資質能力の向上はさまざまに論じられます。まず、なぜどういう視点からこれを論ずるかを検討しておかなければなりません。私見では3点あります。

1)社会と子どもの変化で、教職が複雑化・高度化してきている。子どもの多様化、保護者・地域社会との関係の変化、知識基盤社会と高学歴 社会、高度情報社会、国際化等。

 その中で、子ども好き、真面目、熱心、尊敬されるといった「伝統的教師像」が成り立ちづらくなってきました。このことは、50代教師で子どもの変化に対応できず早期に退職する人が増えたり、教頭校長志望者が減り希望降任者が増えるなどの現象に現れています。

2)今後の教員の年齢構成の大きな変化。10年間で公立小中の3分の1弱(20 万人)が退職予定。このまま下手をすると、学校が大量の経験不足の若手教師と少数の多忙な中堅教師からなることが予想されます。

 なお、日本で教師の資質能力を論ずる場合、教師が巨大な集団であることに留意が必要です。平成22年度ー幼11万、小42万、中25万、 高24万、特別支援7万の計110万人、内公立小中65万、私立 小中2万、公立高18万、私立高6万。この中で、65万人を数える公立小中学校の教師が比重の上で大きいことも無視できません。


3)学校の小規模化に伴う教師の協働性の弱体化。これは案外重視されていませんが、学校の実際の中では非常に深刻な問題です。これまでのように、学校の中で先輩教師のリードによって若手教師が育つということが成り立ちづらくなってきているのです。この点での学校ごとの差が激しく、最近ときどき、「最初に勤める学校の当たり外れはくじ引きのようなもの」と言われます。


4)さらに、社会の変化は教師志望の学生にも現れており、これまでの養成システムではスムースに育たなくなってきています。教職志望の学生は、大学入学時点からいまの若者のいくつかの弱点(例えば学ぶ力やコミュニケーション能力の減退など)を抱えています。
 自分の経験でも、20年くらい前までの教師志望の学生は、学生時代教師になるための勉強をそうしていなくてもパワーがあり、現場に入ってから腕を磨いていっていましたが、最近は採用時点でも自信がなく、早々に辞めてしまう教師もけっこういます。

 11月8日文科省が発表した、公立校の新人教員2万6千人の内 288人が1年以内に退職で10年前の8.7倍、自己都合58%、病気35%で病気のほとんどが「心の病」という実態をどう見るかはいろいろでしょうが、新任教師が「ひ弱」になってきているのは事実でしょう。


 最近知り合いの札幌市内のある校長さんからこんなメールを受け取りました。「教育大学を出ていても、教育実習を経験していても、4月当初、新卒教諭には何もできません。そのためサポートしなければ、確実にその学級は崩れていきます。子どもが荒れていき、保護者が騒ぎだします。」

 以上のように、いまの教師の資質能力の問題は、もはや教師個々人の問題範囲を超えているのです。

5)資質能力問題への視点
 で、教師の資質能力の問題について、次のような視点をまずは共有する必要があると思います。

(1)現在の資質能力問題は、日本の大きな教師集団の総体としての今後のあり方を決する「構造的問題」である。
(2)であれば、個々の教師に資質能力向上のための研鑽を求めるだけでなく、教職生活全体にわたって、養成・採用・ 研修を一体として制度的に確実に向上を図る改革が必要である。
(3)なかでも、新人教師としての力量如何、その後の中堅としての自己成長がポイントであり、教職生活全体を見通しつつ養成に関わる者、採用後の研修に関わる者の責任と課題は大きく重い。

2 求められる資質能力と教師像


 ところで、そもそも教師の資質能力とは何でしょうか。しばしばその内容がきちんと確認されないまま資質能力向上が叫ばれますが、その吟味は議論の大前提として欠かせません。

1)教師の資質能力について、一般に、(1)「使命感、子どもへの愛情」、(2)「専 門家としての力量(教科指導、生徒指導、学級指導)」、(3)「人間力 (社会性、コミュニケーション力等)」を基本とし、さらに新たに求めら れる能力として、ICT、特別支援、環境教育、外国人生徒への対応などが挙げられます。

2)教師の資質能力については、まずもって諸要素の並列ではなく、その「重層的・構造的」理解と、教師の成長と教育課題の歴史的変化に関する「時間軸からの把握」が必要です。
 「重層的・構造的」というのは、先の3つの側面を相互のつながりをふまえて立体的にとらえることです。教師としての専門的力量つまりその知識と技能は、人間的素質の開発として発揮されますし、教師の人間力や人間性は教師としての専門的な知識と技能を磨くことなしには有効ではありません。また両者をいわばつなぐ形で、教育観と使命感が不可欠です。専門的知識と技能は、教職の強い自覚と教育観によって支えられなければ生きた力になりません。


 さらにこの3者は、単に個別の教師の生徒との1対1の関係で成り立っているのではありません。学校教育である限り、教育活動はつねに<教師ー教師>の組織的な活動つまりは学校の中でしかありえませんし、教師と生徒との関係も1対多とともに多対多の関係を含んではじめて成り立ちます。ここに、近年強調されつつある教師の協働性、子どもの学習の協働性の根拠があります。


 以上の資質能力の構造が、同時に教師個人レベルと教育課題に関する社会的歴史的変化の両方で時間軸の中にあります。教師個人は、自分の人間的資質を教師としての専門的力量を磨くことによって成長します。さらにマスとしての教師集団の力量は、不易な面を含みながら社会的歴史的な教育課題に対応し変化せざるをえないものです。

3) 教師の資質能力は、確固たる教育観に基づいた専門的な知識・技能を、子ども・教師 集団との関わりの中で、自己の資質(人間力)の展開として日々の実践の中で具現化するもので、かつそれは、知識基盤社会という知の様式を大きく変える社会の中でたえず進化が求められるものとして存在しています。
 とすれば、資質能力のあれこれの要素をそのときそのとき強調したり新たに付け加えたりするのではまったく不十分であって、その不易の要素を基軸に置きつつ、いま知識基盤社会において「再定義」されなければならないのです。


 それはひとことで言うと、教室の中で子どもへの愛情いっぱいに知識の伝授に努めそれによって信頼と尊敬を受けていた伝統的教師像から、教師間の協働性をふまえつつ、子どもたちの協働的学習を確実に組織し、知識基盤社会で生き抜く力をつけて送り出すことによって新しい形で社会から信頼と尊敬を受ける専門職として「教職を高度化する」ことです。


 知識基盤社会では、医師や看護師、弁護士などの伝統的な専門職もそのあり方の「高度化」が必至になってきています。教師については、その専門職性が学校世界の中でしか見えづらいこと、かつ長い間そうした閉じた専門職性がそのまま信頼と尊敬を受けてきたことなどにより、あまり専門職としての社会的確立が叫ばれてきませんでした。しかしいまは、開かれた形でその専門職性を社会的に確立することなしに、教師への信頼と尊敬は回復されません。


 そしてそのためには、教師の専門的知識と技能そのものが、固定的にではなく、絶えず変化成長するものとしてとらえられなければならないのです。知識基盤社会においては、たとえ初等教育の段階であっても教育内容とその意味が社会的に大きく変化していますし、教育技術やスキルについても、子どもの変化の中で刻々と変わっていかなければなりません。それらは、現代社会の流動激しい変化を見抜く社会的洞察を通してはじめて得られます。そうした教師の資質能力の新しいあり方を、教師の高度の専門職性の基本的内容として明確にしていくことがいま求められているのです。

3 「ステップアップ型」免許制度


1)教師の資質能力を、資格の有無の点で社会的に「公証」するのが免許制度です。戦後日本の免許制度は、「開放制」と「免許状主義」を原則として実施されてきました。しかし、こ の「公証」つまり社会からの信頼感が揺らいでいます。


 その原因のひとつとして、開放制のもとでの免許状の「濫発」がときに挙げられます。例えば、昭和39年度の幼小中高等すべての学校種での免許状取得者は約5万人、そのうち採用者は3万3千人、それに対して平成17年度はそれぞれ約12万人、4万人と免許取得者が大幅に多くなっています。この数字を根拠に、一部で「国家試験化」の必要を主張するむきもあります。しかしこの数字自体、正確な吟味が必要です。
 まずは、この中の採用者は、翌年度の採用者数であって、取得後後年採用された者を含んでいません(それはかなりの数になると思われます)。


 さらに、学校種別に見ますと、小学校は取得者1万6千人に対して採用者5千人、中学校は5万人に対して2千人、高校は7万3千人に対して千6百人と、ギャップの大きな部分が中高、とりわけ高校免許に関するものであることに留意が必要です。幼稚園のギャップも大きいと思われ、これらは昭和40年代以降に進んだ私立大学等の急増の結果でもあるでしょう。


 いま学校教育には、不登校対応やティームティーチング、小規模クラス、地域連携などで多様な人材によるサポートが必要になってきています。そうしたことも考慮するなら、いま直ちに敢えて免許状主義を止めて国家試験化することについては慎重であるべきでしょう。かつ免許上の過剰を国家試験化することで量的にコントロールすることは一定の有効性を持ちますが、教師の「質」の向上に直接つながるものでないことにも留意が必要だと思います(1回のペーパーテストで教員の資質能力を見抜くことは至難です)。


 当面は、教職課程の課程認定や評価の厳密化をいっそう徹底していくとともに(これ自体量の一定のコントロールになりうる)、開放制のメリット(多様な人材の登用)をより生かす具体策(社会人からの転入をよりスムースに可能なようにするなどー後述)を現実化していくのが妥当だと考えます。

2)免許状の量的コントロールよりも、いま教師の資質能力向上の点から免許制度上検討すべきは、1と2で述べた、知識基盤社会における高度専門職としての教師の資質能力の向上と確立に役立つ免許制度の改革です。そのポイントは、資質能力の向上をめざして「学び続ける教師」の成長を支援する免許制度とはどのようなものかにあります。


 平成18年中教審答申は「学び続ける教師」の重要性を提起し、教職実践演習の必修化(教職課程の厳格化)と免許更新制、さらには新しい専門職大学院としての教職大学院の設置を具体化しました。しかしこれらだけでは、先の課題に応える構造転換にはなりません。免許更新制には「学び続ける教師像」のコンセプトが含まれていますが、あくまでも消極的に資質能力維持を教師個人に義務づけたものに過ぎません。

3)そこで、現行の開放制と免許状主義を前提にしつつ教職の高度化を図るには、免許(資格)そのものを一回性のものでなく、ステップアップするものに変えることが考えられます。現行の免許は、1種2種の違いと上位免許上としての専修免許がありますが、それらはそれぞれ完結しており、ステップアップを想定して設定されたものではありません。
 教師のキャリアは、教師志望とその基礎的資質の獲得の段階(学部)から採用、そして入職後40年近い教師生活と長期にわたります。その一時期だけを区切って教師の資格を公証するのは、現在の変化の激しい知識基盤社会では到底不十分になってきているのです。

4)以上のように学び続ける教師として資質能力を向上していくことを促す免許制度としていま検討されているのが<基礎免許ー一般免許ー専門免許>というステップアップ型の免許制度です(ここで「ステップアップ型」と名付けているのは筆者個人の命名で中教審特別部会の公式呼称ではありません)。


 その際、<基礎免許>には学部、<一般免許>には「修士レベル」、<専門免許>には中堅リーダー養成が想定されています。中でも、学び続ける教師の資質能力向上に即した免許制度の中心は、<一般免許=修士レベル化>、その意味での専門職としての教師の社会的位置の高度化にあります。


 同時に、こうした免許制度は、教師の養成段階、採用段階、その後の研修段階とそれぞれ別々に議論されるのでは十全でありません。志望と養成の段階を含めて教師生活の全体にわたって、<養成・採用・研修>の仕組みを「一体的に」変えなければなりません。
 <養成・採用・研修>の連携についてはこの10数年繰り返し中教審答申等で強調されてきました。そしてとくに国立大学法人化前後から国立教育大学・学部ではかなりその自覚が高まり連携が強くなってきています。しかし、今回はその枠に止まるものではありません。まさに「一体化」が課題なのです。そしてその成否を決するのは、教育委員会・学校と大学との組織的連携です。

5)しかしこの免許制度の改革は、戦後初といっていいくらい大きな改革で、実現には難問がたくさんあります。改革のポイントである修士レベル化や専門免許に待遇上のアップを想定するのか、単に教師になる期間が長くなるだけだと大量退職期に教師志望者を大幅に減らすことにならないか、いつどの時点で<一般免許>取得を義務づけるか、場合によっては学校現場での大幅な人員増が必要になるのではないか、どう免許制度を変えてもそもそも大学の養成課程が信頼に足るものになっていないではないか、仮に修士レベル化を義務づけるとした場合受け皿となる大学院レベルの教育機関は用意できるのか等々。


 これらの疑問には、「はじめに修士化ありき」ではなく丁寧に解決方向を検討する必要がありますが、大事なことは、個々の論点の解決だけでなく、先述したような高度専門職としての教師の資質能力向上について、国民的な世論の期待と支持がなければ事は絶対に成就しないということです。中でも、巨大な職能集団である教師集団自身が、保護者や地域の人々と連携しつつ自らの問題としてこれについて明確な意思表示をすることが必要でしょう(この点で着実に自らの地位向上を推進しつつある看護師協会等の努力は注目に値します)。さらに、国づくりの基本として積極的に教師の資質能力向上をめざす強い政治的リーダーシップが不可欠です。(続く)

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福井の中学校の新しい学校づくりと教職大学院(その2)

(2)「異学年型教科センター方式」の教育的意味


 中学校は学校教育の中でも特別に難しい課題をかかえています。思春期特有の自我と他者との悩ましく激しい葛藤がどの子にも潜在しています。先生や親からは「自立」を絶えず迫られながら、まだ幼さ、未熟さいっぱいです。しかも、すぐあとに、人生最初の試練の高校受験が控えています。こういう中で、しばしば一部生徒が荒れ、ときにそれが学級崩壊や学校危機に陥ったり、あるいは学校生活にどうしても適応できず、不登校になったりは珍しいことではありません。全国で13万人と言われる不登校は、中学校でがくんと増えます。中学校の先生方の話を聞くと、いつもたいへんだなあと感じます。私のゼミの卒業生の中にも、横浜の中学校でこういう現実に直面し、生徒指導に全力投球し、その分野で今や全国各地の荒れで苦しんでいる学校に出向いてアドバイザー役をつとめている人がいます。


 こういう中学校の難しい課題に対して、個々の先生方の努力にも限界があるでしょう。明治以来の日本の義務教育の「頑丈な」学校システム(設置者の限定、厳格な設置基準、指導要領による全国共通の教育課程、さらには、就学義務と地域指定、学齢主義等)の根本の見直しはさておいて、現行システムの範囲内でも可能な限り大胆な改革が求められます。教科センター方式は、ハード面からのその試みのひとつで、すでに全国の公立中学校で60校あまりつくられています。その中でも、至民中学校は、「異学年型」として最も意欲的で先進的な取り組みだと言えます。


1)教育改革への徹底した取り組み
 ハードや器(うつわ)の変化がソフト・教育の中身を自動的に変えるわけでないのは言うまでもありません。どこの教科センター方式導入に当たっても、教育の中身の改革が謳われていますが、至民中の場合それが徹底しています。
 2008年の新校舎スタートまでに、旧校舎で4年間にわたりこれまでの教育を見直しどう変えるかの熱心な議論が教師集団の中で行われました。それは素晴らしいことですが、同時にその出発点は、福井市教育委員会とくに当時の教育長と福井大学教育地域学部(中心は松木健一教授)の強いリーダーシップによるものだったことも見逃してはならないでしょう。何事もそうですが、とくに継続性を軽視できない学校教育においては、強く的確なリーダーシップが不可欠であることを再確認しました。松木教授の案内で見学しながら、あらためてその意を強くしました。至民中の経過は、適切なトップダウンと全教員の熱意溢れるボトムアップとのアマルガムの希有な成功例であったと言えるでしょう。異学年方式は松木教授の発案だったようですが、これを受けて先生方は、当初戸惑いながらもどう具体化するか徹底議論したそうです。またこういう連携が可能だったのは、20年近くまで遡る、大学と教育委員会との協力信頼関係があったからこそでした。


2)「知識注入型」から「探究・協働型」の学習スタイルへ
 至民中の教育改革のコンセプトは、「探究・協働型」学習スタイルへの転換、さらには新しい「学びの共同体・学校文化」の創造という点で一貫しています。 一般に「教科センター方式」は、教科毎に教室をまとめ生徒がそこに移動する形で、教科毎の学習環境の厚みと生徒の主体的な学習姿勢に有益だと言われていますが、至民中はそれをさらに展開しています。それを端的に示すのが70分授業というユニークな設定です。これは生徒の移動に余裕を持たせるだけでなく、広くフレキシブルなスペースを活用し、一授業時間の中で必ず生徒同士の小グループの探究活動を入れるという学校全体の方針によるものです。そのために、間仕切り壁だけでなく、すぐ手近なところに小さめのホワイトボードが全グループ用に用意されています。最近学校にも導入されつつあるファシリテーショングラフィックを先取りした感じです。
 至民中の教育コンセプトの核は、生徒の協働的学びの視点でしょう。同時に、それは教師の協働にもつながっています。つまり壁のないオープンな教室群の中で、教師同士いつも授業を見合うことができるわけです。ときに「学級王国」になりがちな、従来の「閉じた教室」の中での教師個人による学習指導を脱却しようという方向が鮮明に打ち出され実行されています。
 実際に短時間ではありますが見学しながら、なるほどこれは生きているなと感じたのは、生徒の学校生活全体で発揮されているこの活動性と協働性でした。生徒たちはとにかく学校で伸び伸びと活動している印象でした。


3)「異学年型」ホーム=「小さな学校」
 教科センター方式の探究・協働的学習スタイルと対になりそれをさらに具現化するのが、至民中が最初に導入した「異学年型」です。
 「教科センター方式」の問題点としてよく生徒指導の弱体化が挙げられます。ホームベースが何らかの形で設けられますが、下手をするとロッカールーム的な場でしかないものになってしまい、密度濃い学級単位、学年単位の生徒指導が弱まる弊害があるのです。これを、むしろより生徒の自治と活動性を高めるものとしようというのが「異学年型」です。
 教科スペースは英数国社理の5つに分かれていますが(音楽、美術、技術・家庭などは学校の中心に広いスペースを持ったホールの周りにつながっています)、この5つの教科スペースに1年から3年までの1学級ずつのまとまりが隣接しています。写真で見るように、このホームスペースも真ん中に共通スペースを持ちけっこう広い空間です。ホームスペースと教科スペースの接点に教科の先生方の部屋があり、この先生方が同時にホームのクラス担任を兼ねます。
 この「異学年型」には当初先生方はかなり抵抗感を持ったようです。学級学年の指導が弱まる、学年を超えた集団化は学年の対立やいがみ合いを強めることにならないかなどの理由です。
 しかしスタートして4年、それらの懸念はほぼ杞憂だったと言われています。それは、これら各ホームが学校行事や総合学習、地域活動の基礎単位とされ、生徒の自治活動の拠点として重視したせいだと思われます。実際、全体ホールの天井には、それぞれのシンボルカラーを生かした各ホームの旗が生徒たちの手書きでつねに掲げられています。ホーム内の学年の確執も、生徒たちは案外容易に乗り越えていったようです。むしろ、どの中学校にもある学年の対抗心や争いごとが大幅に減ったとのことです。かつての「生徒指導困難校」の状況は一変したようです。
 先生方の懸念に投げかけられたコンセプトは、やはり松木教授の、「ホームは小さな学校で、これが集まって合衆国のようにひとつの学校をつくるのだ」という指摘でした。
 私は、日本の学校システムの頑丈さのひとつとして、厳格な「学齢主義・学年主義」について以前から考えあぐねていました。フランスのように小学校から落第があるような方式は日本では難しいでしょう。しかし、地域毎の学校指定とともにこの固定的な学年主義は、いろいろな困難の要因のひとつになっています。至民中の「異学年型」が唯一の方法ではないと思いますが、日本の学校システム改革のひとつの有益なソリューションになりうるものであることは間違いないでしょう。


4)課題
 以上、至民中の新しい学校づくりについてその有意味な面のおもなものを見てきました。しかし、何事もパーフェクトがありえないのは言うまでもないことで、至民中の意欲的な試みについても私見では小さくない課題があるように思います。
 そのひとつは、教育改革の基本コンセプトが「探究・協働型」という一教育法に偏りすぎていないか、教科センター方式の主眼である生徒の学習レディネスの強化と若干そぐわない面があるのではないか、ひいては学力向上という欠かせない課題に十分に応えられるのかということです。生徒の協働性と活動性はたしかに大いに発揮されているし、生徒は以前よりずっと落ち着いて学校生活を楽しんでいるのは間違いないでしょう。でも中学校教育の「目的」にやはり「学力」は欠かせません。見学当日の学校側の説明でも、学力はまだこれからですと率直に話されていました。併せて敢えて指摘するなら、改革の中で繰り返されている「新しい学力」についての考え方。「学び続ける力としての学力」について、私見では検討の余地があると思います。
 「習得」と「探究」について偏らず習得も重視するとしていますし、70分授業でも午後1時限で毎日20分の習得・自習のための時間が設けられていますが、中学校で達成すべき「学力」はどんなものであり、どのように獲得されるべきかについてさらに研究検討し続ける必要があるのではないでしょうか。
 もうひとつは、「異学年型」の優位性と限界です。ホームの活動は協働性に満ちています。しかし、思春期の生徒一人ひとりの個性や自立性はこれによってどのように生かされるのでしょうか?例えば不登校はどうでしょう。これも、学校の説明では不登校生は減っていないとのことで、実際見学したとき、保健室に隣接している二部屋の「相談室」では、5,6人の生徒がトランプで楽しそうに遊んでいました。不登校の問題は、どんな学校システムでも難問で、福井では、福井大と市教委との見事な連携による教員志望学生必修の不登校生サポート活動が大規模に行われているのですが、地道な学習(補習など)を通した不登校問題への学校としての取り組みも求められるのではないかと思います。
 最後に、より根源的な問題です。それは、学校づくりと教育改革が教師の協働性によって積極的に全教員の熱心な活動によって進められているのは素晴らしいことですが、これがふつうの学校のふつうの教育活動として日常的に定着したものと言えるのかどうかという点です。フルオープンの教科スペースはまさに教師集団の日常的な授業公開と研修など教師の協働によって生かされているようですが、それがどういう意味で学校における教師の資質能力向上になっているかです。
 至民中学校は新しい出発のときから、福井大の教職大学院の拠点校になっています。そして福井市内では最先進の研究指定校、つまりモデル校とされています。このような特別の位置づけの中で至民中の教育改革ははじめて成り立っているのでしょうか。ひいては、ふつうの学校の日常の教育活動の中での教師集団の協働性、資質能力向上、研修として広く種々の学校で見本とされるものとなっているのでしょうか。
 これらについては、福井大学の教職大学院の実際を見る中でさらに考えてみることにします。

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福井の中学校の新しい学校づくりと教職大学院(その1)

 11月10日、福井大学の教職大学院を訪ね、その紹介で連携協力校の至民中学校を見学してきました。先進的な学校づくりとそこを拠点とした福井大の教職大学院に強い感銘を受けました。


(1)至民中学校の「異学年型教科センター方式」


まず至民中学ですが、ここはもともと市街地中心部にあり、生徒指導上難しい学校だったそうですが、4年前耐震改修の機会に、福井大学側の全面協力のもと施設上も教育上もまったく新しいコンセプトによる学校として再出発しました。郊外の静かな山裾にあり、1学年5学級の中規模中学校です。外観も見事にモダンなセンスの校舎になっています。
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 この学校は、「異学年型教科センター方式」と呼ばれています。福島県三春町桜中が先駆で(平成3年)、その後新潟県の聖籠中で一躍有名になり全国で拡がりつつある「教科センター(教室)方式」(平成13年)をさらに展開し、「異学年」のクラスグループを「クラスター」とし、施設上も教育上も生徒指導の基本に据えたものです。(至民中設立経過についての詳細は、『建築が教育を変える』(鹿島出版会2009)を参照。)


 生徒は、3学年各1クラスのグループに属し、この3クラスがひとつのクラスター(ホームとも言う)を構成します。ここは5学級ですから全部で5つのクラスターがあることになります。各クラスターにはきちんと「居場所」が設けられています(この点が一般の「教科センター方式」と異なる)。下の写真はそのひとつで、オープン形式で3つの教室がワンセットでまとめられています。朝のホームルームなどここで行われます。IMG 0248
 しかし授業は各教科スペースで行われ、生徒は教科毎にそこに移動します。教科スペースは数個の教室がつながったもので、教科に合わせてきれいにデコレーションされていました。写真は社会科のスペースです。

IMG 0254
 そして、教科スペースに各教科の先生方の部屋があります。

IMG 0253
 職員室は別に広い部屋がありますが、先生方は、授業のための資料などはほとんどこちらに持ち込んでいるようです。壁とドアはガラス張りで、生徒も気楽な感じでこの部屋に顔を出していました。
 イギリス、ドイツ、アメリカでいくつか学校を見学したことがありますが、多くは先生方は自分の教室に私物を持ち込んで居場所にしており、そう恵まれた環境にはありません。至民中の施設は、欧米の平均水準と比べて格段にその上をいっています。

 壁やドアのガラス張りは学校全体でも貫かれており、教科スペースでの授業風景も見ましたが、全体のスペースがたっぷりしていることもあって隣の教室の話し声はほとんど気になりませんでした。ここはオープンスクールとしても徹底していますが、そのコンセプトは、後で述べますように、研修で常時先生方が互い授業を見合ったり、大学院生や見学者にオープンにしていこうということでした。

 授業中でも壁はありません。

IMG 0266
 職員室の入り口付近です。全部ガラス張り。隣接する校長室までドアはガラスで丸見えでした。

IMG 0268
 あとユニークなのは、生徒同士、異学年同士の学び合いに生かそうと、教室の間仕切りが全部ホワイトボードになっていることでした。

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 さて施設の概要は以上ですが、この至民中の「異学年教科センター方式」の教育上の意味をどうみたらいいでしょうか。(続く)

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被災地を訪ねて

(少し時間が経っていますが、訪問直後の7月5日に教育人間塾のメーリングリストに書いた文章です。)


 6月30日から7月3日まで、元ゼミ生で仙台出身のNさんと二人で被災地に行ってきました。Nさんは、クルマのトランクに町内会からの救援物資をたくさん積んで行き、今週の日曜に報告会をするそうです。僕の方は、まだまとまっていないのですが、とりあえず思い出すままに書いてみます。


(1)青函連絡船後初体験の大型フェリー(行きも帰りもたいへん快適でした)で30日午後7時に苫小牧を出発し、1日午前10時に仙台港に着きました。仙台港は、ところどころがれきが残っていましたが、ほぼ復旧し、ごくふつうの港の姿を見せていました。

 そこから、終始Nさんの運転で、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡と一日かけて走りました。それぞれの街にじっくりと止まってがれきの山や崩壊した街並みなどを見ました。

 クルマを走らせているうちにそこここに見えてきたがれきの山は、写真やテレビの映像の通りすさまじいものです。市街地だけでなく、道路が少し低地に行くと、農地や小さな居住地に津波が襲ったあとが現れます。家が大きく傾いていたり、骨組みだけ残ってあとはめちゃくちゃに破壊されていたり、大きな木の株がごろんと横たわっていたり。 流し台、窓枠、畳、布団など雑多なものがごっちゃになってあちこちに散乱しています。津波の猛烈な破壊力は驚くばかりです。大きなビルのコンクリートや鉄骨がぐちゃぐにゃになっています。途中、4階建ての大きな病院が3階まで外枠だけ残して破壊され尽くしたのを遠くから見ました。

 海岸に近いところを走ったのですが、道路は高低差のある山道で、海岸に山と森が迫っています。ちょっと異様に見えたのは、林立している杉林のなかに、無残に赤茶けた木立がたくさんあったことです。あとで地元の作業員らしき人に聞くと、やはり津波が襲って海水で枯れかかっているのだろうとのことでした。 ただ、道路沿いに点在している家並みも、一部は津波にやられ無残な姿になっているのに、すぐ近く(5,6メートル)で高さが違うところの家は無傷のままという状況は、実際に現地で見てはじめてわかりました。これは石巻付近から大船渡までどこでもほぼ同じで、このちょっとした位置の違いからくる被害の大小の差について、Nさんは、しきりに、住民の意識の差となりコミュニティ意識に難しい問題を生んでいるだろうと懸念していました。


(2)最初に降りた街は南三陸町。小さな入り江に集中的に形成された小さな町ですが、周りから山々で隔てられているせいか、最も復旧が遅れている感じで、まだ街全体ががれきの海です。

DSC 2304 Edit

 ここは、天皇皇后が訪ね、小高い丘からその全体を見て、長く黙礼をしたところです。で、われわれも、多分両陛下が訪ねたと思われる丘、志津川小学校の校庭に立ってみました。街全体がまだ津波のあとそのままのようで、陸近くにある水門は残っていますが、それに連なってあったはずの防潮堤は跡形もなく消えています。ここは、住宅はもちろん役場も銀行も、あらゆる施設が破壊されたままです。かろうじて、2,3のコンクリートのビルが柱だけを残しています。まさに絶句する以外にない光景です。 がれきの処理は、何とか道路を開けたくらいであまり進んでいません。なぜもっと早くせめてがれきの処理をしないのか、との思いを強くしましたが、少し考えると、ここは街のすぐ近くに山が迫っており、かつそこには適切な平地がうまくありそうもありません。つまり、街ごと高地に移住し新しく街を作るにしても、ことはそう簡単ではないのでしょう。で、がれき処理も手がつかないのかもしれません。


(3)次は、一番大きな漁港、気仙沼です。街なかを歩いてみました。ここも至るところがれきの山。まだまだ作業は進んでいません。巨大な漁船が街のどまん中に押し流されたまま無残な姿をさらしています。

DSC 2342 Edit

 大きな街だったせいか、がれきにも人々の生活の跡が埋もれています。めちゃくちゃにつぶれた自家用車の上に、風呂敷でくるまれた女性の着物のようなものがそっと置いてありました。きっとこの3ヶ月の間、こうしたがれきのなかを、多くのひとが泣きながら家族を捜し歩いていたのでしょう。ひょっとして、捜しあぐねて家族の大好きな着物をたたんであえてこのクルマの残骸に置いたのかもしれません。

DSC 2354

 ここは、大きな魚港で、つい最近初かつおを水揚げしたとの報道がありましたが、たしかに港には、錆びついた廃船の横に、きれいな大型漁船も横づけされています。北海道などの漁業仲間が漁船を気仙沼の漁民に贈ったという記事を思い出しました。

 また、大型がれきの山のすぐそばの繁華街らしきところは、木造の食堂や商店がなんとか骨格を留めているのもけっこうあり、人の匂いもします。どうもぼちぼち商売を再開しようという動きもあるように見えました。街全体が破壊された南三陸と違って、ここはまだ街が生きており、地元の人たちも活気を戻しつつある感じがしました。でも、大量のがれきの処理はたいへんで、おそらく数年以上かかるのではと思います。それと、おそらく地元の人たちは、元の街をそのまま再生させたいという強い願望を持ち、高台移転は言うは易し行うは難しだなと感じました。


(4)気仙沼からの途中の道だったでしょうか、道路脇でがれき撤去の作業をしていた人と少し話しました。がれき処理はまだまだたいへんですね、という僕の話に、彼は、実は今日(7月1日)から自衛隊が大幅に派遣を縮小し、がれき処理からは撤退する、雇用確保のことがありそれは地元の要請でもあるようだ、しかし自衛隊の撤退には賛否ある、と話していました。

 これは、今回の訪問で一番わからない謎です。各地方のがれきの実際を見ると、素人目でも、その作業はとてもボランティアなどではできる作業ではなく、強力な重機でもってその道のプロが集中的にやらなければどうにもならないと強く感じたのですが、それを誰がどうやっているのかがはっきり見えないのです。たしかに次の陸前高田ではかなり作業が進んでいるようでした。陸前高田は、訪ねた街のなかでは最も広い平地があり、作業がやりやすいこともあるのでしょうが、なんとか、金属類、木材類などとがれきの山が整理されつつあり、またブルドーザーもある程度の数動いていました。自治体ごとの力量、方針の違いもあるのかもしれません。それと、南三陸のように、それぞれ復興の全体構想の問題があるのでしょう。それに、政府の対応の遅れが重なっていると言えるのでしょう。それにしても、地元雇用のためというのがわかりません。がれき処理で確保される雇用はごく特殊な職種で、地域の人たちの全体的な生活再建にどれほど効果があるのでしょうか。疑問です。

 陸前高田は、見晴らしのいい、広い平坦な港町で、周りの風景も見事です。もともと津波の被害がなんどもあったせいか、海のすぐそばに、数万本の松林が津波防御を兼ねて海浜公園をつくっていたそうです。その松がほぼ全滅し、一本だけ奇跡のように残っています。これをまじかに見ました。遠くからこの風景を見ると、平らながれきの平地に、すっくと一本だけたくましく松が立っているように見え、この松がなにか神々しくさえ思えるのですが、近くで見ると、この松もかなり弱っており、幹をていねいに保護のため布で覆っています。この先生き延びることができるかどうか厳しい状況でしょう。

DSC 2362 Edit


(5)最後は大船渡です。ここは、三陸海岸のなかでもまさにリアス式で、湾が入り組んでいるところです。狭い入り江が深く入り込んだところが漁港になっています。

 ここには、元のゼミ生Tさんが、小学校教師をしているご主人、そのご両親と一緒に住んでいます。彼女は(幼稚園保母ですが今は育児休暇中)、1歳3ヶ月の赤ちゃんを連れて、震災3日後に盛岡内陸部の実家に疎開していたのですが、前々日に電話をすると、ちょうど先週から大船渡に戻ったところとのこと。彼女とボランティアセンターのある町の施設で待ち合わせました。Nさんは、小樽から積んできた救援物資をここのボランティアセンターで引き渡しました。

 久しぶりの再会を喜び、いろいろ話を聞きました。そして、ご主人が勤めている山の手にある小学校をまず訪問。古く大きな学校で、かなり高い山の上にあり無傷だったとのこと。しかし、体育館はいまも避難所になっており数10人がいる、また校庭には仮設住宅も並んでいました。そこからさらに、せっかくだからと、大船渡市街からクルマで20分のご自宅までうかがいました。ご両親、ご主人からも少しお話を聞きました。

 大船渡から彼女の自宅のある街までは、リアス式海岸の曲がりくねった山道です。周りは深い森。標高が高いせいか、このあたりはほとんど津波の被害はなさそうです。夕暮れの山道を海岸沿いに走りながら、今回の災害がなければ、変化に富んだ、山も海もある素晴らしいところなんだろうなと想像しました。

 彼女の住んでいる小さな街、越喜来町は、リアス式の入り江にできたこじんまりした街並み。ここはやはり津波にがっちり襲われました。一緒に、海のすぐそばにある小学校を少し離れたところから見ました。ここは、地震後50分で津波が襲ってきたそうです。でも、津波の1週間前に完成していた、学校裏の避難道を使って子どもらを誘導した結果、一人も犠牲者が出なかったとか。ここも、水門両側の防潮堤は全部破壊されていました。この学校は形は残っていますが、廃校が決まり、子どもも先生も町内の別の学校に移ったそうです。

 実家を短時間訪ねたあと、夫婦が外まで送ってくれて、ちょっとだけ津波当日のことを聞きました。彼女は、赤ちゃんと一緒に育児センターにいたそうです。そこは早めに津波が来て、慌ててクルマで山際にある実家の方に逃げたそうですが、もう道路は陥没などしてひどい状態で、やっとのこと避難所に逃げられたとのこと。一瞬ミスをすると波に飲まれたかもしれないような状態だったようです。他方、ご主人は、学校が高台にあり安全だったのですが、すぐ避難所になり、その手伝いで夜12時過ぎまで身動きができなかったとのこと。その間、携帯もなにも使えなく、家族がどうなっているのかはまったくわからないまま。ようやく動けるようになって、これまた寸断された真夜中の道路を、長時間かけてようやく自宅にたどりついたそうで、玄関に「避難所にいます」という張り紙を見てかけつけて、互いの無事をようやく確かめたとのことでした。二人の話を聞きながら、赤ちゃんを抱いて逃げたとき怖かっただろうね、互いに連絡をとれなかった間どんなにか不安だっただろうねと聞きましたが、二人はその時のことを思い出すような表情で、「ええ」と頷いていました。


(6)すっかり夜も暮れて、大船渡を離れ、途中のレストランで宿を探しました。近所のホテルは、仮設住宅建設や作業で長期間泊まっている客でどこも満員。しかし、Nさんは、国内外で添乗員をやっていた人で、慣れたもので、うまくレストランの店員から聞き、ここなら空いているかもしれないというホテルを探し出しiPhoneから電話すると、幸運にも一部屋だけく空いているとのこと。ラッキーでした。なるほど、宿は種々の作業に携わっている会社関係の人たちで一杯でした(なおフェリーでも北海道から電気や電話回線復旧の応援に行くNTTや北電関係の人たちがかなりいました)。宿は行き当たりばったりでも大丈夫だろうと思い込んでいましたが、なるほど、こういうときはかえって旅行客でない人たちが利用するのですね。

 ホテルでゆっくりと休み、翌日は、まっすぐ仙台市内までクルマで走りました。で、Nさんは、病気のお母さんの見舞いに、僕は、大学時代の後輩の夫妻(ご主人は画家、奥さんは元教育大家庭科教育学教授)と会うことに。彼らは自宅は高台で大丈夫だったが、周りの家や公園はかなりの被害で、ご夫婦とも、震災と原発について深く考えるところがあり、これからの日本のあり方などについていろいろ語り合いました。


(7)と、経過を追ってそのまま見聞を書きました。最後にひとつだけ、いまの思いを。


 今回の旅で見たものは、テレビや新聞で散々見た光景とそう違ったものではありません。また、僅かな時間でしたし、地元の人たちからじっくり話を聞けたわけではありません。なにか役立つお手伝いをしてきたわけでもありません。

 で、何が自分に残ったか。ひとことでいえば、すさまじいまでの「喪失感(ふるさとと街、家族、家や会社や仕事など)への自己同化」の体験だったのかもしれないということです。とくに自分の街そのもの、ふるさとを失うということの重さは想像を絶します。それをいわば、身体で感じとったということでしょう。もし札幌市全体ががれきの山に化してしまったら・・・。そのとき自分の心に残るのはなんだろう。しかも同時に家族も家も仕事も失ったら・・・。

 今回の大震災は、南三陸や気仙沼など東北の喪失だけではないでしょう。日本国がなにかを失ったのです。南三陸の誰かが何かを失ったということは、僕自身が何かを失ったことなのです。実際に現地を目にして、僕の「想像力」として脳髄に残ったもの・・・それはこういう「喪失」の思いでした。もちろんそのことは、絶望することではありません。10年後あるいは5年後、復興した東北をもう一度見に行きたいと思っています。おそらく見事に再生しているでしょう。

 しかしそれは、絵に描いた餅をあれこれ言うのではなく、「喪失」の思いから辛うじて手にする「希望」を通してしかまっとうしないでしょう。「喪失」と「希望」に橋を架ける「想像力」を手がかりに、自分の思いを持続していきたいと考えています。

Tag:その他 

プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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