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体罰と部活について

1 今こそ体罰根絶と部活過熱是正に向かうべき


1月末明らかになった柔道女子日本代表の告発により、体罰問題は、部活体罰から日本のスポーツ指導全体の問題に拡がった。これは大きな意味を持つと思う。戦後これだけ大きな社会問題になったのは初めてだ。これを機会に徹底してスポーツ指導の鍛錬主義や精神主義を排すべきだと思う。同時に学校部活のあり方が大きな問題だ。
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学校部活のあり方は、教育問題として重要な問題を孕んでいる。体罰だけでなく、部活の過熱だ。時に公教育の目的から外れるほどの。かつそれが教師の過重労働にも繫がっている。新学習指導要領の、指導体制の問題を明確にしないまま部活を学校教育の一環とした位置けそのものにも問題がある。今後、徹底的に国、教育委員会、学校等が望ましい部活のり方を検討すべきと思う。

学校部活については、まず高体連中体連などが体罰根絶を宣言し、体罰を排した指導法を徹底すべきでないか。

次に、学校として、校長を中心に過度の部活過熱を排することを確認する必要がある。保護者との間でも必要だろう。その上で正課と部活との区別を明確にさせ、一部で行われている地域の協力を積極的に仰ぐとか外部指導者への委託もそろそろ本気で検討した方がいい。国や教育委員会はそれらを支援し一定の補助をすべきだ。

教師のあり方としては、間違っても教科やクラスを2義的にし部活に熱中するというのは教師の道を外れていることを自覚すべきだ。時に、教科が苦手で部活熱心という教師もいる。体育教師は、スポーツ指導の目的や方法を再学習再吟味べきだ。大会勝利等を目指すこと自体は悪いことではないが、学校教育の目的を外れてはダメだ。

長年スポーツ指導での体罰や鍛錬主義、学校での部活の過熱は問題と言われながら見過ごされてきた。マスコミも、甲子園児の「純粋さ」などを過度に煽ってきた。これら積年の一種日本特有の病弊にメスを入れる一大チャンスだ。

体罰の是非、学校における教育的指導の難しさ、桜宮への対応に関する意見の違い、スポーツ指導の難しさなどいろいろな論点はあるが、理屈をこね回すときではない。いま世論は体罰根絶に風が吹いている。これを逃すとまた元に戻る。学校も教師もスポーツ関係者も、長年の宿痾を改善する好機ととらえるべきでないか。

学校では(特に中高)、部活熱心な教師と冷静な教師とでよく話し合べきだろう。「あの子は学力はもう一つだが部活で頑張らせよう」などの発想に問題があることも含めて。で、より合理的な部活のあり方を学校として追求、工夫すべきでないか。お金がないとか多忙とか言っているだけでは埒があかない。隗より始めよだ。

大会をめざし熱中し、自分を鍛えたり全力を出すことを学ぶことはいいことだ。でもそうしたスポーツ等で得られる力が、直ちに生徒に必須の知識や技能を学ぶことに「転移」するわけでない。「一人前の大人、社会人に」という学校教育本来の目的に常に立ち返るべきである。それが教育責任を果たすことではないか。


2 体罰と教育的指導

「ただ体罰を禁止すればいいわけでない、実際の学校で教師が生徒指導で力を失ったり指導にためらったりすることになりかねない」、という意見がある。これについてどう考えたらいいだろうか。

体罰は、明確に法律上(学校教育法)で禁じられている。同時に、体罰でない「懲戒的」行為は教育指導上認められており、多くの教師は自分なりの仕方で指導の一環として叱ったり止めたりのノウハウを持っている。学校は一定の秩序とルールなしに学びの場として機能することができず、そのために教師が時にあれこれ厳しい秩序維持やルール遵守を求めるのは当然だ。

日本の教師は、授業中に騒いだり他の生徒に暴力を働いたりするなどに対して、一定の「懲戒的な指導」を含めてかなりの力量を持っている。ただ、いじめでも明らかになったように、犯罪と言えるような行動に関して、「教育的配慮」のもとに学校が必要以上に抱え込み過ぎる傾向がこれまであり、当面このことの是正が喫緊だ。

教師は、現行の体罰に関する文科省通知(平成19年)にあるように、正当防衛を除きどんな時にも体罰などの強圧的指導をしてはならない。同時に、教育的指導のぎりぎりの実行と適切な懲戒的指導にも拘わらず、生徒が極度の触法とみなされる行為を行う場合、学校は抱え込むのでなく、社会的制裁の場に委ねるべきだ。

他方、学校でしばしば必要な厳格な教育的指導と法的に禁止される体罰との間を、より細かく規定すべきだという意見もある。確かに現行通知は分かりづらく、体罰か否かの判断は個々のケースによるとされ曖昧さを残している。その一定の改訂はこの機会に必要だ。ただ、いくらこの規定を詳細にしても、個々の教師や学校にとって、教育的指導と体罰判定との間につねに難しさがあることには変わりはないだろう。だとすると、体罰否定の世論の中で教師は指導の手段を制限され萎縮せざるを得ないのか。そんなことはあるまい。

学校での個々の場面で、荒れる生徒達に対して教師の対応に難しさがあり、理屈通りにいかないことは分かる。ここで言いたいのは、そうした具体的対応の前に、教師の指導の言わば「限界」とも言うべきものを踏まえておくべきではないかということだ。

体罰の多くは、教師と子供との間の「濃密な関わり」の中で行われる。その時の教師側の理屈は、ここで厳しくすることで立ち直りを促す、強い指導で発憤させる、頑張らせることにより「根性」を鍛えるなどだろう。教師の理屈を超えた衝動的な体罰は別として、これらの「理屈」は本当に意味があるのだろうか。ここを真剣に問い直してほしいと思う。

これらの教師の思いと理屈は、生徒との間の人間的信頼がなければまったく無意味であるのは言うまでもない。そしてそうした信頼関係が成り立っているかを判断する根拠は教師側は主観的にしか持ち得ない。

さらに遡って考えれば、そもそも教師は本当に子供達の「人間性」の際どいあれこれについてどこまで指導できるものであろうか。教師の生徒に対する「人間的関わり」は大事だ。しかしそこに「限界」があることをよく見るべきではないかということである。持ち前の才能や性格を超えて、ある生徒を指導で任意にスーパー選手にできるものであろうか。種々の要因から非行に走っていて、乱暴狼藉をものともしない生徒に対して、教師はどこまで彼らの「人間性」に関わることができるだろうか。

「濃密な」関わりに溺れてはならない。任意に子供を「善人」に変えられるとの幻想に拘ってはならないと思う。そうした思いの前に、まずは教師ー生徒、指導者ー選手の関係で何が基本的課題なのかを熟考することが必要である。スポーツ指導では、その種目に関する技術や技能が基本であろうし、秩序を乱す生徒に対しては、まずは学校秩序への最小限のルールを守らせること、その上で学習へどう導くかだろう。

そして本当に生徒や選手の向上を求めるならば、ある焦点的な場面での指導ではなく、日常の教育的指導の有り様と質こそが問われるものであることは容易に見てとれるはずだ。先述のように、一部の突出した強権的「指導」とは別に、日本の教師は、強権に頼らないで日常的に生徒を賢く導いていくノウハウをたくさん持っている。

小学校ではあるが、ある教室を訪ねたとき、それまで大声で騒ぎ回っていた子どもらが、中年の女性教師の、「はい、これから授業ですよ」と一言発しただけでぴたっと騒ぎが収まり静かに授業が始まったのを見て驚愕したことがある。彼女はどういう場面でどうしたら子供を学びの姿勢に揃えられるかをよく知っておりその技術を持っているのである。また荒れた中学校で、生徒指導部で頑張った教師が、どんなに乱暴な生徒にも、保護者を交えて何度も話し合うことで、最小限の学校のルールを守らせた例も聞いている。彼は、一貫して、教師の強権的指導にも生徒の生活に必要以上に入り込んで「信頼」関係をつくることにも反対していた。

こうした日本の質の高い教育的指導を、もっともっと拡げ教師全体学校全体で共有するようにしていく必要があると思う。時に見られる、教師の生徒への乱暴な言葉遣いなども根本的に是正すべきだろう(中高ではよく見られる)。さらに言えば、これらの高いレベルの教育的指導について、学校内できちんと継承されるようにするとともに、教員養成段階で一定程度教育されるべきだろう。

いじめ体罰問題に関して学校と教師にとって大事なことは、あれこれの教師批判へのマイナスの対応でなく、自らの教育的指導の質を不断に高めることだと思う。これだけ大きな社会問題となったいじめや体罰の問題に関して、先生方がひるんだり萎縮したり、分かってくれないとアパシーになったりするのを懼れる。行き届かなかったところは認めて大いに是正するとともに、自らの「教育的指導の質を高める」ことこそが課題なのだという大局観を忘れないでほしい。

教師は子供を教えて育てるプロだ。その教え育てるべき中身の基本は知識であり智恵である。学校は子供の人間性を任意に作ったりできるわけがない。今こそ教師は、子供達を学ぶことを通じて育てるプロだということに自信と確信を持つべきではないか。部活で根性を鍛えるなどは教師の本筋ではない。

同時に保護者や一般社会の人達は、学校と教師に何を求めるのかを見直す賢さが必要だ。多くの誤解は学校や教師にあまりにも多くのものを求め過ぎるところにある。


3 「勉強が苦手な子も部活で頑張らせることができる」という考えについて

よく、こういうことが教師でも保護者でも言われることがある。直ちに間違いとは言えないし、こうした見解は多くは善意から発している。しかし、ここはよく考えてみる必要があると思う。僕自身、中学ではほぼ3年間、卓球部で凄く熱中した。で、中学高校での部活の大事さを否定する気は毛頭ない。

(1)部活について言いたいのは、まず、その部活で子供が何を得るかについてよく見る必要があるということだ。スポーツなどで頑張り力が身につくのはもちろんだが、これは「人間性」や「性格」であって、子供によっていろいろなところでそれぞれに身につけていくのは当然のことだ。しかし、何かスポーツで特別に頑張り力、精神力がつくということをあまり強く考えると(そういう人も間違いなくいる)、かえって子供にプレッシャーになることもある。親としても子供の意欲や頑張り力をどう発揮させるかについて幅広く考えた方がいいと思う。

(2)スポーツで得られるものをきちんと見抜いておくことが大事だ。基本は、精神力でなくそのスポーツの技術や技能であろう。それがどの程度その子に達成できるかは、人によるし、スポーツや芸術の場合、持って生まれた才能というものがかなり大きくかかわる。誰もがオリンピック選手になれるわけではなく、多くは一定の限界があるものだ。僕も中学で卓球をやっていて高校で止めたのは、卓球の実力がこれ以上は自分は無理だなと自覚したからだった。この辺り、親としても教師としてもよく子供を見ておいてやることが必要だ。野球がうまく、高校で私立の野球名門校に行ったが、途中で挫折し荒れて、人生で苦労するというのはざらにあることではないか。

(3)もう一つ、ここが大事で、あまり一般に語られていないが、スポーツでの精神力が、本当に勉強などにうまく「転移」するのかという点だ。実験データなどあるのかどうか知らないが、経験上、これはかなり難しいことだと思う。いくらスポーツで得た気合いがあっても、勉強というのはこつこつと積み重ねが必要だ。とくに学年が上がると、とても精神力だけで学校の勉強についていくことはできない。ここは冷静に見ておく必要がある。勉強には勉強としての頑張りや努力が不可欠なのだ。勉強の頑張り力は基本的に勉強の中でしか得られない。

(4)もう一つ、スポーツ部活に熱中することが、勉強を苦手とする子に勉強を強いたり、学力や学歴を第一とする社会風潮に対するアンチテーゼとして意義があると考える人も少なくない。しかし、これも安易にそう決めつけるのは待ってほしい。学校は勉強を苦手とする子に勉強を「強いる」場ではないし、実際先生方は強いることはできないしやっていない。学力ももって生まれた点があり、先生方はそれをよく知っている。その上で、どの子も少しでも伸びてほしいと思っているのではないか。

この点で、日本の学校教育、特に義務教育が、どんな地域のどんな子に対しても全国共通に一定レベルの教育を、という大原則のもとに行われているのは、国際的に見ても素晴らしい仕組みだと言える(そのことに伴う種々の欠陥があるとしても)。

問題は、どの子も少しでも学力をあげてほしいという思いの中身だ。それが「教育目的」だ。この点では、先生方はかなり考えがまちまちなのが実態だ。ある先生は、本気で受験競争に勝て、と思っている。ある教師は、本気で「みんな仲良く、他人を思いやれる人間になってほしい」と考えてやっている。

しかし、そもそも、学ぶ場としての学校での勉強や学力はどういうものだろうか。人間、誰しもいつまでも子供ではいられないのであって、いずれ社会に出なければならない。つまり「一人前の大人、社会人」にならなければならない。その際、昔の職人や農家の人と違って、今は、どんな職業につくのにも一定の知識やその分野の技能が必須になっている。漁業もいまでは小さな漁船でさえコンピュータが備えられていて、その操作ができないとダメだ。農業でも通信衛星を使った天気予報などかなり高度の情報収集が必要なようだ。スポーツでも、コーチング学とかイメージトレーニングとかバイオメカニクスとかもの凄く高度化している。

要するに、よく言われるように、今は「知識基盤社会」になっていて、これまで以上に社会でどんな仕事をするにも、一定の知識や技能が不可欠であり、とくに義務教育は、そうした国民として備えることが望ましい基礎的な知識・技能をどの子も身につけるためにこそあるということだ。また現代社会が、高度に組織された複雑な構造になっていて、それらに関する一定の知識と技能なしには社会生活を営むことができないということも大事だ。プロ野球選手だって、時にそのモラルや社会規範が厳しく世間から問われることがある時代なのだ。

迂遠だけれど、こうした学校教育の本来の目的について、教師も保護者も社会も、今一度心するべき時ではなかろうか。


4 桜宮高校の生徒、入学希望者の皆さんへ

不幸にも自殺した皆さんの友人は顧問宛の手紙でこう書いています。

「一生懸命やったのに納得いかない。理不尽だ」「毎日のように言われ続け、本当に訳が分からない」「もう僕はこの学校に行きたくない。それが僕の意志です」。

この手紙が意味するもの、苦しみ、理不尽への怒り、人権蹂躙、人間性破壊の重い意味を、まずはしっかり考え抜いて下さい。そこが出発点です。

集団で高め合う喜び、熱中することの意義ーこれらは大事です。でももう一つ、自立すること、個人には侵しがたい尊厳があること、集団と共に互いに個人が自立性を尊重・発揮しなければ社会で生きていけないことはもっと大事なことです。

空気に流されない、自分の利害だけで考えない、友人を大事にする、自分自身で考える、正義が人間の基本・・・日々の授業でこれらのことを習ったことでしょう。いま皆さんの人間としての学びが問われているのです。とことん自分で考え抜いて下さい。

いま皆さんは悔しい、辛い思いで心が揺れ動いていることでしょう。でも社会に出ると、もっときつい場面がたくさんあります。そこでは、集団・仲間を大事にすると共に強い自立心とその力が試されます。そのための学びであることを忘れないで。

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桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

人には死ぬほどつらいことが本当にあるということを
自分にはたいしたことでなくても、ある人には凄く辛いかもしれないということ

思いやってごらん、人は顔がみんな違うように感じ方は違うのだということを。


桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

どんなに仲間や先生が大事でも、やっぱり人は自力で力をつけて生きていかなければならないのだということを
高校生活は、そうやって学んで世の中に出て、一人前の人間になるためのものであるということを。


桜宮高の生徒、入学希望の皆さん、 思いやってごらん、

君たちは大きなものを失ったかもしれないけれど、
新しいものをつくるのはやってみればそうむずかしいことでないということを。



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「習得」と「活用」の連関の論理づけ ー 戸坂潤を想起しつつ

昨日ツイートした「分析的方法」に関連し、ふと大学紛争の頃夢中になって読んだ戸坂順の科学論と科学的精神のことを思い出しました。最近、科学論ってすっかりマイナーになったようですが、ちょっとまずいと思う。科学は科学で偉大で固有の論理を持っている。それをかみ砕いた先駆者、戸坂潤の復権がいま必要な気がします。

戸坂潤といっても50代以下の人達はほとんど知らないかもしれません。1900年生まれで物理学を学んだが、後に在野でファッシズムに果敢に抵抗し、科学的精神を説き、敗戦直前に獄死した哲学者。いま全集本は入手不可能ですが、青空文庫に論文多数掲載されています。

情報化社会からSNSの時代に、言論スタイルがどんどん「劇場化」していっているようです。劇場型言論の核はポピュリズムとレトリック。それはいつの間にか「科学的論理」を置いてきぼりにしてしまう。科学的論理の核は、一言で言うと、A→Bの因果法則でしょう。少し分析と因果的説明の意味を、教育活動に即して見直してみたい。

科学と因果の説明といってもそう難しいことではありません。よく欧米の教育で教師がたえず why? と問うと言われますが、一般的に言えば、これに答える because です。これは教育のあらゆる場面でゆるがせにしてはならない教育活動の核心にあるものだと思います。「知る」、「分かる」、「できる」、「考える」、「伝える」は皆これに関係しています。

「知る」は単に事実を知るのでなく因果の繋がりの事実を知ること、「分かる」はまさに因果関係を理解すること、「できる」は因果関係の理解に基づいてそれを駆使活用できること、それらを通じて「考える」活動が働く。「伝える」もこの因果の繋がりを他者に説明することと言えるかもしれません。

教育活動の核心である「分かる」とは、理解や反復や練習などを通じてこの因果関係を言語的に再現可能な形で脳に貯蔵することと言えるように思います。それを子供達の思考に即してあらゆる方法を用いて工夫するのが、教師の教育活動です。

注意しなければならないのは、このAーBの因果関係は固定的で不変なものではないことです。現代論理学によれば、事象の絶えざる変化を踏まえると、より適切には if A, then Bと言うべきです。ここに、因果関係を変化の中で相対化したり、想像力を駆使した行動の原理が成り立ちます。

whyーbecauseは教育の基本です。それはA→Bを繰り返し習得することなしにはありえません。しかし、それだけでは受動的な単なる知識に終わります。A→Bを想像力を含めて仮説的総体的にとらえるところに活用があります。仮説といってもA→Bから跳び離れたものであってはなりませんが。

要するに、「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ」(学教法31条)にある、習得と活用とを論理的にどう結びつけるか、これをもっともっと論じる必要があるのではないでしょうか。認知学習論には、諸要素を連関づけ構造化する論理=論理学が必要だと思います。

上記習得と活用についての「論理学的説明」は、昔取った杵づかで、論理学の勉強も70年代初め K.Popper 位で終わっていますのでもうすっかりout of date のラフスケッチです。元々ヘーゲルの論理学が好きで(法哲学はどうも苦手だった)、修論(大論理学)後、記号論理学や科学論を少し勉強しました。

ヘーゲルから現代の課題に向かおうとして科学論に首を突っ込み始めた頃(哲学科の博士課程の初期)、かつそろそろ日本の思想もと思っていた頃出会ったのが戸坂潤で、一時もの凄く熱中しました。全集を隅々まで読みました。

日本の思想への興味は、学生時代から丸山真男が大好きで、その影響もありますが、同時に当時の指導教授が国際派で、よく外国人哲学者を招きその付き添いみたいなことをさせられていて、国際交流に目覚め始めていたのがきっかけでしょう。

時まさしく大学紛争の最後の時期(20代後半)。将来への不安とともに、自分の研究を日本の現実に根ざさなければの思いが強烈でした。そんななか戸坂潤は、その軽快で鮮やかな文体もあって、ぱっと新たな世界が開かれた思いがしたものです。

戸坂潤で忘れられない一文が、初期の「科学方法論」冒頭。

「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。」

ここにある「生活」は「民衆の角度」からのもので、通俗唯物論を抜けきった「生活意識」への着目や「世論」や「ジャーナリズム」への注目などまさに目が開かれる思いでした。

丸山が名著「日本の思想」(岩波新書)で言った日本における「思想的基軸の欠如」(我が国古より哲学なし〜兆民〜と同趣旨)は、いまなお重い意味を持っていると思います。そこから戸坂潤→福沢諭吉と辿ってきましたが、未だまとめてこれらを論ずるところに至っていません。内心忸怩たる思いですが、気負わず衒いなくマイペースでやっていくつもりです。

ヘーゲルが言うように何かをするには何かを捨て限定しなければならないわけで、いま関わっている教育政策・教育論を一つの切り口にしながら、とりあえず福沢論を、日本近代のアウフヘーベン(近代と超近代との緊張関係)の視点から纏めてみようと考えています。そのなかで、教育学の本筋、教授〜学習論にも、論理的な視点から何かポジティブな問題提起ができるといいのですが。
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「生きる力」と教育目的・目標の検討方向について

昨年12月13日、文科省内に、「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価にの在り方に関する検討会」(座長安彦他8人の委員)がスタートしました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/095/shiryo/1329013.htm

この検討会は、次期指導要領に向けて、専門家によりその基本方向をじっくり検討することを課題にしていると思われますが、教育の目的・目標という教育政策の基本に関わる点で注目されます。

年明け早々、これに関連して、「生きる力の概念定義」、「検討のありうる方向性」についてツイッター上で連続してコメントしました。そのツイートを一部修文して掲載します。

なお、後段の21世紀型スキルについては、教育評論で長い経験を持ち、的確な見解を述べておられる渡辺敦司さんのブログでの言及に触発されたものです。氏の提起を全て否定するものではなく、いつも有意義に学ばせていただいていることを付言しておきます。
http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d842.html

最後に、定義に関わる思考法について、東京の若く優れた小学校教師、遠藤康弘さんとのやりとりを補論として付け加えました。

以上、いずれもツイッター上でのやりとりで、展開不十分ですが、一つの問題提起としてお読みいただければ幸いです。

<「生きる力」の概念に関して>

>@aristotetsu: 「生きる力」は、たしか、中教審で初めて使われたものでは

1996年(平成8年)の答申かと思います。元々は「新学力観」を踏まえて子供の主体性を強調しようという文脈だったのですが、学力論争後の2003年の指導要領基準化でも生かされ、2009年(平成21年)の新指導要領へ繫がりました。

しかし知徳体全体を包含した「生きる力」はあまりにも幅が広すぎて、学校教育の目的・目標を曖昧にしている面があると思います。学力観との関係など再整理が必要でしょう。

とくに、教育基本法や学校教育法の目的・目標の規定との関連づけが不十分と思います。教基法第1条、5条の、社会で自立して生きる基礎と国民的資質形成、学教法31条の基礎的知識技能と活用などの規定ときちんと関連づけなければならないのではないでしょうか。

文科省の答申ではどうも、それまでとどう違うかなどの概念定義が弱い感がします。きちんと定義しないままあまりにも包括的な「生きる力」が拡がったことが、学校教育現場に一定の混乱をもたらしているのは事実だと思います。答申がどうであれ、現場できちんと議論して使えばいいと言えばそうなんですが。

よく使われる基礎的知識・技能の習得と活用のための思考力・判断力・表現力は、学教法の小学校の目標規定にしか出て来ませんし、両者の関係については何も言っていません。これをそのままにして、「確かな学力」とか「生きる力」などの抽象概念が言葉だけ流通するというのはおかしい。この辺りぜひ新委員会で検討してほしいと思っています。

<教育目標のありうる方向について>

>渡辺敦司さんのブログ記事「「21世紀型スキル」重視に備えを」 に関連して

昨年12月にスタートした教育の目標に関する検討会のありうる方向について、「幼稚園から大学・大学院までをも一貫した資質・能力育成の系統化」はありえますが、「教科の枠を超えた21世紀型スキル」への転換をもっぱら謳うのはいかがなものでしょうか。

新指導要領で引き継いだ「生きる力」の3要素とOECDのキーコンピテンシーとはズレがあります。新指導要領に関する長大な解説(平成20年)もこの点については説得的な解明にはなっていません。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/news/20080117.pdf 

検討会での率直な検討を望みたいところです(但しこの解説は「生きる力」や教育目標について立ち入った検討をしていて、今後の議論の大事な手がかりになることは間違いありません)。

21世紀型スキルを全部否定する訳ではありません。しかし、例えばその根拠になっているPISAのテスト内容をご覧になったことがありますか?。これを一見すると分かると思いますが、求めるものが教育法制・文化風土上あまりにも違います。このズレを無視した議論は困ります。

新指導要領後も文科省の教育理念にブレが残っていると思います。創造性、個性重視か国民共通教育・学力重視かなど。そういう文脈で見ると、「グローバル人材」とか「答のない課題に応える大学教育」とかが急にクローズアップされるのはどうも気になります。

もう一つ、求めるべき教育目標の議論に関して盲点があります。幼小から大学までの教育階梯と繋がりを無視した議論があまりにも多い。その点では、最近中教審等で高校教育や大学教育・入試に比重が置かれてきていることは間違いでありません。これまで教育というと初等教育に余りにも多くを求めすぎてきました。

さらに、本気で21世紀型スキルを言うなら、教育課程の改訂だけでは全然不十分で、オールタナティブの導入も含めた学校制度や明治以来の日本独特の学校文化などの大変化なしにはありえないのではないでしょうか。

そのためには、教基法の目的規定の根本見直しまで必要となります。「人格の完成」(務台理作氏などの強い主張で入れられたと言われています)や「国民の資質形成」規定(教基法第一条)まで遡って。これは、日本の「公教育制度」のトータルな大変革に繫がります。

かつ、そうした根本変化は教育の世界だけで行いうるでしょうか。日本の社会構造や意識がそう大きく変わっていない中で。教育を根本的に変えなければという議論は分からないわけではありませんが、こうした議論には、往々にして、教育が社会組織・構造の一側面でしかないことへの無理解があります。教育のイノベーションは社会のそれと相即的にでなければありえないと思います。

その上で、教育の営みの持続性や緩慢性を盾にとって改革を軽視するのは怠慢です。教育界がともすれば現状維持的になるのに棹さすべきではありません。教育は社会組織の一面だからこそ、社会と共に変化を要するのは当然のことです。これに後ろ向きであってはなりません。

<定義と分析的思考について>

>@microcerasus: 語義がきちんとしている用語は「科学」として生かすことができる。

大事な点ですね。あと研究史を踏まえること。それと「分析的思考」が大事かと。概念の定義と分析的思考は一体ですね。

昔デカルトの方法序説を読んでいて、偉大な新発見をしたと言う方法が分析と総合でしかなかったのを知って拍子抜けしたことを憶えています。

でも、よく考えると分析は確かに科学的思考の基本。漠然としたものを砕いて分けて、一つ一つの「何」を明確にする。明晰判明の基礎です。政治的思考や文書はこれと対極的で、あくまでも総合知がベースです。

もう一つ、概念について、ヘーゲルの、「規定は否定である」も意義深いと思います。何かを明確にするのは「〜でない」によってである。人は「〜だ」という主張を急ぎすぎ。丁寧に「〜でない」を積み重ねることが大事だと。

> @microcerasus: 教育では多くの場合「あれも大事、これも大事」で内容が増えてしまう。

「あれもこれも」も「あれかこれか」も、教育界というか教育論者の宿痾のような気がします。論理が大事ですね。論理の基本はまさにヘーゲルが力説しているように、分析と総合を適切に結びつけて行う、物事の関連づけをふまえた総体的認識でしょう。分析的思考=科学的思考はその基本的ベースです。

ヘーゲルはこうした思考を、「悟性」の原理として、通説に反して非常に重視しました。物事を一つ一つ明確に確固としてつかまえるのはまさに悟性の役割であり、理性もこうした悟性の厳しさに耐えなければならない、と。慧眼です。
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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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