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学校の役割・小考

先週、ある小学校を訪ねて、給食の時間に、2年生の子どもらが全員頭に白い三角巾、胸にエプロンを着け整然と食事をしているのを見て驚いた。1年生からやっているとのこと。しかも当番が盛りつけまでやっている。同行した韓国の校長先生はただ驚くばかり。

学校は、学力をつけるとともに「社会性」を養うところ。日本の学校ではこれが徹底的に行われている。かつこうした学校規律如何が学習にもつながっているのは事実だ。学校で規律が日常的に重視されるのは、社会的ルールを教えているだけでなく、集団での学びは規律なしには成り立たないからだ。日本の先生方は、このことを過剰なくらい無意識のうちに感じ取っている。ひょっとすると昔以上にいまの方が強く。こうした「日本の学校事実」をふまえないで、個性とか他人と違っていることの意義を強調するのは議論としてはいいがリアリティを欠きがちだと思う。

ある優れた若い先生が、「学校で行われている「個性尊重」って俳句の決まりの中の自由みたいでちょっと窮屈。そう思っている子供は多いと思う」とツイッターで書いていたが、その通りだ。日本の学校教育のそれこそhiddencurriculumかもしれない。

つくづく思うのは、学校文化と社会文化とは根底でつながっているということだ。学校だけで社会文化を超えて変えろといっても土台無理な話。少しずつ相乗的に変えていく視点が必要でないか。

そもそも、それまでの家庭教育から、学校という社会制度で、家庭から隔離して一定の子ども集団を系統的に学習の場に置くのが近代学校。元からそこには社会性の育成が含まれている。これを認めた上で、さて一人ひとりの個性を学校としてどこまでどう関われるかが問われるのだ。

学力というと、よく先生方は豊かな人間性とか言う。これがどうもambiguousだ。もちろん人に迷惑をかけないとかのモラルを教えることは必要だ。しかし一人ひとりの性格や個性に学校がどこまで関われるか。そこに明確な限界が横たわっていないか。持って生まれたものと社会からの影響の意味は大きい。

にもかかわらず少なくない教師たちが豊かな人間性に拘り、学校の役割の基本を学力に置くことにためらいを持つのは、子どもの側からその可能性を開発することが学力より以上に意義があると感じているからだろう。

たしかに、例えば学校行事で、子どもたちは感性が磨かれ文化の豊穣に触れる。それは人間として望ましいことだ。あるいは音楽の授業の合唱で、歌の技術だけでなくハーモニーのすばらしさや芸術の人間的癒やしなどを感じとり自分の資質として養う。

しかし、考えてみよう。だからといって子どもらはみんなが芸術家になるのでもアスリートになるのでもない。一時教育で言われた、英語のできない子は理科が、学科ができない子はスポーツが、スポーツが苦手な子は芸術ができればいいのだ、という言説は非常にトリッキーな議論だ。おうおうにして、小学校段階ではとくに、運動がダメな子は勉強もダメだ。それに将来のそうした特別な進路は到底学校教育でまかなえるものではない。最近では、サッカーも学校の部活よりは、専門家による地域のクラブに入って将来をめざすケースが多い。

もうひとつ、学校でよく子どもに問いかけられる「将来の夢」。バレーリーナになりたい、野球選手になりたい等々。そうした子どもの夢を大事にすることはいいことだが、それと「社会に出て一人前になること」とは別だ。社会制度としての学校は、この点では、やはり子どもら全員の「社会的自立」こそが目標であり社会から託された責任だ。

学校の役割と目的に、過大に豊かな人間性などを置くべきではないと思う。公教育は、社会に出て一人前に食べて生きていけるように基礎的な学力と社会性を身につけるのが基本だ。このベースがちゃんとあって、そのすそ野の上に個性と人間性が開くのを期待するのではないか。

教師がいくら努力や頑張ることが大事だと諭しても、頑張れない、努力できない子がたくさんいる。そういう子にも、教育のプロとして、ちょっとでも分かって嬉しいところに導くのが教師の本分ではないだろうか。

中に、他人に対して乱暴を働いたり万引きに手を出す子もいる。そういう子どもにいくら人間性を説いてもそれだけでは効果はない。学校ができるのは、学校と社会のルールをきちんと身につけさせ守らせることと、そういう子にも、学んで知識を得ることの喜びと意味を実体験させることだ。そういう子たちも、何かを知って分かればどこかで自分を振り返ることができるかもしれない。

そういう意味で、学校は何よりも「知の共同体」だ。学校は子どもの何から何までを引き受ける必要はない。知の共同体としてのルールを通して社会性を発達させる。その上で個性や性格や人間性は、ルール破りにならない限り尊重し励ます。

要するに、学校と教師の役割は、どんな子に対しても、少しでも分かり知識を得て拡げていくようにすることだ。上位の子にも下位の子にもそれぞれに相応しく。それをどんな状況でもできるのがプロとしての教師の力だ。この基本を忘れてはならないと思う。誰が悪いこれが悪いの話に振り回されないでほしい。
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テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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