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日本の教育ー変わるのか変わらないのか?

2020年度小学校から順次変わる予定の学習指導要領の策定に関連して、昨年来、日本の教育が変わるのか変わらないのかが関心を呼んでいる。それを象徴するのが、次期指導要領の指針を立てるに当たって中教審へ出された文部科学大臣諮問文の「アクティブ・ラーニング」をめぐる議論だろう。

今回の日本の教育の変化について、中には、明治初期に近代学校制度が打ち立てられて以来の大改革だという人さえいる。

中身抜きに事を大袈裟に言うこういう議論にはまったく与しないが、たしかにいま日本の教育が大きな変わり目にあることは間違いないだろう。

これから日本の教育は変わるのか変わらないのか、変わるとしたら、何がどのように変わるべきなのかについて、長年教育政策と実践の一端に関わってきた者として、順次書き進めていきたい。

ついては、事柄を検討する筆者の基本的な視点をあらかじめ述べておきたい。

1)「今度は総合学習だ、アクティブ・ラーニングだ」といった次々と時の政策の変化を追いかけそれをいろいろに解釈するような立場は取らない。一国の教育政策とか方針というものは、教育の現場と実際に重い意味を持っている。「流行」のあれこれをとらえて我田引水のような議論をする向きもあるが、そうしたものは、現場の実際としばしば乖離する。一部の教育現場に精通した実践家や教育研究者がここぞとばかりそうした流れに棹さしているのを見るのは嘆かわしいことだ。で、まずは、教育の実際に厳格に責任を持つはずの政策の中身を正確にとらえることをベースとすることにしたい。また、教育の現場で子どもを前に日夜苦労している教師たち、そして家庭や地域で教育に関心を持つ方々を第一に念頭において書き進めたいと思う。

2)といってそれは、表現されている公式の政策文書をそのまま鵜呑みにするものではない。政策としての限界を超えて、それを支える原理・原則から政策の内容のあれこれを吟味し、時に必要な疑問や根本的な問題を提起することは当然であろう。とくに、物事の大きな変化については、その根本からの検討つまりは哲学的な吟味が必要だと思う。そうして視点から、検討に際して以下の3点を軸に議論を進めたい。

(1)次期指導要領の検討の中で提起されつつある教育の内容・方法に関する論点。

(2)教育は授業や生徒指導等の内容・方法にとどまらない。現代では大きな一つの社会制度でもある。制度の変化なしにその内容の変化はありえない。いま想定される日本の教育の変化が、どういう制度的な変化や改革と関わるのか。

(3)かつ教育の制度は、たんに社会の他領域から切り離された「閉じた空間」ではありえない。学校教育だけで理想的な世界が成り立っても、それが矛盾だらけの実社会との関係でどういう意味と機能を持つのかを見るところまで論を進めなければならない。学校や教育はただ既存社会に適合すべきものなのか、あるいは教育こそが社会を変える力になりうるものなのか。

3)物事を根本から考えようとするとき、欠かせないのは「歴史的思考」だと思う。現代性やアクチュアリティー、改革が問われるときにはとくにそういえる。例えば、これから求められる教育の変化は、明治以来の近代教育や学校をどこまでどう変えようとするのかの視点抜きには皮相的といわざるをえないだろう。それも、いまは「ポスト産業社会」だとか、いまや「教え込み」を主とした近代教育の基本が通用しなくなっているなど安直に自論を根拠づけるのとは異なった意味で。そこで、いまとこれからの日本の教育を見据える作業とつなげて、日本の近代の教育とくにその思想について随時振り返ることにしたい。

もともと教育学が専門ではなく、どこまで十分に展開できるか覚束ないが、思いのままに書き続けていこうと思う。
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札幌大通高校を訪ねて

札幌市立大通高校は、札幌市内の定時制3高校を統合して大通公園11丁目付近の利便地に8年前に設置されました。

その構想を立てる審議会の座長を10数年ほど前にやり、何度か訪ねていますが、ゆっくり授業を見たことがなく、今回初めての授業参観でした。これも待っていてこうなったのではなく、自分からぜひと頼み込みました。ちょうど、この審議会の委員だったお二人が校長と副校長さん。どうぞどうぞということで安心して訪ねました。

ふつうの授業だと面倒をかけるかも、と思い、ちょうど予定されていた今井紀明さんが代表の教育支援NPO(D×Pという団体名)の特別授業に参加しました。

3年生が対象で、午前午後夜間の3部それぞれ40人くらいずつの参加のようです。今月来月と3回のプログラムです。このNPOは大阪が本拠地ですが、代表の今井さんは札幌出身で、その関係で去年から頼んでいるとのこと。大阪から今井さんなど3人が来札し、あらかじめ札幌在住の社会人ボランティアを募集し、そのメンバー(色とりどりでした)7,8人がファシリテーター(コンポーザー)として加わりました。本当は、ぼくもそのボランティアに応募しようかと思ったのですが、年齢制限が39歳で断念、5,6歳の違いならこっそりもぐり込めたでしょうが、さすがこの差では。と、今井さんに愚痴を言っておきましたが(笑)。

授業内容は、社会とのつながりを、人生のちょっと先輩が加わってグループで共に考えるといったもので、第一回目の今日は、「失敗なんてあたりまえ」のタイトルで、いろんな失敗の経験を語り合うということでした。

NPOで広く活動を重ねている蓄積でしょうか、今井さんのリードの仕方、そして5,6人ずつ分けたグループ討論のやり方は、さすがよく練られたものでした。形式張ったところが一つもなく、生徒たちの気持ちをよく汲んで進めます。不登校だった生徒が約半数という実態とその生徒達の心の葛藤などをよく踏まえているからでしょう。生徒達も最初少し固い表情でしたが、すぐこなれ、グループでの語り合いに真剣な表情です。段々生徒達の表情は素晴らしいものになりました。

大通高校の先生も、校長副校長以外に5,6人参観していましたが、ついその先生に、「生徒たち、すごく自然で真剣ないい顔をしていますね。ふつうの授業でこういう表情になりますか」と嫌みったらしい話かけをしてしまいました。こういうteasingまがいの発言は、ときに出る悪いクセです。最近は「いじり」と先生方も言うそうですが、これは良くないことだと自省を込めて強く思います。教師たる者、子どもをからかったりいじったりしてはなりませんね。表面での笑いの影で、ひょっとすると内面に重い膿が沈殿するかもしれません。

大通高校は、スタート当初から学校外との垣根を取っ払うことを基本方針にしていました。若者総合支援センターなど学校外のいろんな方々にどんどん学校に入り込んでもらっています。

「社会に近い」開かれた高校というのがこの高校の「校是」なのです。しかも口先でなく本音で。

学校に行きづらかった子も、心身に不調や障害がある子も、年がかなり上だけどあらためて高校で勉強したい人も(60歳の方が入学したこともあります)、外国人で日本語が十分でない子も、誰にも門戸を開き、かつその教育内容は、つねに「社会に近い」ところに置いています。

校長副校長先生は、何かに特殊化せず(例えば京都市でやっている公立の不登校生のための学校など)こういう幅広い受け入れを方針にしたのは正解だったと述懐していましが、その通りでしょう。

指導要領上必須の国語、数学等の科目以外に、100を超える多様な「学校設定科目」があり(生活国語、サイエンス実験入門、生活に生きる書、よくわかる商業と経済、アニメーション技術、さっぽろ探究など実に多彩)、生徒は大学と同じように単位ごとに自分が好きな科目を履修します。

こうした仕組みのなかで生徒たちは伸び伸びと高校生活を送るようで、この高校には細かな校則はなく、「「よき社会人としての振る舞いと同じように」というのが原則」だとしています。校舎内にも、「静かに」とか「走るな」とかの掲示物は皆無です。校長副校長さんの話では、最近はこれで十分ルールは守られていて、深刻な問題行動はほとんどないとのことです。生徒たちの多様さが本当に大事にされ、学校にそれぞれ「居場所」を見つけているのでしょう。ぼくは元来、「多様性」とか「個性化」などの安易な強調には批判的なのですが、ここで行われている個々の生徒に即したていねいな教育の在り方には、実質的意義があると思います。

今回の訪問で知り驚きましたが、基礎学力の形成にもきちんと目を向け、去年から小中の学習の復習授業も学校設定科目としてやっているとのことでした。希望生徒はたくさんいるそうです。その場合、ドリルを一人ひとりの学力に応じてどんどんやらせているとのこと。こういう積み重ねがなければ、いくら教科の授業を工夫してもまともな学習にはならないということだそうです。その通りでしょう。

この他、個々に進路などの悩みや相談は無数にあり、スクールカウンセラー3人では対応しきれず、教育大学生などのボランティアでの応援を頼みたいところだとのことでした。

校長さんが会話の途中に淡々と話していましたが、今年初めて北大に3人が合格したとのこと。そういうことが学校の目標ではないが、教育の結果として好ましい結果が出始めていると見ていいでしょうね。

おそらくこの高校は全国でも希有な、北海道として誇るべき高校教育を実らせつつあると言えるとあらためて確信しました。問題は、いわゆる進学校や名門校が、改革が進まず、旧態依然の教育に止まっている場合が多いことですが。

今年開校した開成中等教育学校と併せて、札幌市は見事な中等教育のモデルを生み出していると言えるかもしれません。大通高校と開成中等教育学校は、これからの教育のいわば車の両輪みたいなものですね、と最後にエールを送ってきました。

ちょっぴりとはいえ、その両方の設置構想に関わった者として、格別の喜びを感じつつ学校をあとにし、しばし素晴らしい初秋の大通公園を散策しました。

 (2015年10月19日)

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地べたを歩む不登校生等への学習支援ー「ねっこぼっこの家」

5日夕方、札幌の地域多世代子育てグループ「ねっこぼっこの家」による不登校生などの学習支援活動に参加してきました。

学校に行きづらい子や一人親で学習が思うに任せない子など中高生2〜30人が自由に集まり、大学生が1対1で勉強の面倒をみたり、地域の主婦らが夕食を作り一緒に食事をしたりします。

この会は、8年ほど前、地域で多世代で子育てを支え合おうと始まったそうです。赤ちゃんからお年寄りまで集まり、週2,3回一緒に子育てを楽しみ交流する。この活動の延長として、数年前から、不登校やひとり親の中高生のための学習支援として始ったのです。生徒は無料、学生もお母さん方もほぼ無償ボランティア。

この会の特長は、単に大学生による学習支援ではなく、そこに地域の多様な人達が入り込み、楽しくいろんな交流をしながら続けていることです。訪ねた時の夕食は、元シェフのお年寄りによる手作りカレー。赤ちゃん連れの主婦もいてわいわいと賑やか。中には知的障害のある青年も手伝いで参加しています。

会場は教会とその付属幼稚園敷地内の一軒家。元々牧師さんの住宅だったのを格安で借り切っているといいます。子育ても学習支援も、子どもはまったく無料。参加もいつでも誰でもオーケー。会の中心メンバーは、自ら子育てで苦労したお母さん方などさまざま。札幌市の子育て支援の資金を若干得て、何とか自前で運営しているそうです。

不登校生への学習支援は、教室に入れない子達への別室と相談支援パートナー配置という、札幌市が3年前に始めた事業と前後して、近隣の中学校と連携のもとに始められました。学校とは常時子どもの様子などについて連絡を取り合っています。

勉強と食事が終わって、みんなが床に思いのままに座ってミーティング。この日は、小学校で何年も不登校だった女子が自分について語りみんながそれについて考え話し合う会。リードは、近くに住み、学校で困難を抱えた子の支援を長くやっているベテランの公立高校教師。

彼は、ベテルの家の当事者研究の手法に熟達しています。何と彼、奥さんとおばあちゃん、そして1〜2歳の二人の赤ちゃん連れで、赤ちゃんはのびのびとみんなの間を動き回っていました。

今晩の主役の女子がゆっくり話し始めました。普段は何ともないけれど、一人になると「お母さんが階段を踏み外し大怪我する」とか次々と不安なことが頭に浮かんで何も手が付けられなくなると言う。みんな姿勢は様々だけれどじーっと聞いています。そしてリード役の先生の促しで、周りの人達がいろいろに話し出しました。

ここでは、「なぜそんな不安に駆られるの」とか「こうすべきでないの」とかの話は一切なし。まさに女子の話をそのままに受け止め、一緒に考える。誰かが誰かを指導するとか支援するとか助けるとかの関係ではありません。みんな自分に置き換えて一緒に考える。

しばらく経って、一人の主婦が自分の経験を語り、ちょっとしたヒントになる話をし、本人も「ああ、そういうこともあるか」と頷きました。コーディネーターもそれをうまく取り上げました。小一時間、何とも気持ちのいい対話の時間でした。

きっと彼女は、この集まりに来て自分のことを語り、何かちょっと感ずるものをえて、明日からまた元気に過ごそうと思いながら帰路についたことでしょう。

会に初めて参加して、学校に行きづらいなど難しさを抱えた子達に本当に寄り添い、相手を認め合い、ともに考え合うということがどういうことかをまざまざと感じ取った思いでした。

ねっこぼっこの家のあの自由そのもので、とことん相手を認め合う雰囲気について深く考えさせられました。ここには凡百の教育論を突き抜けた教育の真実がある、と。単なる決まり文句のような多様な教育とか違いを認め合う教育といった言葉を超えたリアルさがそこにはありました。

一方公教育は、こういう学校の外の地域の場での無償の「教育」をどう受け止めるのでしょうか。教科書もない時間も決まっていない、話し合うときの姿勢もなっていないようなものは教育でないと言うのでしょうか。そうではないでしょう。少なくともそこに間違いなくある、人の育ちの事実を認め理解しなければならないのではないでしょうか。

それにしても、身近に、こんなにもパワフルでエネルギーのある女性達がいることは驚きです。ほとんどボランティアで。かつ彼女らの賢さ。肩肘張るわけでも自分たちの活動を誇るのでもない。会の代表の女性は、いろんな人が自由に集まり楽しいことをやるんだから続けられると言っていました。

まさに「ねっこぼっこの家」です。新たな教育エリート達が試みるニュールックの教育事業などとはまったく無縁な世界です。外国由来のオールタナティブの受け売りもまったくない。この10数年、日本社会にもじっくりと育ちつつある地に足の付いた教育へのリベラルな発想と活動が、ここに間違いなくあるように感じました。

ようやく法制化されようとしている「多様な教育機会法案」は、こういう地べたを歩くアクティブで賢い女性達やそこに集う子とも達にまで届くものに果たしてなるのでしょうか・・・。

2015年6月7日

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アクティブラーニングと次期学習指導要領の方向性について

[ 以下の文章は今年1月に書いた短文で、この後、安彦忠彦氏や石井英真氏の論稿などを含めて検討したものを書く予定でしたが、他の仕事が多忙でまとめのための時間が取れないので、とりあえずこの問題群に関する導入部分として掲載します。]

次期指導要領の検討を中教審に諮問した昨年末の諮問文に「アクティブ・ラーニング」なる用語が数カ所に用いられ、にわかに話題を呼んでいます。

もともと数年前に、伝統的な講義に終始し、学生が主体的に学ぶ力を育てていない大学教育の現状に対して、アメリカの一部の大学で行われた授業法のネーミングでした。これが、小〜大学までの授業法として次期指導要領の重要なキーワードのように提起されたわけです。

早くも少なからぬ学校で、校長がアクティブラーニングについて課題にしなければと力説し始め、学校の研究課題にするところも出ているようです。また、われこそはアクティブラーニングの本流だみたいな自己宣伝をする人も出ているようです。

中身の吟味なしのこういう安易な追従は困ったものです。そもそも、今回諮問文で出ているアクティブラーニングとは極めて広い概念であり、必ずしも明確に定義されたものではありません。

今回の諮問は、文科省内で、1年以上にわたり教育学者を中心に精力的な検討をした結果として行われています(座長安彦忠彦氏、他に無藤隆氏、市川伸一氏等)。そのまとめは、去年3月末に、長大な「論点整理」としてまとめられています(必ずしも「論点整理」になっていなく諸意見の紹介の面も強いのですが。なおこれにはアクティブラーニングとの語は使われていません)。

この論点整理を全体として見ると、今回の提起が、従来の指導要領の個々の教科の内容の列挙の弱点に代わって、育てるべき子どもの資質能力のトータルな視点からどのように学ぶのかの視点を柱に据えるという大きな枠組の中で行われていることを見逃してはなりません。

「何を教えるか」だけでなく、「どのように学ぶか」の視点です。(淺読みの人は、これを「これからは何を教えるかでなくどのように学ぶかだ」と歪めてしまいます。何を教えるか抜きにどう教えるかはあり得ないのは、教育論では決して忘れてならないじことです。)

実際にこれをきちんと次期指導要領に盛り込むことは容易でないと思いますが、私見では、容易ならない課題にしても、キリなく増大する、各教科ごとの教えるべき内容の提示ではもう限界であり、それとセットに学習・教授法について提起するということには重要な意義があります。

しかもその場合の学習・指導方法は、単なるスキルでなく、子どもの学びの実際に即した基本的一般的授業法でしょう。

今後、1年ほどで中教審の部会等で次期指導要領の指針がまとめられ、その後教科書作成、さらに各学校での先行試行が行われます。

これまでにない大きな変更が予想されるなか、各学校と先生方は、早めにその動向について自前の検討をする必要があると思います。

少なくとも、諮問文全文、検討会の論点整理、国立教育政策研究所の案(21世紀型能力論など)について、テキストに即した検討が不可欠です。

関連し、検討会の座長を務めた教育学者の安彦忠彦さんが、この論点整理と今後の教育方向について、かなり突っ込んだ見解を近著『コンピテンシーベースを超える授業づくり』(図書文化社、2014年12月)で展開しています。これもぜひとも参照し、広く教育界で議論が進むことを期待しています。実践者も研究者も。

実践知重視だからといって、こうした大きな枠組の政策論を回避してはならないでしょう。教育論で議論や論争を避けるのは良くないと思っています。実践をやっていくなかで理論の相克を乗り越えられるというものではありません。理論は理論としての吟味が不可欠です。

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教員採用の国家試験化・国家免許化について

報道によれば、5月14日の教育再生実行会議で、教員採用選考の際「筆記試験を国の組織が」(NHK)、「国と地方の共同実施で」(朝日)とかを提言とのことです。先日の与党実行本部の「国家免許化」とは大きく異なる内容になっており、今後の議論が注目されますが、制度的に見れば「国家試験化」も「国家免許化」も重大な難問を含んでいて、慎重な検討が不可欠です。

先日の与党実行本部案について、教員免許を「国家資格」とか「国家免許」にすることで教師が社会の中で評価されるようにするためとの説明が報道されていましたが、国家資格とか免許は、宅地建物取引士とか栄養士とか保育士とか沢山あって、どれもが医師のような高い社会的評価をもっている訳ではありません。そもそも、国家資格・国家免許にすれば教師への信頼が高まるなどという単純な発想に乗っかることは眼を曇らされます。

国家資格とか免許はどういうものかの説明抜きに、医師免許と同様に、などと発表者側の強調点をそのままに報道する姿勢には疑問を感じます。

医師のように質の高い国家試験をやり国家免許にすれば、と言いますが、そもそも医師と義務教育教員の採用のあり方が根本から違うことをまずは見るべきでしょう。義務教育学校は、国民の教育を受ける権利に基づいて設置者である都道府県等が担い手の教員を適切に採用配置する厳しい義務を負っています。これは、一見同じようですが、地方の病院を含めて全国的に医師を適正に配置する努力義務とは根本的に異なります。

例えば国家試験・免許になり全国的に相当数免許取得者を確保したとしても、採用時に都道府県毎の志願者に大きな差が生じ、特定の県で教員を定数通り確保できないといった事態が起こったらどうするのでしょうか?これは十分にありうる予測です。

受験者の志望県ごとに合格点に差を付けるなんてことはありえません。国家試験の意味は、全国的に試験上での質を共通化するのが目的なのですから。都市部志向の教師志望者が国家試験合格者の多数を占めた時、合格者の配置を国が割り振るなどもまったくありえないことです。

(医師の場合も、医局制度廃止からこうした配置の不均衡、地方医師の大きな不足が生じていて社会問題になっていますが、医師の高度の質維持の必要が不均衡実態を凌駕していて、辛うじて厚労省や地方自治体が種々の部分的な緩和策ー奨学金に伴った一定期間の就職義務や地方勤務の好待遇化などーをとっていると言えます。)

もちろんこうした難問を潜り抜ける策もいろいろありうるでしょう。国家資格の職種もこの点で実際のあり方は多様です(例えば保育士は国家資格ですが、採用試験は都道府県実施など)。しかし義務教育学校という国の根幹的な業務については、まずは確実な教員の確保が先決で、安易に医師のようになどとは到底言えないのです。

おそらくこうした制度上の難問を考慮してでしょう、実行会議は「国家免許化」は言わず、試験の共同化を提言し、かつ具体化は中教審でとしているようですが、これについても、簡単に「ああ、国が関与した方がいい試験になり、結果的に教員の質が上がりますね」などとは言えないと思います。

まずは、全国で多様に行われている各都道府県の採用筆記試験にどんな問題があり、どう改善する必要があるか、などひとことも触れていないようなのは理解に苦しみます。もちろん全国の筆記試験をよく承知しているわけではありませんが、北海道についていえば、試験問題はそうおかしなものでありません。

それと、教員の質といっても、筆記試験は要するにペーパーテストであって、それ自体でどこまで質を上げられるか簡単に言えることではない点に注意が必要です。

医師についていえば、医師試験は3日間、論述を含む膨大な問題を出し、受験者は9千人程度だそうです。対して小中高の教員の場合その何倍かの受験生がいて、結局マークシート式がメインになり、3日間もできるでしょうか。

いずれにせよ、国家試験化や国家免許化について政治的意図などは別にして、何でも国がやるといった政策動向としてはアナクロ二ズムだと言わざるをえないと思います。教員の質の確保・向上は大きな国民的課題なことは間違いありませんが、その地域ごとの状況に合わせた量と質の両方を確実にアップしうる実効性のある改革案こそが求められると確信していますし、そのための具体策は英知と財政的裏付けがあれば十分可能だと考えています。

なお、国家試験化・免許化と「インターン制」とは別なものですが、国家免許化だけでは教員の質の向上にならない(医師も学部卒後の国家試験のあと2年間研修医が義務です)という点では、両者セットでなければ意味がないでしょう。

しかしインターン制はこれまた難問です。定数外に大量のインターンをかかえ、それを有給にしなければ教職は実にバカげた職種になってしまいます。医師の場合、国が一部補助していますが、多くは各病院で大幅に上積みして研修医給与を出しているようです。そんなことを都道府県でできるでしょうか。

かつ、どの学校に配置し、誰がどうインターンを指導するのでしょうか。よほどしっかりした学校でなければ実質的に資質向上にならないでしょう。最近の大量退職大量採用で各学校の教員構成がいびつになり、少子化で学校が小規模化しているなかで、果たして有意義な研修をできる学校がどれだけあるか。それだけでなく、そもそも教育員会と各学校現場だけで十分に現代の課題に応えられる資質向上が可能なのかどうか。

(今回の国家免許≒インターン制案は、ドイツの国家試験とインターン制に近いのですが、ドイツでも近年、地方行政機関が主となる研修では現代的課題に応えづらいとして改革されつつあるようです。)

また法的には、インターンも何らかの採用(雇用)行為が必要ですが、その場合、インターン終了後不適格だと解雇するなどありえなく、事実上そのまま正式採用になる可能性が高いと言えます。いまも試用期間があるのですが、期間終了後不適格だからと任用しないというのは法律上極めて難しいと言われています。

以上、教員免許の国家試験化・国家免許化についてその難点を縷々述べましたが、政策立案のありかたとして、なぜいまこのようなものが打ち出されてきたのかについて、疑問をもたざるをえません。これを直ちに教師への国家統制が狙いだなどと糾弾したりする気はありませんし、実行本部の案を原文で読むと、それなりに教師への信頼回復とか格上げによる社会的地位の向上の狙いもあるようです。

しかし、責任ある政策としては、あまりにも現実無視です。とくに義務教育が我が国では、学校の設置、教員の任用、研修など基本的に都道府県が行うという制度的仕組みを度外視して論を立てるのには疑問を投げかけざるをえません。それに、最近の教育政策が、ともすれば「ローorノーコスト、ハイパフォーマンス」の傾きがあることに強い懸念をもちます。財源的な裏付けなしに、制度的に無理な改革を謳うだけでは、多くの現場教師はますます展望と元気を失います。

翻って、より現実的で有効な方向は教員の資質に関しても大いにあり、そのためにすでに全国各地でいろいろな実践や試みが行われていることにもっと眼を向けるべきと考えます。政治や政策が行うべきは、そうした実際現場の意欲的な試みに、マクロ的な視野と実際的な支援を差し向けることではないでしょうか。

学校現場を不必要に揺さぶり、萎縮混乱させ、ひいては元気と活力をなくさせるような政策は、ほどほどにしてほしいものです。

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教師力アップの現実的な展望

<学校に勤務しながら大学院で学ぶ>

5月22日の読売新聞教職大学院連載の(2)で、福井大教職大学院が紹介されています。

現職の先生方が学校で仕事をしながら、学校を大学院教育の場として学ぶというたいへんユニークで有意義な大学院です。大学の教員がしょっちゅう現職院生がいる学校に出かけて、院生の学校での仕事に即して討論し合います。

校長先生の、「学校の中核を担う教員が現場を離れずに済むので助かる。学び続ける姿勢は他の教員にも刺激になる」という記事中の発言は、まさにその通りと言えます。

かつ、授業料は県教委市教委が半分程度負担し、大学の減免もあって、事実上現職院生の負担はありません。こういう大学院なら、どこでも非常にスムースに現職教員の力量アップが可能になります。

福井大ではこれを「学校拠点方式」と言っていて、今後の教職高度化の有力な方向だと思っています。教職大学院は、来年一気に拡がりますが、その中で福井方式を採り入れるところも出てくるようです。

これに対して、大学関係者は、よく、「ちゃんとした講義が行われなく大学院の教育として疑問」と言いますが、大学の教育を、教室の中で高度な理論を教授するもの、と思い込む伝統的な固定観念に拘った見解だと思います。かつ学部ではなく、高度専門職に関する大学院教育ということを見過ごした見解です。

(1)学校の仕事に即してといっても、それぞれの院生は、自分の研究テーマを大学のスタッフと話し合いながらきちんと立て、これを2年間、実践的に検証し、かつ何度もいろんな場で発表し、最終的に大部の実践研究報告書にまとめます。もちろんその過程で、種々の文献をマスターしなければならないのは当然です。

(2)福井大のこの方式は、中心になっている教育学者が何年にもわたって、ドナルド・ショーンなどの高度専門職としての教師の資質向上の理論を検討し、教育委員会と緊密な話し合いを通して実行し始めたもので、単なる職業訓練的なものとはまったく異なります。

似た方式は、80年代アメリカの一部で始まったPDS(professional Development on School)や、それを継承したイギリスの地区学校での免許取得方式などありますが、いずれも、大学がきちんと関わっていなく、新しい学習指導法などの取組が弱いという弱点が指摘されています(国家免許のドイツのインターン制も同様です)。

(3)教員養成やその高度化・修士レベル化で「実践重視」は大事なのですが、単なる職業訓練的なものに堕さないためには、大学がきちんと関わることが極めて重要なのです。かつ、いつも指摘していることですが、欧米の教員養成では、とくに小学校教員養成では、大学レベルの養成が伝統的に不十分で、その点、日本は戦後いち早く「大学における養成原則」が立てられ、これにより日本の教師の高い質がつくられてきたのです。

大学が関与することの意味は、その「探求的」姿勢の堅持にあります。授業や生徒指導等の学校での実践について、ただあれこれ技術的に腕を磨くだけでなく、自らの実践を「反省的に」振り返り、これを知的探求の課題にし、自立した理論的実践的に高い力量をもつ教師になることをめざすのです。

こうした点から見ると、日本で盛んな民間の各種の研修講座は、それなりに有益ですが、単に個人レベルの個別的な技能の習得に終わりかねない点で、大学主導のシステムに到底置き換えられうるものではありません。

(4)福井では、教職大学院を中心に、長期的な計画のもと、一定期間に県内のすべての小中教師を何らかの形でこうした修士レベルの教育を受けられるようにすることまで検討しています。これは素晴らしい構想です。

何度か福井県教委の方と懇談もしましたが、こうした方向で、大学とがっちりタッグを組んで教師力を上げようとの固い信念が窺えました(教育行政の人達の中にはまだまだ大学不信の強い方が少なくないのですが)。

国家免許化とか国家試験とかいろいろ言われ始めていますが、もともと無理なそうした「改革」の検討に時間を費やすより、いまやる気になればすぐできること、例えばこうした福井方式の教職の高度化を全国で大々的にやるのを国がしっかり応援する方が、よほどリアリティーがあると思っています。

学部新卒教員については、また別な課題がありますが、これも、和歌山県が去年から始めた、大学の全面協力のもとの1年間の研修制度などを広げれば十分有意義であり、国の財政支援があれば、教職大学院が全県設置になる来年度以降現実的に可能です。免許法などは、こうした現実策のもと、必要な改正を思い切ってやればいいのです。

前にも書きましたが、まさに、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」です。あれこれ非現実的な施策に拘っている暇はありません。学校現場での教師の疲弊の解消と力量アップは待ったなしです。

あと数年後来る採用減の時期に向けて、大胆かつ現実的な資質向上策に踏み切るべき時期でしょう。

http://www.yomiuri.co.jp/ky…/renai/20150515-OYT8T50008.html…
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大学入試改革ーとりあえずひと言

中教審の大学入試改革が議論を賑わしているが、とりあえずの感想を。

まずは、中教審答申として一応まとまったが、先の見通しは不透明で、やや及び腰に見える文科省の今後の制度具体化も、かなり難航するだろうと思う。

答申の制度設計には大きな弱点が残っているのは確か。2つの違った試験はどう見ても中途半端だし高校にも高校生にも過重。入試の学力レベルの大きな差を考慮したものだろうが、基礎学力テストが必須にならない状態では、AO入試などでの学力軽視入学の実態は変わらないだろう。そもそも、規制緩和で大学設置の門を開いたままで、国に権限のない入試で大学の低学力化を防ごうというのには無理がある。

もう一つの制度上の問題は、学力評価テスト(ネーミングも長たらしくよくない)を新しい形で意欲的に提案しているが、これとの関係で各大学の個別試験を構想通りに実現するのはどうみても至難であること。そもそも、文科省にも国大協にも各大学の入試について命令する権限はない。

答申まとめの中教審総会で、個別入試で構想通りやらない大学には予算削減など厳しく当たれとの経済界からの発言があったというが、予算誘導には限界がある。とくに難関大学が新テストだけでは選別できないとして難問の入試を続けると、いまの受験体制は大きくは変わらない。予算誘導により、総合的評価、人物評価として部活やボランティア活動などを合否判定の一部で使うことはありうるにしても。

難関大学も新テストの内容を吟味して考えるだろうが、いくら合科型とか記述重視といっても、膨大な答案はコンピューター処理にせざるをえなく、これまでの知識学力によるランク付けは大きくは変わらないし、難関大学が望む高学力、高主体性の受験生の選り分けに有用なものにならないだろう。

基本制度に限って以上の欠陥をふまえれば、合科型、一点刻みの廃止などの答申の個々のの提案を生かしつつ、再度新テストの一本化を検討すべきでないか。制度はシンプルな方がいい。複雑な新テストに膨大な金をかけるのも無駄だし、高校教育に余計な混乱や負担をかける必要はない。

新テストは記述を一定重視した一本のテストにし、その大学での利用については欧米でやられているように、段階評価にし(これは義務付け必要)、複数回実施をやるといいと思う。ただそれにしてもこれにより学力差に基づく大学のランクがなくなるなどありえないだろう。

各大学はその新テストを「足切り」に使い、おおまかな学力確保を維持する。あと、個別入試については、あれこれ言っても強制力も膨大な必要予算措置などできないんだから、大学に任せる。むしろ定員の一部を推薦入試だとかAOなどと細分化し受験生に分かりづらくなっているのを是正することが必要だ。東大などでごく少人数の定員で推薦入試をやってどういう意味があるだろうか。

以前ロンドン大学で入試の様子をつぶさに見たことがある。全国共通テスト(民間実施だったか)によりAとかBとかBプラスとかに区分し、各大学は〜ランク以上を明示する。そのあとが大変。アメリカと違い、ほぼ一年中各大学のプロフェッサーが研究室で面接する。一人に1時間くらいかけて。必要な場合は何度か同じ受験生に面接することもあると言っていた。 

イギリスは教授が少なく、ロンドン大では面接はプロフェッサーだけがやっていた。かつかなり主観的評価だが、入学定員などもイギリスらしくいい加減で、そう公平性にクレームはないようだった。一応面接のチェックシートがあって、それはそれなりに良くできたものだったが。

アメリカは専門の入試担当教員が大量にいて、これも年から年中面接をしているようだ。かつ名門大学では世界各地の同窓会がけっこうな力を持っているという。

こういう個別入試体制は日本で本当に可能なのか。

おそらく無理だろう。だとしたら大学ごとに任せる以外にないのではないか。いまのセンター試験の改善を大胆にやることに集中した方がいいのではないか。

今回の入試改革が、学歴格差や受験競争をなくすために構想されたものとは思わない。英米だって大学格差受験競争は厳然としてある。要するに、グローバル社会でもう少し「主体的に」考えて勝ち抜く高度人材を作りたい、その方向で知識中心の受験目的が主になっている高校教育を変えたいということだろう。これらの構想の周辺には、グローバル時代の「新エリート主義」ともいうべきものがちらほらする。

主導した人達の狙いに賛成するものではないが、受験産業が大手をふるう受験競争の有り様を教育論的に知識優先だけでなく変えようという点では異論はない。むしろ大いに変えるべきだ。とくに高校教育の受験への矮小化の改善は重要課題だと思う。

ささやかな結論は、予算的手立てもないのに大風呂敷を拡げるのでなく、現実的改善になることに集中すべきだということ。そのために新テストを記述重視、段階別評価、複数回実施の方向で現実的に計画すべき。それでもいまのセンター試験の大幅な改善にはなりうる。いまのセンター試験を良しとは多くの人は思っていないだろう。

さらに大学入試改革が、小中高大などの教育改革全体の堅実な推進と併せて行われてはじめて有効性が発揮されるということは当然の前提だ。

蛇足ながら、今回の答申について、偏差値と大学ランキング打破とか人物重視だとかと主体的思考だとかのいわば「ポエティック・フレーズ」にあまり惑わされない方がいいと思う。新聞等のメディアも、知識偏重打破は賛成だが、高校や大学の現場で混乱するようでは困る、ていねいに議論すべきだ、といったありきたりの主張で終わらせていてはオピニオンリーダーとして主体的思考を徹底しているとは言えないと思う。

2014年12月25日

Tag:教育  comment:0 

「愚かすぎる国民」?

東北大震災で見事に新たなボランティアスタイルを作って注目していた中堅研究者が、選挙動向に関して「愚かすぎる国民」というコメントをしていて驚き悲しく感じました。

「自民党圧勝した場合、日本に住むリスク自体考えはじめないといけなくなります。少なくとも、愚かすぎる国民と愚劣極まる政治に失望し、家族を守るために、リスク分散を本気で考えるようになる人は一気に増えると思います。」

いくらなんでも「愚かすぎる国民」はないでしょう。

ぼくも政治の難しさや歯がゆさをいつも感じていますが、そのとき、戦前言論でファッシズムと戦い終戦直後獄死した哲学者戸坂潤の「民衆の角度」という言葉と文章を思い起こします。

民衆と国民は愚かではないという視角は、社会科学研究者の矜恃でなければならないと若いときから考えてきました。そこを外すと、民衆から離れた単なる評論の世界になってしまう。

「愚かすぎる国民」など言う前に、人々の生活と意識の深部にあるものを冷静につかみ取る知力が必要です。習い覚えた価値感を振り回すのでなく、生活と意識に深部に生じつつある新たな価値意識の芽生えにこそ目を向けそこから何かポジティブなものを導き出す。

安倍内閣の危うさは確かに感じますが、個々のあれこれをあげつらうだけでは無力でしょう。

アベノミクス、集団的自衛権、秘密保護法、急ピッチの教育改革などの具体論の検討と別に、いまとこれからの日本の「政治風土」の行方を黙想しています。

一言でいえば、民主政権の経験後、日本の政治風土が大きく変わったこと、強いイデオロギー的対立構造を持たない「英米型」の政治状況ーそれを一部内包しているドイツやフランスと違ったーになりつつあるのではないか、そのなかで、7,80年代にヨーロッパで興隆した社会民主主義潮流と異なる「新しいリベラル」のあり方を根本から追求する必要があるかもしれない、など。

いずれにせよ日本国民は、そう無知でも愚かでもない、日々の生活のなかから決して譲れない価値、協同して求めるべき価値を作っていくだろうと強く思います。たとえ願望にすぎなくてもその道を歩みたい。

(2014年12月13日)

Tag:教育と人間の希望を求めて  comment:0 

授業の現場からこれからの教育を考える

札幌市内の中学校の公開授業を見てきた。1学年7〜8学級生徒数800人余り、特別支援学級が4クラスで20数名。道徳、社会、英語、音楽などを見たがいずれもこれ見よがしでなく、普段の授業ぶりが窺える立派な授業だった。取って付けたように公開授業のためのテーマを大袈裟に付けていないのも好ましい。

日本の学校教育について、時に余りにも安易に、教え込みだとか決まった答えの習い覚えだとか言われるが、小中の普通の授業を見て、こうした授業のどこがどのように教え込みと言えるのかと問いたくなる。かなりの時間授業を実際に見た上での発言なのだろうか?

3年社会では、教科書にあるコンビニの経営者になってみようというテーマで、実際に自分たちの地域の地図を見ながらベストの立地を考えさせ発表し合っていた。教え込みというが、最近の教科書をよく見てほしい。この教材もそうだが、教科書には考えさせ討論させる内容のものが随所にある。社会だけでなく、音楽でも道徳でも、教師による課題や教材の提示と共に、当然のようにグループ討論や発表が行われていた。

3年の道徳の授業はなかなか練られたものだった。「噂話のわな」というテーマで、情報が人の間を通る中でどう伝わっていくかの例示と確かめから始め、後半、「誰かが私の悪口を言いふらしているって聞いたけどひどいと思わない?」という友達の会話に対する応答を考え、実際にペアで会話をし発表させる。教師はどういう応答がいいかは言わず、生徒の発言に応じて「こういう意味だね」と念を押す。これはまさに、現行学習指導要領の最大のポイント、実生活につながる言語活動重視の授業の試みともいえる。この教材は、担当教師個人が考えた教材ではなく、研修部が学校全体の教材として練りあげたものだという。

衒いが出てくる中学生の討論に過剰に期待してもダメだ。しかしどの授業でも発言や討論の前後の教師の的確なフォローで、それなりに生徒達は考える場になっていると思った。かつそうした討論に持って行くのには教師の事前の周到な授業設計の準備とその場でのリードが不可欠だ。

道徳の応答でも答えは様々。応答には、「それ確かめたの」とか「本人に言ったら」とか「気にしない気にしない」などいろいろあったが、生徒が言いっ放しでは学習にならない。「それは情報の真偽の問題だね」などと随時教師がリードする。討論学習と雖も教師の導きが不可欠だ。どんな討論授業であっても、大村はまが繰り返し言ったように、教師は教えることに怯んではならないと思う。

作り事のような討論学習や学び合いは好まない。しかし今日の公開授業で、ごく普通に、考えさせ討論させることが行われているのを見て嬉しく思った。もちろん個々の場面で、発問や指示がどうだったかとか生徒とのやりとりをこうすればとかはいくらでも言えよう。授業を見ると、よく、「あそこではこう発問した方がいいのに」とか「あの生徒の発言にどうしてああいう反応をしたのだろう」など注文を付けたくなるものだ。しかしそうした注文を振り回すのは止めた方がいい。日常の授業の有り様としては、そうした個々のスキルの指摘はほとんど無用だと思う。

学校の授業というのはその時一回だけのものでない。365日教師達は同じ生徒と関わり授業を行っているのだ。トータルに見れば、発問はとか指導言はとかはほとんど属人的な事柄であって捨象さるべきものだ。そうしたスキルは、長期にわたる教師と生徒との関わりの中で、その教師固有のあり方として徐々に時間をかけてつくられていくべきものだ。もちろん、だからといってそうした個々の技術やスキルを磨くことを軽視するものではないが。

この学校には有名教師もカリスマ教師もいない。しかし見るところ間違いなく教師達は一定のレベルでまともな授業、精一杯自ら考え発言する力をつける教育をしている。もちろんその前提として、生徒たちの基礎学力の平均以上のレベルがあるし、研修部中心の先生方の地道な研修がある。

今日の公開授業を見て、改めて日本の教師の平均的レベルの高さを実感した。随所に教師の知的閃きを示しつつ手際よく授業を進め、生徒たちを集中させるなどそうどこでも行われているわけでない。そこには頭ごなしの教え込みも子どもを軽視した引き回しもない。授業設計の基本や生徒とのやりとりの実際も、ほぼ一定のレベルで行われていると言える。道徳の授業でも徳目の押し付け的な要素はまったくなかった。道徳の教科化に懸念があることは分かるが、日本の教師をもっと信頼していいのではと思う。道徳だけでなく、どんな教科でも、先生方は教科書の棒読みで良しとなどしていなく、子どもたちとの関わりの中でそれぞれに工夫しているのだから。

その上で、さてこういう学校と教師にこれから何を求めるべきなのだろう。「これからの教育にはこれこれが必要で、そのためには教師の力が足りない」などと、結局は教師バッシングになるような議論は無用だ。しかしこれでいいという訳ではない。

今日の授業でも、この方向でもう少し習熟し徹底していったら生徒たちの発言や討論がもっと本物になるのでは、と思うところはある。例えば、一斉での教師による説明とペアやグループでの討論とのつながりがもう少し工夫されていいと思った。しかしそれは、何か特定の方法を適用すれば良いといったものでもない。この学校では、すでに、学びの共同体や協同学習などの授業法の研修は一定行っているというが、その上でさらに必要なのは、先生方が日々自分で試行錯誤しながら積み重ねていくことだろう。

主体的に考えて答えのない課題解決に当たる力をつけるという目標には意味はある。ではそれを徹底し、教科書やクラス単位の共通的学習を無視し、自ら学び少人数で討論し意見を言い合う授業に徹底すればいいのだろうか?イエナプランのように、生徒一人ひとりの進度や関心に沿って生徒たちの学び合いによって考え発表する力を付けるなど。

オールタナティブ教育を含め、そうした教育のあり方を否定はしない。むしろ日本でも徐々にいろいろな場でその試みがあってしかるべきだろう。しかし、一般の公立学校でそれは本当に可能か?

現行の日本の公教育制度のもとでは不可能であろう。というより、一部の学校や一部の学級で、学習指導要領や教科書、学級制を無視してそうした教育法に徹底すると、多方面で混乱をもたらすだけだと思う。

では、日本の教育がこれから、より考える力や課題解決力を高める方向に向かうために、学校と教師に何が必要か?

私の答えは、迂遠かもしれないが、シンプルだ。授業法や指導法に関する先生方の現場での工夫と努力を尊重し励ますことが基本だということ。

かつ、授業法や指導法を単にスキルや技術とみなして次々と新手法を提起するのでなく、何を教え、子どもたちが何を得、どういう人間になっていくのかという学校教育の根本を、学校現場でたえず教師間で吟味し、共有し合うことが何よりも大事だ。これぞ、教育の基本的目標に関する、教育の専門家としてのリフレクションである。もちろんそのための、種々の研修のあり方の改善や時間的余裕などの条件整備も併せて。

さらに、そうした学校現場での工夫や努力と併行して、そうした先生方の教育への思いがよりよく可能になるような日本の「頑丈な」公教育制度の改革、「柔軟化」が追求されてしかるべきであろう。もともと制度と制度をつくる精神とは一対でなければ。

最近またぞろとみに、「これからの教育は〜でなければ」とか「21世紀型の新能力観」とか ICTによる教育の抜本的転換(反転授業)などの言辞が増えてきている気がする。しかし、戦後の教育論の流れを一瞥しても、どうもそういう流れに素直に頷けない。

今度はアクティブラーニングだ、課題解決だといった言辞はほどほどにした方がいいのではなかろうか。教え込みか主体的学びかなどのあれかこれかは止めた方がいい。教育の目標や方法のブーメランは、徒労でありエネロスだ。こういうときこそ、時の政治に過度に振り回されることなく、教育の王道をしっかりと睨みつつ進むべきではないだろうか。

(2014年11月28日)

Tag:教育  comment:2 

道徳教育寸描

札幌市内で行われた学級づくりセミナー主催の「道徳の授業づくり」に出てきた。中心は山形の小学校で長く道徳の授業をやってきた佐藤幸司先生の講演と模擬授業。その他、道内の若手3人と石川晋さんの模擬授業も。参加者は20数人だが、道徳授業テーマで3年目という。少人数であっても、こうした地道な研鑽の場が続けられているのは素晴らしいことだ。

佐藤先生の実践は、徳目の押しつけや型にはまった授業にならないように、写真やデータを見せることから始めたりと、さすがに年期が入り工夫されたものだった。山形ではごく普通に副読本を使った道徳授業が行われているとのことだった。

チキンライスの写真を見せて、レストランに親と行ってもいつもチキンライスしか注文しない少年の話を引き合いに出し、親に気を使って遠慮している状況についていろいろ子どもたちに考えさせる。最後にはチキンライスという歌まで歌って何かを感じさせる。ここまで用意周到に準備をするのは大変だが。

かつ彼の授業では、つねに生徒全員に書かせたり発表させたりを大事にしている。結論も教師がやんわりと例を挙げるなどしてまとめる。子どもたちの「心に残るもの、余韻」を大事にしているのだという。柔らかな語り口、豊富な素材と相まって、なるほどこれだと子どもたちの心にじわーっと沁みるだろうと感じた。

参加している比較的若い先生方は、熱心にその手法、素材の用意の仕方などに耳を傾けていた。それなりに得るものは多々あっただろう。ただこれらから参加者が道徳教育のあり方について何を学び取ったのかについてはどうかな、というのが正直な感想だ。結局明日すぐ使えるあれこれのアイディアが主であることは否定できない。

こういう現役の熱心な先生方の自主的な講座に参加したのは3回目くらいで、明日のアイディアをというのはある意味当然だろうとは思いながらも、やはり違和感が拭えないところがある。せっかくなんだからいろんなノウハウと同時に、そもそも道徳的価値とは何かなどの議論がどうして行われないのだろうか、と。

で、一つ感じたのは、徳目の押しつけにならないようにというのは大事だが、そのことは教師自身の個々の道徳的価値についての見方考え方をカッコに入れてではないだろうということ。子どものきれいごとの発言を問う前に、教師自身の価値観も問われているのではないか。子どもは教師のそれを鋭く見ている。

そこが算数などと道徳の違いだ。算数等の教科は、いちいち計算の意義などの価値感を問わなくても授業は成り立つ。しかし道徳の授業はそうではないだろう。子どもから言えば、では先生は親切とか遠慮というものをどう思っているのかと問えるのではないか。

そんなことを考えながら、ふと福沢の徳育論を思い起こした。福沢は学校で扱うべき道徳を「公徳」でなく「私徳」に限定した。モーゼの十戒等の人類普遍の徳である。かつそれを学校で教えるのに、たいして普遍性を持たない教科書ではダメだと。聖賢の言い伝えのように誰もが認める価値を伝えなければならない。

もちろん今道徳教育を考える場合、盗むなかれなどの人類普遍の徳だけでは不十分だろう。教育勅語制定直前の福沢の公徳=社会的道徳への慎重さを考慮しても。それにしても、個々の教師がどういうように普遍的道徳価値を語れるのかの問題は確かにあると思う。そこを避けては道徳教育は成り立たない。

道徳的価値自体について授業者自身による吟味が必要と前述した。例えば学習指導要領の各学年に割り振られた「道徳的内容」を見ていただきたい。小学校中学校を通して4つの領域(自分自身、他人との関係、自然や崇高なものとの関係、集団や社会との関わり)が区分され、小中それぞれに(小学校では低学年、中学年、高学年に分けられている)16〜24の項目が立てられている。

小学校低学年(1〜2年)の自分との関わりの中身の1番目は、「健康や安全に気を付け、ものや金銭を大切にし、身の回りを整え、わがままをしないで、規則正しい生活をする」、他人との関わりでは「気持ちのよいあいさつ、言葉遣い動作などに心掛けて明るく接する」だが、これらは厳密な意味で道徳と言えるだろうか。

前者は生活規律であり、後者は礼儀だ。同時に自分との関わりでは、「よいことと悪いことの区別をし、よいと思うことを進んで行う」、他人との関係では、「高齢者などに温かい心で接し、親切にする」「友達と仲よくし、助け合う」など挙げげられている。4分類の下でのこうした項目の列挙は理解が難しい。さらに、中学までの各項目の全体を見ると、あまりに内容が盛りだくさんで、それだけで頭が痛くなる思いがする。

問題点を簡単に言うと、しつけや生活規律、礼儀などと善悪の基本、さらには親切などの社会的価値が説明抜きにばらばらに列挙されているのだ。お年寄りに親切にするとか友達と仲良くするということと、身の回りを整える、挨拶をきちんとするなどとを教師はどう区別して教えるのか。ここには道徳的価値としてのフェイズの違いがある。

私見では、①しつけや規律、礼儀、②うそをつかない、年寄りを粗末にしないなどの基礎的善悪(普遍的人類的価値)、③親や教師を敬愛し家庭や学校を楽しいものにするといった社会的主体の形成=社会的道徳の3つのレベルは区別されなければならない。これがごちゃごちゃに挙げられていている。

こうした道徳内容項目(徳目に近い)が、フェイズの違い抜きに全体として社会の中の一員として生きるものの道徳とされているように思われる。これをそのまま大事な道徳的価値として教えると、いくら途中で討論したり「主体的に」考えさせたりしても既存社会の枠組からの押しつけになりかねない。

指導要領の自分との関係など4つの枠組の設定と指導法での主体的自覚の尊重は、ある意味、徳目主義にならないようにとの配慮でもあるかもしれない。しかしその枠組そのものが道徳的価値とは何かについての吟味と説明抜きに行われているのではないだろうか。これでは、変容しリファインされた徳目主義と言われても仕方ない。

そもそも身の回りを整えることや挨拶をすることなどと、うそをつかない、他人を傷つけてはならないなどの基本的モラルとを同列に子ども達に教えるのには無理がある。教科としての道徳を課題にするならこれは見過ごせない論点だ。あれもこれもとなるともう教科としての道徳とは言えない。

教科化に当たって先日発表された中教審道徳教育部会の報告でも、これらが論議されず、むしろ4つの領域の道徳内容をより詳しく指導要領に盛り込むとされているのは大いに疑問が残る。学校で学ばなければならない道徳的価値とは何かの根本的な問いを避けては真っ当な道徳教育にならないのではなかろうか。

道徳教育の問題性は、押しつけか主体的自覚か、単一価値か多元的価値かなどの対立だけではないように思う。道徳的価値の異なったフェイズをきちんと区別した上で、まずは人類普遍的価値に基本を置くこと、社会的主体形成などは普遍価値からの重層的拡がりとして展開することではないかと思う。

この視点からも、福沢の、私徳と公徳とを区別しまずは私徳を基本にという見解は、学校における徳育の可能性と限界を確認する上でなお有意義だと思う。道徳教育は大事だ。とくにいまとこれからの子どもに。でも社会的枠組からの外挿では、小学校ではやはり押しつけになりかねないし、中学校ではきれい事で終わりかねない。

ポイントを整理してみよう。

①学校における道徳教育(とくに教科としての)の勝負どころは、人類的普遍的道徳的価値(善悪)の教育であり、しつけや生活習慣などは基本は家庭や地域の課題であって、過剰に学校が背負うべきでないこと。

②普遍的善悪のモラルは小学校中学年位までに、適切な事例や古今の言い伝えなどを活用し繰り返し子どもたちに問う必要があること。

③しかし、小学校高学年から中学校はそう簡単でなく、善悪価値が社会でどう活きていくかを念頭に、子どもの社会的自立と一体に、さまざまな価値葛藤などを含めて展開される必要があるだろうこと。

ここで留意されなければならないのは、小学校低学年で挨拶とか生活規律などに過度に固執すると、挨拶は苦手だが善悪の観念はしっかりしているなど(逆もある)の子どもの特性を見過ごしかねないことだ。

また、友達や仲間を大事にとかの価値の過度の強調にも、例えそれが多元的価値を認め合うとかにしても問題がある。いじめなどで異質な他者との関わりを強調するのには意味があるが、多元的社会の生き方と、人としての善悪の観念とはまずは区別さるべきだ。要するに、小学校高学年中学校では社会的自立につながる道徳的価値が基本ではないか。

しかしもちろん、小学校中学年までに大事な普遍的善悪の観念の教育でも、徳目の押しつけは論外で、多様な事例から善悪価値にも多元性・多層性が潜んでいることを押さえておくこと、普遍的モラルをどう伝えるかについて素材を、古今の意義あるもの、価値の尊さを感じ取れるようなものから適切に選ぶ必要がある。

さらに、善悪の観念と社会的主体としての成長との内的なつながりをどう押さえるかが極めて重要だ。学校教育だけから両者を一体的なものとすることはおそらく不可能であろう。人は悪いが能力はあるという状況を完全に道徳的観念だけから否定はできないだろうからだ。善く生きることが生きることの根本であることがいかに普遍的真理であるにしても。

古くて新しい問題だが、人柄が悪いが能力があることと、能力はそう大きくないが人柄がいいこととの相克は、学校教育や道徳教育の枠組だけでは決して解決し得ないことであることはよく見ておいた方がいいと思う。

(了)

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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