スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Tag:スポンサー広告 

革新的な試みーカルガリー大学の教職修士コース(翻訳)

The Master of Teaching Program
  Annette LaGrange, Dean of Faculty of Education, University of Calgary

《平成11年の夏、北海道教育大学岩見沢校が中心になって行った国際教育シンポジュームで、北海道教育大学の姉妹校 であるカナダ・カルガリ大学教育学部のラグランジュ学部長が報告を行ったが、それは、欧米の 教員養成の新しい動向を示すものとして極めて注目に値するものだった。ここにその概要を訳 してみた。》(2000年5月記)

《上記のように古い訳文であるが、欧米の教師教育改革の先駆けをなすもので、そのエッセンスはなおこれからの日本における教師教育に有益と考え掲載することとした。
その後の筆者の教師教育改革論については、村山紀昭『北の教育と人づくりを求めて』柏櫓舎2007年所収「Ⅲ 日本の教師教育への提言」を参照されたい。》(2012年3月記)



1996年に、カルガリ大学教育学部では新しい教師教育プログラムを導入した。これ は、カナダにおける教師教育の中でもユニークであり、伝統的にカナダの大学で使われて きたフォーマットとはまったく異なるものである。Master of Teaching Program として 知られるようになったこのプログラムは、「探求(inquiry)とフィールド」をベースと し、「学習者中心」であるという特徴をもっている。

1 改革の理由

 革新というのはたいていの組織においてたいへん難しいものであり、教育学部の教師た ちにとっても例外ではない。世界中の教師教育プログラムについてその改善の必要が認め られ努力が続けられているが、決定的な革新は不可能ではないが困難だと見なされてい る。カルガリ大学のプログラムを説明したとき、よく、プログラムの内容自体よりこの大変化をどのように実現したのかにより多くの関心が寄せられた。われわれの経験では、プ ログラムを仕上げるさい、特に新しいプランが現状と衝突するときに生ずる諸問題に十分 な配慮を払わなければならないと言える。われわれは徐々に、制度上の構造が革新を抑え たり促進したりする力がどんなものであるかについて理解するようになった。また、系統 だった知識への強い固執が、カリキュラムを再構築するさいにわれわれをがんじがらめに 縛り付けていた。さらに幾人かのスタッフは、彼らの専門分野へのあまりにも強い関わり (commitment) から、学習者主体のプログラムに参与するのは難しいと感じ、改革努力に 抵抗した。これらの困難にもかかわらずわれわれは、過去のプログラムとはっきりと異な る教師養成の方法を開発することに成功したのだ。

 革新が必要だと教員スタッフに考えさせる動機には多様な要因があった。第1に、教授会に教師教育の新しい方向を提案するためのプロジェクトチームがいくつかあった。この 作業は完成することはなかったが、改革のためのベースを形づくった。

 第2に、学部長が新しくなり(Dr. Ian Winchester)、カナダのMcMaster大学での専門教 育に注意を喚起した。ここは、問題解決法的な(problem-based) 専門教育のリーダー的な 大学である。Winchester学部長のビジョンは、カルガリ大学で問題解決法的な教師教育のプ ログラムを作り上げることだった。彼は、問題解決法的なプロセスを何らかの形で考慮に 入れた理想的なプログラムを提言するよう学内の委員会に委託した。予算と制度的な足か せから自由になって、委員会のメンバーは、カルガリ大学の現行の教師養成の実際と根本 的に異なるプログラムを提案した。それらは、理論と実践を統合すること、探求の精神を 強めること、学校と地域とがもっと共同すること、学生が教師としての実践でもっとよく 使えるように知識を習得することなどを含んでいた。

 第3に、カルガリ大学自身、戦略的な大改革の真っ最中で、カリキュラム改定とその代 替プランを積極的に受け入れる用意ができていた。大学は、公的及び私的資金、学生や教 員の獲得、学位授与権をめぐる競争的な環境が強まっていることをはっきりと理解してい たのである。

 第4に、州のレベルで新しい保守政府が財政的な締め付けを強め、われわれのプログラ ムを変えざるを得ないような一連の予算削減を始めていた。また州政府は、50年間で初 めて、教師養成のための協定を大学側と再交渉しようとし、その中で、教育学部の卒業生 と現場のすべての教師に期待される資格・能力に関する新たな枠組を導入しようとしてい た。

 実際的にも教育学的にも教師教育のあり方を再構想すべき時だった。以上のような変化 への種々の刺激要因が、改革推進への動機づけを十分に貯えていたのである。

 そうこうしている中で、委員会のあるグループが、70人の学生と20の学校で行うプ ログラムのプロトタイプを作り出した。パイロット・プログラムというよりはプロトタイ プという形で始まったのは、プログラムが開発される普通のやり方と大事なところで違っ ている。学部による新しいプログラムへの公式的な関与は、学部の教員たちに、新しいプ ログラムへの努力がいずれ廃棄されるのではないかという心配をなくしてくれた。教員た ちはあまりにもしばしば、政府に採用される段になると欠点が目立ち採用されないままで いる パイロットプログラムを目撃してきたのだ。

2 学部とプログラムの構造

 カリキュラムへの 高度の統合的なアプローチと、哲学と方法論の調和の要求は、現在の大学の構造と種々の手続きとに対する挑戦である。学部の構造は、プログラムの目的を維持し高めるために注意深く見直された。学部は、すべての教員がそれぞれに入ることになる2つの部門に再組織された。そのひとつは、教師養成の基礎部門(initial teacher preparation) であり、もうひとつは、卒業研究部門(graduate work) である。大学もまた、新しいコースと学位 をどのように位置付けるかを再検討しなければならなかった。例えば、Master of Teaching Program では単位制は用いられていない。

 このコースでの学習と教育は、6つの首尾一貫したテーマによって組織されている。文章上の評価も点数もない。あるのは学期を通じた学習、学習の自己記録、卒業発表にもとづいてこのコースにパスしたか否かだけである。こうして互いに競い合う形で、学生たちは協同で作業することを受け入れるように動機づけられた。

 教育学部の800名の学生は、100人からなる8つのグループに分けられ、60人の教員が8つのチームの一つに所属する。大学院生、補助教員、非常勤講師が教員チームを補完する。これら教員チームは、チームリーダーのリードのもとに、それぞれ特殊な課題を立てた15人から20人の学生グループと緊密に仕事をする。

3 プログラムの概要

 Master of Teaching Programとして知られるプログラムは、学位をすでに取得した者のための2年間のプログラムである。このプログラムは、幼児・初等教育課程と中等教育課程の二つのコースを持っている。プログラムの特徴は、学習者中心、現場志向、探求主体である。

 Master of Teaching Programのハンドブックにも述べられているように、このプログラムの目的は、学生たちが、専門職である教育者とは何であるかを理解し、その役割に伴なう義務を果たす意欲と能力を身をもって示すことができるようにすることである。これは、未来の教師が次の事柄を理解すべきであるということを意味している。


(1)生徒、その両親、自分の同僚、教師という職業、さらには地域社会に対する教育論的な責任意識。

(2)人々が学んだり学んだことを表現する多様なあり方。

(3)理論と実践とそれらの成果に関する瞹昧さは、実際に探求しよく考え対話することを必要とするという認識。


 これらの理解を通して学生たちは次のようなことが出来るようになっていく。

(1)子どもやカリキュラムや(学校をめぐる)環境から発する 複雑で互いに衝突する要求に適切に対処すること。

(2) 「学びと教えが成り立つ土壌」を創造し維持すること。

(3)互いに協同することも一人で仕事することも、状況に応じてそれぞれふさわしい形で行うこと。

(4)教師としての行動を賢明に決められるように、自分、生徒、カリキュラム、教育環境について適切に評価することができること。

(5)多様な聞き手に対して明瞭にコミュニケーションしうること。

4 プログラムの支柱となるキー・コンセプト

教育の概念

(1) 教えるという能力は、実際的な活動であり、実践つまりは意図的で状況対応的で思慮深い行動である。

(2)教室にあっては情熱と信頼と興味関心こそが最高のものである。つまり学習と教育には主体性が不可欠なのであり、客観的なスキルや知的理解というものは全体の一部分でしかない。

(3)教育は複合的な活動であり、学校外の広範な社会的、文化的、政治的文脈から切り離し得ない。これらの文脈が、教室での教師の活動の枠組を形づくる。


教師教育の概念


(1) 教師教育は、それ自体相互作用的実践である。

(2)理論と実践は相互に滲透しあうものであり、教師教育のプログラムはなによりも理論と実践の統合を含んでいなければならない。

(3)教師はまとまった知識を獲得していなければならないが、大事なことは、学習と教授の中で一つ一つ生かしていくためにそれらの知識を「保持しつづける」ことである。

(4)教師教育における経験と知識は、それを行う場(例えば大学外のフィールドと大学内の学習)や方法論(ケーススタディ、講義、インターネット等)の多様性とバランスを中心に据えたものでなければならない。


 学習者と学習、教師と授業、カリキュラム編成、カリキュラム開発、実践、統合などの概念は、講義、専門セミナー、現場体験、個人研究、ケーススタディによるチュートリアル(個人教授)などを含む系統だったプログラムによって練りあげられなければならない。専門セミナーにおいては、学生は、さまざまな学部教育のバックグランドをもち、幼児・初等教育専攻と中等教育専攻の両者を含む「異集団」として編成される。

 ケーススタディ的な学習がプログラムの中心をなすのであるが、ここでも、幼児・初等教育、中等教育両コースに共通しているが学科毎に異なる研究テーマや教授法上のさまざまなテーマに関して「異集団」を構成することが重要である。ケーススタディにおいては、事例自体は教員によって立てられるが、これを全学生が実行する。学生は,フィールドワークで体験した事例に取り組み、プログラムの終わりに自分で立てた調査プロジェクトを完成させる。

 学生は、プログラムが始まって2、3週間のうちに現場体験を開始し、プログラムの間を通して現場とコンタクトを保つ。フィールドのほとんどは学校であるが、学生は、地域での体験実習にも加わる(図書館、刑務所、野外レクレーションプログラム等)。これらの地域体験実習は、学生に非常に大きな影響を与えている。学生たちは、教育的なアプローチや施設の多様性についてディスカッションし、教育作用が学校よりずっと広い範囲で行われており、生徒や子どもたちが多様な環境で学習しているのだということを理解するようになる。

(初出、北海道教育大学ホームページ「学長室だより」掲載、2000~2006年)
スポンサーサイト
テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:0 

日本の教員養成、いま・これから

いま日本の教員養成で決定的に重要なのは、アカデミックスとプラクティショナーとが手を結ぶことです。互いに無視、蔑視している時ではありません。互いに少し謙虚になれば、学び合うことは無数にあると思います。修士レベル化で、それが少しでも前進すればと痛切に願っています。

よく、「どのような要件を満たせば教員免許をもらえるのか。 教員免許は、自動車の運転免許ほども明確な基準がない」と言われます。これは大きな問題です。戦後ずっと「免許状主義」でやってきました。つまり国公私にかかわらず、大学で一定のコース=教職課程を履修すれば免許が取れるとしてきたのです。

免許状主義は、戦前の師範学校での閉鎖的な教員養成に代わって、広く免許を開放しました。しかしその弊害も近年強くなってきています。免許取得者と実際に採用される人とが数の上で大幅に違ってきているのです。大ざっぱに言って取得者は17万人、採用者は4万人くらい。これは高度成長期の大学増に伴っています。

つまり、多くの新設私大など教員免許を取れることが、学生集めの大事な手段になっているのです。このことと、教職課程の、単位の集合による認定。免許法上の単位の指定はありますが、それによりどういう資質能力が必須であるかは示されていません。

でも法人化前後から国立教員養成大学学部では、教職基準を独自に立てる動きが拡がっています。「教職スタンダード」とか「教職チェックリスト」など。4年間を通した学校現場への関わり、補習などのボランティアも多くの大学で行われています。しかし一般学部では、相変わらず最小の免許法指定科目の取得で済ませています。

そこでようやく出てきたのが、近く始まる平成18年答申の「教職実践演習」です。でもその中身は各大学任せですし、トータルに教職の必須基準をチェックするものになるかどうか疑問も残ります。たった2単位ですし。

要するに、教職課程での単位の寄せ集めによる免許取得というのが、各大学の努力に拘わらず「制度疲労」になっていると言えます。だからといって国家試験化は資質の底上げに必ずしも有効ではありません。一回の試験で資質をよく問えるはずがありません。免許取得のハードルを上げて教職に就く気のない人を排除するのには役立ちますが。開放制も簡単に廃止はできません。さてどうするか?難問です。ここがロドスだ、ここで跳べ、です。

免許状主義を維持しながら質保証をどう徹底できるか。思案のしどころです。いずれ中教審で一定の方向付けが出るでしょう。でも、いくら制度的に質保障を唱えても、実際に教員養成をやるのは個々の大学です。で、大学の教員自身の姿勢、質、教育力が問われます。免許制度と大学教育の内実の双方を問うべきです。

免許単位を増やしたり単位取得を厳しくしたり、欧米に一部ある「専門職基準」を導入したりは簡単です。でも、どういう教師の資質をどのように大学で確実に形成すべきかについての一定の共通理解と、そのための実際の教育内実がなければ、課題は全うされません。丸山真男ではありませんが、「制度をつくる精神」が大事です。

もうひとつ欠かせないのは、大学の養成と採用、研修とを一体的に変えることです。学校や教育委員会は大学の養成に不信、大学は採用後の資質に無関心ではダメです。初任研をいくらやっても、入ってくる若者は大学で年々養成された連中です。蛇口をいくら絞っても、元々の水がちゃんとしていなければ徒労です。

そこで、まずは養成段階で、学校の実際に即した養成教育が徹底されなければなりません。それを学部段階、修士レベル段階それぞれで教師教育論、教師の職能開発論として具体化しなければなりません。この内実なしにいくら修学期間を延長しても成果は期待できないでしょう。その基本的方向は、実践的な教師教育、つまりは学校現場に根ざした教員養成であり、そのエッセンスは、まさに理論と実践、学問と学校現場との「融合」でしょう。この点で、大学における教員養成は、工学や医学、看護学以上に実践的であるべきでしょう。

そのポイントにあるのが、アカデミックスとプラクティショナーとの本気の協働です。教科や教育学に関する専門的知識は高度に必須です。でもそれをアカデミックに教えるだけでは教師のプロフェッショナルとしての力はつきません。そこで、学校現場で十分に経験を積み、学級をどう運営するか、子どもにどう声をかけ接するか、いじめをどう早期に発見するか、発達障害の子を含んだ授業で留意すべき点は何か等々について豊富な「実践知」「経験知」(「暗黙知」も含めて)を持った実践家が大学の養成教育にぜひとも積極的に加わるようにしなければなりません。両者が、それぞれの持ち味を生かし足りないのを補いつつ緊密に協働の教育を行う形で。

例えば、優れた実践家からはすでに、学期はじめにクラスをどうまとめるかについて極めて具体的で有意義な知見が提出されています。これを何らかの形で大学教育でも取り入れなければなりません。かつそこでは、単なる個別のスキルの提示に終わらせず、日本における学級づくりの歴史、外国における種々の知見などとしっかりつなげる必要があるでしょう。

すでに教職大学院では、こういう教育が、研究者と実務家とのティームティーチングとして広く行われています。すべての授業が、ばらばらな教員たちによる「オムニバス」授業でなく、二人ずつの教員で緊密に共同して行われている教職大学院も少なくありません。

さらに、教員養成で重要な学校実習についても、従来のあり方とはずいぶん違ったものが求められてきています。これまで教育実習は、最後に行われる「研究授業」に収斂する面が強かった。実習生は、担任の指導のもと、たいへん緊張してこれに臨みます。それはそれで貴重な経験です。でも、これでは、学校における教師の仕事の一部に触れたにすぎず、かつ、授業を苦労してやった、との実感しか残らない場合が多いのです。ですから、教育実習が終わって、教師にますますなりたい、という学生もいますが、中には、これで自分は本当に教師になれるんだろうか、というまっとうな疑問に駆られる学生も少なくないのです。

確かに現行の4週間ほどの実習ではそう十分なことはできませんが、それだけでなく、学校での実習のあり方を学生自身が自分の実践を振り返り(省察)、それを自らの知識・技能として確かなものにする実習に必ずしもなっていないのです。その基本的責任は大学にあります。つまり、学校現場で実際に学生が苦労しながら体験していることに対して、大学教育の一環として適切に関わるすべが、これまで大学にあまり用意されてこなかったのです。実習期間のうちせいぜい2,3回指導教員が学校を訪ね、短時間実習生と話し合うだけで終わっているケースが少なくないでしょう。

授業の内容に関してもそうですし、子ども理解、学級づくりにかんしてもそうです。例えば算数で子どもが実際の授業でつまづいている点にどう関わりどう指導したらいいのかについて、教科の知識と授業の実際をつなぐ方法ができているでしょうか。学級づくりについて実際の場面に即して実習生が直面した具体的な事項について、これを一定の確かな知見として学生に身につけさせるすべが大学にどこまで用意されているでしょうか。これらがなければ、学生の実習に際して大学教員が、実習体験の学生自身の振り返りを教育的に「看取る」指導が成り立たないのです。ここに、アカデミックスとプラクティショナーとの協働の必須さがあります。

アカデミックスとプラクティショナーは、いままであまりに互いに無関心で、時には対立的でした。それでは、教員養成の必須知識の講義でも学校実習でもいい教育はできません。両者が本気で手を結んで、それぞれの持ち味を発揮して協力し合わなければならないのです。

教師の資質能力の向上のための教育について誰が悪いの議論は不毛です。問題の所在を大きなパースペクティブで透察したいものです。その上で少しでも解決の方向に向けて手を結び合っていかなければなりません。大量退職、採用時代の今それをやらなければ日本の教育は変わりません。その急所が、アカデミックスとプラクティショナーとの協働なのです。
テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:3 

福井大学の学校拠点方式(2)

福井二日目は、朝9時から午後2時までびっちりと「ラウンドテーブル」。

400人が6人ずつテーブルに別れ、無意味な挨拶など抜きに討論に入ります。かつワールドカフェとは違い、予めテーブル毎に3人発表者が決まっており、30分ほど資料に基づいて話をします。それについて1時間話し合いします。

これはいいやり方です。中身がありますから。僕のテーブルの発表者は、中学の教務主任である現職の教職大学院2年目学生、ストレートマスター1年生、数年前に修了した高校家庭科の中堅教師。その他コーディネーターは、県教育センターの指導主事、もう一人は上越の教職大学院の准教授です。

いずれも興味深い発表でした。最初はベテランの教務主任院生。彼は新設の小規模中学の設置準備そのものが大学院での研究テーマでした。福井の学校拠点方式では、現職院生は自分の勤務校で職務をしながら院生としての研究に2年間取り組みます。

興味深かったのは、学校の教育目標を作り上げるプロセス。学校内で週1回行われる研究会のグループで1年かけて徹底討論をします。まずは地域の子どもの実態から始め、小さな地域社会に閉じこもりがちな状況から、「外でも通用できる力」をつけることがホワイトボードを使って導きだされます。

面白いのは福井の先生方はそうしたやり方をファシグラとか流行のタームを一切使わないで普通にやっていることです。

で、作り上げたのは、「社会で通用する人を育てたい」という目標で、それを「社会参画型学力の育成」と定式化します。その際武器にしたのは、最新の中教審のキャリア教育に関する答申です。それは、現職の場合、月一回大学に集まり指導教授のもとで蓄積した学習です。

その目標はすでに実行の段階に入っていますが、問題点を質問したところ、生徒の活動力は上がっているが低学力の問題になかなか食い込めないとのことでした。福井は皆さんが「協働の学び」と言います。しかし基礎の習得と活用をどうつなげるか?、基礎自体の習得は?、というのは大きな課題のようです。

次は、中学の体育教師を目指す若いストレートマスター。彼女は拠点校に週3日フルタイムで通います。学校でTTとして体育の授業に加わったり、毎週の校内研究会にも職員会議にも専任と一緒に参加します。でも自分の研究テーマも持っています。テーマは「自己肯定感を高める教師をめざしてー生徒の行動を見取ることで変わった対応の仕方」。

きっかけは、体育の授業でいつも何人かの生徒が、授業に参加せず体育館の隅で座り込んでいたことだそうです。そういう生徒をちゃんと指導して参加させるにはどうしたらいいか、学部では全く分からず、このままでは教師にすぐなる気になれなかったとのことです。まっとうなモチベーションです。

彼女は、一年間体育の授業もやりつつこの課題のために問題行動のある生徒数人と個別にとことん関わってきました。褒め方叱り方などいろいろ試行錯誤しながら。その際、毎週一日大学に戻ってやる指導教授を交えたカンファレンスが大きな役割を果たしているそうです(あとの一日は教材研究などの研修日)。

午前中はそれぞれが持ち寄ったケースを出し合い討論します。こういうカンファレンスはアメリカでよく見られる方法です。午後は教授が提起する課題とテキストについてゼミ的に学びます。彼女は文科省の最近の「生徒指導提要」を読み込みます。当日のやり方はゼミというより英国のチュートリアルのような感じです。

でも問題ある生徒との具体的な対応策の答えはまだ見つかっていません。ピアスを付けたりその穴を空けた生徒をどう指導するか、ずいぶん考えているようでした。おそらく一年後彼女は、それなりの答えを報告書にきちんとまとめるでしょう。福井では修了時点で、百数十頁に及ぶ報告書を立派な冊子として残します。

午後は、すでに修了した高校家庭科教師です。彼女は東京の私学の家政学部卒業者です。教職大学院に入った動機は、大学で教職課程を経て免許を取り教師になったが、専門は自信があったがあまりにも教職について無知であったので自信を持てなかったからと言います。就職後10年以上たって志願しました。

彼女の発表は具体的な授業の中身で、興味深かったです。簡単に言うと住居の設計図を読み取る授業で、特に引き戸と扉の違いを理解させようというもの。生徒はその違いをほとんど分かっていません。なんでもドアの感覚です。で、いちど興味を惹くためにグループに分けて夢の家ということで自由に絵を書かせます。

しかしその結果はかんばしくありませんでした。テストで、引き戸と扉の違いをかなりの生徒が分かっていなかったのです。特にグループの中で勉強苦手な子は、ほとんどグループの活発な子に任して自分では考えていないことに気づいたのです。それで翌年作戦を変えます。

はじめに両者の違いをきちんと教え、その記号を紙に書かせて練習させたのです。結果は90パーセントできるようになったと言います。これを巡ってのテーブルでの討論は意見が分かれました。やはり生徒の興味や自発性が大事だというのと、両者の違いをとにかく理解させることは十分価値があるというのと。

発表した先生は、生徒がいずれアパートに入るときにも必要だと話していました。でもここは結論を出す場ではありません。テーブルの6人それぞれ問題意識を持って終わったと言えるでしょう。

以上がラウンドテーブルの概要です。

教員の資質能力向上の福井方式について、かなり具体的なイメージを持てました。要するに、徹底して学校での実際に即してやろうということです。かつ、それを院生自身の自らの「振り返り」を通してやる。固く言えば実践の「省察」です。その際グループでの討論が大事です。

これは、アメリカのPDSやショーンの高度専門職に関する反省的実践家の蓄積を一つのベースにしたものです。ただ、そのモノマネでなく、またがんじがらめの押し付け的枠組みでなく、柔軟に伸び伸びと展開している点が注目されます。

ショーンも言うように、医師や弁護士と違って、高度専門職といっても法則性の「応用」が容易に効かないのが教職の難しさです。多様な子どもたちは応用では済みません。また丁稚奉公的な訓練で済むものでもありません。その点で、福井大の学校拠点方式は、高度専門職としての教員の資質能力向上の有望な試みだと言えるのではないでしょうか。

Tag:教育  comment:0 

福井大学の学校拠点方式(1)

福井大主催の教師教育等に関する集会で今日3月3日から三日間福井に来ています。

全国から、大学関係者だけでなく、学校教師、教育行政関係者、大学院生など400人くらい参加。今日は、中教審の修士レベル化の動向の報告のあと、グループに別れて討論。明日は、一日小グループに分けてラウンドテーブルです。

今日の討論で注目されたのは、関西で、教員採用が多いなか教師志望学生の学力がかなり下がってきていて、十分資質を磨かないまま、例えば授業案もまともに作れない状態で教師になっていっているという現状。しばらく続く大量退職、大量採用時代にこれは深刻な問題だと再認識しました。

教師の資質能力で大きなテーマは、教育委員会と養成大学との連携。例えば福井はこれがずいぶん進んでいます。教育委員会の研修も上意下達のようなものでなく大学の協力を得て学校現場を基礎に、世代を混みにしワークショップ型で行うなどどんどん変えていっているとのこと。

更新講習や10年目研修なども大学が協力し、後日の教職大学院入学の際単位として認められるようにしていく予定とのこと。そして県独自にいずれほとんどの教師を修士レベル化していく方向とのこと。これは刮目に値します。

これまで教育委員会や学校は、大学の養成は当てにならんと不信、大学は採用されたら後は教育委員会の問題と、知らんぷり。この辺り福井ではかなりの水準で信頼性と協力の関係ができつつあります。

その中で今回注目したのは、大学側が達成すべき教師の資質能力のスタンダードを検討しこれからじっくり教育委員会とワークショップで詰めていくとの試み。これに関しては、福島大の先例があり、学生の意欲低下の中2年かけて教育委員会と一緒にどんな教師を育てるかを研究しそれに基づいた教育を始めているという。

福井大の教職大学院は「学校拠点方式」といい、現職も学部卒者も一年間、インターンのように学校に所属し、学校の中で毎週一回全教師参加で実際的な研修をおこないます。院生は学校の全ての活動に加わりかつねにその経験を記録し大学の教員に報告します。その中で各自テーマを決め修了時に冊子にまとめます。

その中で特に重視しているのは、週一度大学に戻って数人のグループで長時間、指導教授のもとでやる「カンファレンス」。それぞれ経験を持ち寄り吟味し合います。修了時の冊子は、これらを自ら振り返り自分の達成度を確認する意味を持っています。レクチャーは、夏休みなどに集中して大学で行われます。

このように学校が大学院教育の大事な場になっています。その学校は、教育委員会が県の研究モデル校に指定していて、研修が日常の主要な活動になっていて、すでに教職大学院修了者が何人もいて院生の指導に当たります。修了者をこのように教育委員会がミドルリーダーとしてキャリアパスの中に明確に位置づけています。

そういう位置づけのもと、大学院の授業料も、現職院生が勤務している市町村の教育委員会が一部負担しています。ここまで大学と教育委員会との連携が進んでいるのです。

福井のこのような取組は今後の教師の修士レベル化に大きな示唆を与えてくれています。(続く)

Tag:教育  comment:0 

厳しさの中で問われる教育の目標と教育改革への視点

(1)エルピーダの破綻の中で

エルピーダの破綻、液晶テレビに続いて日本の製造業の危機、どこまで続くのか。これらの産業構造の大転換は、就業構造に繋がり、さらには確実に学校教育の在りように関わってくる。これからはITだなどの言説には与しないが、教育問題を産業構造と繋いで検討しなければ無力なのは間違いないと思う。

教育の目標は、とりあえず子どもたちの社会的自立だ。しかし自立しようにも高校・大学からの出口が混迷を極めている。その中でも生き抜く力をどう育てるか。しかしそれは教育の力だけで全うしない。教育と社会とが緊張関係にありながら、相互に正の相互関係を作っていく視点が必要なのではないだろうか。

学校や教師、そして種々の教育論はともすれば学校世界内部の議論に閉じる傾向がある。これでは、パワーのある政治経済の現実に翻弄されるだけだ。学校世界の外にあるものに目を向け、政治経済の要求を見極めながらそれを乗り越える力をどう教育が持ちうるか。難しい課題だが避けられない。

就活で挨拶の仕方や会話力を問い詰められる学生たちを見るとやりきれない思いがする。下手をすると、調子がよくしゃべりの上手い学生ばかりが目立つだけになる。教育の力ってそんなものだろうか?知識基盤社会はそんな言葉だけの世界ではないだろう。知は力であるの精神をあらためて噛みしめるべきだ。

こんなときだからこそ、知が、教育が社会を作り動かすことへの想像力と構想力を持ちたい。そういう視点から、これまでの教育論を問い直したい。学校世界内部だけであれこれの方法の是非を論ずるのをそろそろもう止めた方がいいように思う。教育の世界ほど言葉だけがきれい事で舞う世界はないのでは。

例えば「自立」という言葉がある。その実質をどれだけ教育関係者は厳しく吟味してきたか。何かかっこよく自分を発揮するような浮いたイメージが溢れていないだろうか。自立は自分勝手に自由に事をなすだけの甘いものではないだろう。福澤流に言えば、社会で一人前に生きていけることだ。社会に益になるように他者への尊敬と寄与をしっかり備えつつ。そのとてつもなく厳しい姿を重く理解し適切に子どもたちに伝えてきただろうか?

ふわふわとして実体のない「自立」観念、しっかりした基盤のない「主体性」の観念を、教育論の中でもう一度じっくりと見直したい。いままでは知識の詰め込み、これからは思考力判断力表現力だという中身の不透明な言辞もよく考えなければならない。

一つ一つの知識の習得と考える力がどう繋がるのか、知識の積み重ね抜きに思考力はそもそも可能なのか?思考力はなぜどのように社会で生きる上で大事なのか。それはどの程度どのように公教育の中で満たされなければならないのか?

(2)公教育の改革

時まさにこのような日本社会の危機の中で、橋下氏の過激発言などで日本の教育改革をめぐる議論が再びホットになってきている。

なかなか変わらない日本の学校教育に関する橋下さんのいらだちも分からないわけではない。しかし、本当に変えようとするなら学習指導要領さらには教基法・学教法の全面改正が必至。そこまでやるパースペクティブをもって議論するのかが問われる。

日本には小中高の教師が100万人いる。巨大な組織だ。これを号令一つで変えることなど到底できない。教育論ほど地に足のついた改革論が必要だ。

そもそも学校教育の改革には、教育目的、目標に関する「国民的なほぼ共通の理解」が必須だ。いまそれはどうだろう。どんどん競争を進め創造的なエリートを作るとか、学校不適応のどんな子にも居場所を保障するように一部ヨーロッパ型のオールタナティブ教育や学校選択制を導入するとかにどれだけ合意があるか。

同時にいつも気になるのは、学校や教師の社会的視野の狭さ。ともすれば、学校という隔離された空間に発想を閉じ込めてしまいがちだ。教師が教育の理想を語ることは大事だが、もう24の瞳の時代ではない。学校世界の「出口」を小学校からもいつも見据える発想がなければ。

教師一般に根っからある信念は、自分たちは子どもたちの成長や夢のために絶対に有意義なことをしているという思いだと思う。それはそれで貴重だ。さすがに一昔前の、「全面発達」や「無限の可能性」とか、勉強がダメならスポーツをなどの議論は影を潜めたが、こうした特有の思いが「学校王国」の中で「検証の意識」を欠くことが問題だ。

というと、教育の成果はすぐ確認されるようなものでないという議論が出る。しかしそういう一面まっとうな議論が、時に自己弁護や無責任につながっていないかが問われている。活動の結果を他者に説明できないようなものはやはり問題ではないか。学校と社会の壁があってないようになっているいまはとくに。

学校や先生方が、直ちに確定的な数値で表されなくても、自分たちの活動の目的や意味、確認されつつある結果について堂々と説明することは、現代社会では必須だと思う。こうした発想を成果主義、競争主義などとイデオロギー的に断罪するだけでは自分たちの権利も守れなくなるのではないだろうか。

義務教育段階での教育の成果、結果を客観化し確認する方法を開発しなければならない。これはおもに教育行政と教育学者の仕事で、従来から評価理論などの研究は盛んだが、社会的な視点がやはり弱い。最近市川伸一さんが「社会の中で生きる学力」という視点を強調し始めているが、まだまだこれからの課題だろう。

日本の教育学者は、実践と結びつくというと、特定の学校を自分の教育方法の実験場としてデータを集めるとかをメインにしている方が多いように感じる。自分の教育方法がここまで拡がったと自認するのを見てもどうもむなしい。現実の教育政策と切り結んだ展開を期待したい。

例えば先日ETVで大々的に報じられた「学び合い」。素晴らしいと思うが、これといまの指導要領の中身、実際の学校の教育体制・指導法などとつなぎ合わせなければ、現場の大多数の教師にとってはあさってのことでしかない。そういう問題意識を持って教育方法の開発を、現代日本社会に厳として存在している日本の公教育全体の改革とつなぎ合わせる方向で取り組んでほしいと願う。

学校として学力をどうやって確実に向上させるか、こういう目標を立ててこうやって学力を向上させた、できる子も勉強苦手の子もこのように精一杯力をつけている、公教育である限り学校間、地域間の「格差」は最小限にするようこうつとめている、いじめや学校不適応になりがちな子にはこのように学校全体で取り組んでいる、学力とともに大事な子どもの社会性の発達のためにこういう取組をやりこんな成果を生んでいる・・・。

これらを、各学校、教育委員会は、はっきりと分かりやすく地域と国民に説明していかなければならない。そうした実際の活動と事実に基づいて、日本の公教育全体の構造と政策をどう変えるかについて、教育行政や教育学者等は課題提起と解決法を提示しなければならない。難事だが、この大道を行かずして日本の公教育と教師への信頼と尊敬は取り戻せないであろう。



テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:0 

プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

最新記事
検索フォーム
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。