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これからの教師像ーある若手教師の実践に触れて

[ 先週、若い小学校教師の1年間の実践まとめの発表を教育人間塾でたっぷりと聞きました。素晴らしいプレゼンテーションでした。それに触発されて、これからの教師の在り方について断想を書いてみました。あくまでも断想で、表現上必要以上に断定的に書かれているところがあることをお断りします。]

発表は、「学び続けること」をがっちりと教育の目的に据えて、自ら学ぶ力を子ども達の学び合いから生み出し、かつこれを膨大な子ども自身のノートとして「可視化」するもの。形に偏した学び合いや協同学習の限界を乗り越えるものだと思った。

同席していた保護者も、我が子の変貌を驚きをもって語っていた。ベテランの優れた校長、中堅教師、民間の経済人もその迫力に圧倒されたよう。このような力のある教師がいることは日本の教育の希望だ。

思うにこの若い先生の実践の迫力の核心は、個々の教育書や教育界のリーダー、時の教育政策などに流されないで、自ら徹底して考え抜いていることだろう。

よく言われるように、日本の先生方は国際的に見てもかなり高いレベルだと思うが、いつも気になるのはこういう自前の思考力だ。

自らの実践に貫通する思考力、探究力。実践からの本物の省察力。あまりに諸々の政策や教育書の受け売りや右顧左眄が多いのではないか。校長など学校リーダーもそうだ。決まり文句の学校言説に時にやりきれない思いがする。もう少し自分の言葉で自分の教育を語る努力が必要ではないか。

教育報道や時の政策であれこれ迷わず、事実と諸理論、政策を自ら分析し自分の考えを持つことに努めてほしい。そしてそれを自分の実践で検証する。さらにそれを同僚と議論し確かめ共有していく。これからの教師は、確固とした教育観、理念とその実践による検証の姿勢抜きに教師の仕事を全うできないのではないか。

教育観、理念を追求する上で大事なのは、教育言説につきまとうあれかこれか、教え込みか自主性か、一斉指導か協同学習か、集団か個人かなどに囚われないことだ。かつそれら一面を誇張的に主張する流派や学説に流されないことだ。そういう言説にはまず疑いの目で臨んでほしい。発表した教師は、ずいぶん教育書など学んでいるようだが、こうしたあれかこれかの議論に、まったく囚われていないのは素晴らしく、希有なことだ。

もちろん授業法や指導法、その技術スキルは大事だ。学級づくりも保護者との対応も。それらは教師の資質のミニマムだ。しかしそれらを学校世界の枠組の中でだけであれこれの流派に拠って追求しても、これからの教師は行き詰まるように思う。社会の中で学校や教育がどういう意味と役割を持つのか抜きには。今の学校や教育はとてつもなく「社会化」しているのだ。

そのために、自分の生徒や保護者、同僚だけでなく、つねに教育政策や教育理論を広い視野で学ぶ必要がある。特に社会と教育の関係を。

もう一つ、個々の教師にとって学校教育がこれだけ「社会化」している中で、個々の教師の個々のパーツ化された資質向上では事が済まないということだ。学校の一員としてどう力を発揮するかを欠かせない。どんなに優れた教育実践であっても、その先生がいなくなったら消えていくようなことでは本当の成果とは言えまい。

まして一定の授業法や技術、考え方を特定の集団で教義のように固守するなど論外だ。戦後何度もそういう硬直化した研究団体の弊害があった。もうそろそろそういう志向を終わりにしてほしい。教師は特定の指導法や主義主張で群れてはならないと思う。

若い先生方が種々の民間研修講座などに参加することは有意義だ。教育書もどんどん読むべきだ。しかし自分の学校の実際から逃避しないでほしい。勝負の場は自分の学校だ。各種講座や教育書はあくまでも「参考書」にすぎない。学校や教育委員会の研修体制の現状は大問題だが、その中で実践と省察を続けることに努めてほしい。

若い先生方は、まずは自分の学校の実践の中で教師としてのミニマムな力を付ける必要がある。大学で教えて貰わなかったなど言う前に。そもそも学校での実践を離れて学び得ないものなのだ。そしてこのミニマムは、ほとんどの教師にとってそう難しいことではないと思う。子どもへの接し方、話し方、発問、板書の仕方、学級のまとめ方等々。初任の人も、半年くらい無我夢中でやりきると最小限は身につく。

時にあまたの教育実践書が、何か完璧な指導法を唱えているかに読めることがあるが、そうした完璧をなぞるのではミニマムも手に入れられないかもしれない。

個々の教師の日々の実践に完璧はあり得ない。不完全性や未熟、弱点を含みながら成長していく教師の資質の在り方を論ずる必要を痛感する。教師力の<ミニマム>、<+アルファ>、<独創力>などを区別して。

問題はミニマムの先だ。ミニマムから+アルファーをつける。きらりと光る授業とか子どもとの関わり合いなど。さらにそれを、自分なりの授業法、指導法としてどう磨いていくかだ。ミニマム+アルファくらいで留まって自ら学ぶことが少なくなり、ただ日々を忙しく過ごす教師にならないように。そのために何が必要か。

簡単に言って「探究心」だと思う。なぜこの授業で子ども達が乗らなかったのか、子どもが分かるというのはどういうことか、なぜあの子は荒れるのだろう、どうしたら一人ひとりが張り切って学ぶようになるかなど、問いは無数にある。これを問い学び続けること、ここにしか教師の自立と成長はないと思う。そして自らの教育の結果を直視すること。

教育では結果ではなくプロセスこそが大事だとよく言われるが、疑問だ。今の教育で、結果を直視しない「主観的教育観」ではやっていけない。そもそも結果を直視することを通してしか探究心は持続しようがないではないか。結果は自分の心の中にだけ(精一杯やったなど)あるのではない。教育の結果は何十年先にしか言えないなど言う人がいるが、それを気休めにしていては足を掬われる。

今回の若手教師の実践で、理屈抜きに感心するのは、自らの実践の結果に関する「可視化」の手法の徹底だ。子ども達が自ら学び続けるように、教え合い、学び合い、協同学習を徹底するだけでなく、それを「ノート」として毎時間最後の15分かけて「書かせる」のである。1年分、5年生全員のノートの量は膨大なものだ。子ども達はそれを積み重ねながら、自分の学習を自己確認することができる。

おそらく彼の独自の指導法は、そうした可視化の意識のもと、学校内で「開かれた」ものとして成り立っていて一定の評価を得ていたのだと思われる。どんな教育法も指導法も、秘教的、秘術的なものではありえない。

どんなに辛くても、教育の結果と評価をためらってはならないのではないか。しかもありきたりの自己満足的評価ではなく、社会に説明できる形で。

教師歴10年、去年4月に他県から望んで札幌の小学校に来て1年の若い教師の実践に、これからの日本の教育の未来を見た想いだった。
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「インターン制」の報道に関して

4月14日の毎日新聞朝刊で、教員養成制度について、自民党内で、まず「『准免許』を与えて学校に配属、数年の試用期間を経た上で本免許を与える」「インターン制度」案を固めたとの報道がありました。

かつ、筆者も加わっていた、昨年8月民主政権下でまとめられた中教審答申の「修士レベル化」について、「事実上凍結か」とあります。

これに関して、まだ正確な状況は分かりませんが、とりあえず私見を書きます。

今回の案は、昨年末の選挙公約にもすでに出ていた方向で、それが新政権のもと与党の文教政策関係者の中で固まったということのようですが、是非は別にして実際にこの方向で制度・法改正をするのにはかなりの難問があります。

昔何度か出ていた「試補制」に近いものかと思われます。しかし現実化は、財政措置や法制度上そう容易ではありません。(なお「試補制」はドイツで長くやってきている制度です。大学卒業後国家試験を経て、2年間、教育行政機関に置かれた訓練コースでおもに学校実習をした上で正式採用するというもの。しかししばらく前から、試補期間の中身・質が問題になり、修士化の方向に見直しされ始めています。これは民間企業などのOJT見直しと軌を一にするものとも言えます。)

法制度的には、免許法上、「準免許」と「本免許」を、教員の身分、資格、教育課程上の役割、教員組織の中での位置づけを的確に規定することはなかなか難しいところがあります。準免許の間(3年から5年)、現行の1年間の「試用期間」と同じ扱いにするのか、一定今のままでなく権限や責任について限定するのか、膨大な数のすでに任用されている教師をどうするのか、そのまま「本免許」に切り替えるのか、であれば、教員の資質チェックは新採用教員にしか及ばないのではないか、免許法上で「準免許」「本免許」に変えると一気に全国で適用され、実際の運用上教委、学校等で膨大な作業と予算措置が必要になるのではないか、などの難問がすぐ出てきます。

アメリカでは、州によって似た免許制度がありますが、それは上位免許への上進制(研修によりステップアップを義務付ける)として制度化されていて、今回の「準免許」「本免許」とは違います。

これらの詳細は今は措くとしても、問題の核心は、インターン教師を補ったり指導する教師の確保のための膨大な財政措置と実質的な体制なしには、つまりは準免許の間、学校現場で誰がどう資質を上げる指導をするのかの体制なしには、「単なる選別制度」で終わってしまということです。さらに、すでに始まっている大量退職大量採用の状況の中、現行の1年間の試用期間の単なる延長になり、結果的に「選別」も形の上だけということもありえます。

制度化が用意周到に行われなければ、毎年3~4万人採用される教員について、むしろ膨大な徒労と無駄な仕組になりかねません。つまり選別もあるとして大量に3年間雇いながら、実際には予算不足で担任までさせ、結果的には辞めさせたりの「選別」にもならないかもしれない。ざるでしっかり選り分けると大がかりな仕掛けを作りながら、実際に選り分けられたものはざるにかける前とたいして異ならない。それなら、そもそもそこに流す材料を最大限良質なものにしていった方が余程いい、ということになりかねません。

また、今回の「インターン制」では、「期間中、学校長が勤務態度や授業の状況、課題への対処能力を見極め、基準を満たしたと判断すれば、教委から『本免許』が交付され」るとされ、記事は「『教員の質』について、校長・教育委員会が責任を持つ点が特徴」としていますが、資質向上の中身が伴わず、結局教員として継続ということであれば(事実上それが大多数になるでしょう)、やはり大仕掛けなわりにまさに有効性を欠いたざるのようなものと言わざるをえません。個々の校長にとっては、自分なりに鍛え厳しくチェックしたのだから有意義と思われても、全体としてみれば事実上、資質向上だけでなく、当初意図の「選別機能」も発揮され得ないのです。

要するに、教員の適格性を厳格にするといっても、少子化と大量退職・大量採用の時代、特定の段階で選別機能つまりネガティブ機能だけを発揮させようとしても無理なのであって、ポジティブ機能である資質向上策がいずれにせよ不可欠なのです。

さらに言えば、以上の法制度上の問題がある程度クリアーされるとしても、こうした教員の免許状の扱いがそもそも保護者や世論から理解と支持が得られるものでしょうか。大事な公教育で、3年後正規教師になれるかどうか分からない教師に担任されたり教育されたりすることが、納得されうるものでしょうか。

現在も期限付き(多くは1年)フルタイムの新規採用者の大幅増で、同様の危惧が生じているのですが、今度は、新規採用のすべてが似た環境に置かれることになってしまうのです。例えば、教員30人の学校で、その内少なくても5〜6人、場合によっては3分の1の教師が準免許や期限付きフルタイムの教師ということになりかねないのです。実際には準免許制になると期限付きフルタイムとの区別の意味が薄れますから新採用は全部が事実上現在の期限付きフルタイムと同じようなものになるとも言えます。

こうした不安定な身分の教師による教育が制度となって拡がることが、公教育の質の向上と言えるものでしょうか。国際的に見ても、極めて変則的な制度となってしまうでしょう。

ある若手の小学校の先生が、「全体を高めるのではなくて、今を低くして(准免許)スタートさせるというのは志が低い」とツイートしていましたが、まさにそういう志の低さの「危うさ」を感じさせます。


翻って、昨年8月の中教審答申の「修士レベル化」は、諮問当初の「6年制」という民主政権の方向付けもあり、かなり誤解されて報道されました。繰り返しいろいろなところで書きましたが、答申は、単純な6年制や、修士にすれば万事解決というものではまったくありません。

財政状況や教員養成大学、教育委員会、学校現場の現状をふまえ、「段階的に」多様な方法で長期的な見通しで修士レベル化を図ろうとするものです。

かつ、その必要性の前提には、フィンランドなどの直輸入でなく、この20年以上行われてきた法定の初任者研修や10年目研修などにも拘わらず、学校現場だけでの資質能力向上には限界があるというリアルな現状認識があります。もう始まっている大量退職大量採用で、学校現場では教員の年齢構成も大きく変わりつつあり、新任や若手教員を育てる機能が大幅に低下してきているのです。

そういう認識に立って、答申では、すでにいくつか先進例のある「学校拠点方式」、つまり学校に勤務しながら、大学ー教育委員会ー学校が緊密な連携をして若手教員の資質能力を確実に上げる方向が提示されています。

例えば、学校の年間を通した活動の中で、副担任等として日常の教育実践に携わりながら、メンターである先輩教師や大学から通ってくる教員から指導を受け、かつ週1〜2日は研修に専念し、さらに学校での自らの実践を教師の在り方として厳しく振り返り、一定期間の間に自立した教師として独り立ちできるようにする、といったプログラムです。もちろん、こうしたプログラムのバリエーションは多様にありえます。

ここで何よりも大事なのは、若手教師の資質形成が、単に個人の資質としてではなく、学校という組織の中で協働的にシステマティックに行われることです。そしてそのためには、これまでの、「養成は大学、採用・研修は教育委員会・学校」というような断絶した状況を根本から変え、養成・採用・研修を一体的に進める体制を作り上げなければなりません。これが去年の8月の答申の根本精神だと考えます。

前述のように、今回の「インターン制」にはいろいろ難問があり、まだまだその通り実施されるかどうかは不透明です。かつ、国の教育政策として、一回中教審答申になった政策は、簡単に破棄されたり凍結されたりということにはなりません。政策の継続性、系統性をまったく無視することはできません。

また、答申ではっきりと打ち出された「教職大学院の量質の充実」に関しては、修士レベル化と直ちにつながるものではなく、それ自体は、「学校拠点方式=現場重視」という教員養成改革のモデルとして重要な内容を含んだものと言えます。それに、もともと教職大学院は、前安倍政権のもと教育再生会議の提言によって創設されたものです。

今回の報道で、「これで修士レベル化はダメになった」、とか、「教職大学院は法科大学院と同様もう未来はない」などど即断すべきではないと思います。今後の教員養成、採用、研修をトータルに改革する幅広い視点から、関係者の間で丁寧に議論が進められるよう切望します。
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学校の教育目標と教師の力量

[ 教師の専門性、教師の資質能力向上、学校の教育目標について、ツイッターで連続ツイートしたものをまとめて掲載します。あくまでも大まかなデッサン、問題提起でしかないことをおことわりしておきます。]

1 「学校の教育目標」について

以前から、小中校を訪ねる度に不思議に思うことがある。どの学校も「教育目標」があり「すすんで学ぶ子」とか「思いやりのある子」とか掲げられている。同時にどの学校も、膨大な年度ごとの教育計画があり、そこでも本校の重点目標等が詳細に書かれている。さらに校内研究があり、3年単位とかで、いろんな研究主題を持った研究が行われ、時にその成果が公開研究会などで発表される。

不思議というのは、これらがさまざまに「教育目標」と謳われているが、それぞれ視点が違っておりどう繫がっているのかの説明があまりないことだ。各学校のホームページを見るとよく分かる。これはどういうことだろう?一番分かりやすい「すすんで学ぶ子」などは教育目標というより追求する子ども像だろう。

教育目的は教育基本法などで制度的に定められているが、目標はおそらく学教法などに基づいて各学校が定めるものだろう。そして学校がどういう目標に向かって教育を行うかのかを校内外に示すのは、今の時代大事だろう。しかし案外、具体的な目標としては明確ではないのではないか。

当該学校として、知徳体にわたってこういう理念のもとにこういう目標を立てて教育に努めているということが、どのくらい各学校ではっきりと教師の間で共有され外に表明されているか?いろいろ書かれてはいるが、実質は案外希薄なのではないか?時に明らかに不整合だと思われるのもある。

考えられるのは、学校というのは日常の授業、行事、生徒指導などで常時ルーティンの仕事があり、かつ各先生方の教室での授業がコアであって、あらためて学校の教育目標など議論して定める筋合いでもない、という発想があるのかもしれない。それは各先生の指導要領に基づいた教育の中で具現化されている、と。

そうした学校日常の事実は分かるが、それでいいのかとも思う。昔の学校と異なり、学校教育は各教師の教育活動の総体だと済ませられない状況がある。学校は社会制度の中にがっちりと組み込まれている。だとすると、各学校はそれぞれ自ら教育目標の原則と具体的内容を明示しなければならないのではないか。

教師の力量向上のためにいろいろな技術を磨くことは大事だ。新しい授業法を積極的に取り入れることも必要だ。しかし、教室で各教師がそれぞれかなり違った理念と目標で教育を行っているとしたら、学校としてはいかがなものか。ある先生はとにかくまず学力だ、ある先生は勉強より人間性だよ、などと。

今の学校は、個々の先生方が腕を磨くだけでは不十分だと思う。その力が学校として発揮されなければ世間の評価を得られないだろう。かつ、個々の先生の技術は、教育法の多様化の中そう簡単にこれがベストとは言えない状況にある。学校として学びの共同体をやるというのもありうるが、評価が確定していない一定手法の導入はそう簡単でないし要注意だ。

そこで、学校として先生方が共有しなければならないものと、各先生それぞれで発揮されるスキルとを区別することが必要だと思う。共有すべきものの基本は目的を踏まえた教育目標であり、かつそれを達成するために先生方が共通に実行できる種々の指導スキル・指導ツール(ノート指導等)だろう。

未だに学校の研究授業では、板書、発問、机間巡視の仕方など個別的な授業スキルが評価の対象になることが多いが、これは個人的スキルに属する。これらを超えて共通化できる指導法の課題は何かが大事ではないか。それとともに、学校の教育目標の本音での共有化が。

要するに、現代の学校で、社会の中の組織体としての学校自体の役割と、その一員である個々の教師の役割との区別と関連を改めて整理しなければならないのではないかということだ。牧歌的に個々の教師の自由とその平等性を叫ぶのも、企業のような縦系統一本の利益共同体を求めるのも不毛ではないか。

そして、両方の一面化を超えた社会の中の学校のあり方のコアになるのが、教師が共有し学校外に明確に伝えられるべき「学校の教育目標」だ。これは案外、必要とされる学校長のリーダーシップと各教師の力量・意識とのせめぎ合いの中で難しいのだが、これからどうしても乗り越えられなければならない課題なのではないか。

2 教師の未熟性と成長について

ネットで評判になっている東京造形大学長の式辞を読んで、ちょっと考え込んだことがある。式辞のポイントは、大学で学ぶ意味について、「経験という牢屋に閉じこもってはならない」ということだが、関連してツイッターで若い高校の先生の次の発言があった。

「この時期、担任は『いいクラスにしよう』と意気込むもの。 でも教員が目指す「いいクラス」は、いつしか「教員にとって都合のいいクラス」や、『いいように見えるクラス』にすりかわることが多い。 誰にとっていいクラスなのか。簡単なことのようで、常に自問しないと、目的がたやすくすり替わる。」

今の時期、書店の教育書のコーナーに山積みされている教育実践家の本や記録、アドバイスを読んでいて時に感ずる。それらは授業なりクラス運営などが凄く上手に、時に完璧な形で描いているが、だとするとちょっと違うのではないか。

授業や生徒指導ってそんなに隙無く行われなければならないものだろうか。教育で教師の指導性の意義を十分に認めた上でも。素朴な言い方だが、教育は教師の働きのもとでその対象である一人ひとりの子供の学び成長が課題だろう。ここがいつの間にか抜け落ちていないだろうか。

教員養成における技術知、経験知の意義をいつも強調しているが、それは技術知などの「限界」をわきまえた上でのことだと思っている。教育における経験知は人の真似ではなくあくまでも教師一人ひとりで自ら実践と理論の中で見いだすべきものではなかろうか。

教師の未熟性と資質能力向上との間は1/0の世界ではないと思う。むしろ未熟性を抱えながらそれが子供達に教育的意義を持つことは大いにある。クラスはいつも整然として、クラスの全員が生き生きとそれぞれに役割を発揮して活発でなければならないものだろうか。

教師はいつも見事に発問し、子供達をわくわくさせ、クラスを掌握しなければならないものだろうか。若い先生方は先輩や優れた教育書や実践に大いに学んだ方がいい。それは確かだが、未熟と成長は常にプロセスにあることを忘れるべきでない。これを身につければ名人になれるとかの思い込みは不毛だ。

若い教師に手っ取り早い早道はないと思う。教師の力はマジックではないのだ。実践知も基本自分で磨かなければダメだ。そこにプロフェッショナルとしての教師の資質向上の基本的方法である省察(リフレクション)の意味がある。未熟を懼れる必要はない。そこからの成長が大事なのだ。未熟でありながら自ら学びつつ力をつける教師像を考えていきたい。

3 「教えることの専門性」ないし「教師の専門性」について

ツイッターである人がこう書いていた。

「小学校の先生は自分を教育の『専門家』だとは思っていないフシがあるんだよね。小学校こそ『専門家』としての力量が問われるだろうに」、と。

これに関連し、東京の若手の小学校の先生がこう書いた。

「多くの人は『1時間なら』自分の専門性を生かしてプロの教師よりも優れた授業ができることが多いと思います。ただ、それを6年間、3年間できるかというとそうではないはずです。」

別の文脈だけれど、ある評論家が面白い言い方をしていた。

「畳屋に『お前の作る畳は話にならない』と言う人は少ない。畳屋より上手に畳を作れると思っている素人は滅多にいないから。でも、教育には、多くの人が一家言を持っていて、その彼らは、内心、自分がやれば専門家よりうまくやれると思っている。『やってみろよ』と言いたくなりますね。私が教師なら。」

これは端的で分かりやすい話だ。

これらの発言をきっかけに、「教えることの専門性」の意義ということで論じてみた。

実際に、学校という組織体を抜きに継続的に子供を教え導くことはまず不可能。アメリカではホームスクーリングがかなり拡がっていると言われるが、それを鵜呑みにしてはならない。このことをもっと先生方は主張するといい。それが教師の専門性だと思う。しかし一つ問題がある。

「教えることの専門性」は小学校で一番純粋に発揮されるが、中高大に行くに従って「専門を教える専門性」になっていく。中高の先生方の多くは、「専門」というとまずは「教科の専門性」を頭に浮かべるのではないか。

未だに何と教育の専門性を「教科の専門性」とほぼイコールに、あまり自覚しないまま思い込んでいる人が多いことか。教員養成大学学部の教員の間でも牢固とした観念だ。

これを乗り越えない限り、教員養成大学学部はいつまでも限界を指摘され続けるだろう。どう乗り越えるかはそう簡単ではないが。今、国立の教員養成大学学部は、あらためてその「ミッション」が国から厳しく問われている。

これに対して、「教員の専門性と教科の専門性は切っても切れないのではないか」という反論が当然ありうる。

たしかにそれはそうだが、「教えることの専門性」を基本に置き、教科の専門性をそれにきちんと活かすことが大事なのだと思う。

単に職業的に教職の専門性、プロフェショナリズムを問うことは、教育学上でなされているが、もう少し包括的にこれを「教えることの専門性」としてとらえ直す必要があるのではないか。暫定的に次のように整理してみた。

「教えることの専門性」とは何か。深い人間・子供理解をベースにしつつ、実際に教科を中心に子供を適確に指導し確実に成果(学力等)を挙げられること。教科+教育諸科学(教育方法学等)を学問的基礎にしつつ、それが教育技術・わざとして具現化されなければならない。

簡単に言うと、従来の教授学・教育方法学をもっと子供の発達に即した方法として展開し、これを教育の本質である知識の教授=学習の核になる教科内容に即して、一定の教育技術にまで具現化されるものと言えないか。

それは、明確に教科内容自体とは区別される。かつ、かつての教授学のように、技術を抜きに教育方法を理論の範囲内で抽象化したものではなく、あくまでも技術やスキルとして実践の中で具現化されるものである。

これは、上述のように、小学校でもっとも純粋に「教えることの専門性」として観察されうるが、中高、さらには大学でも、教育というアスペクトにおいては、教科内容を超えて固有に成り立つものであり、教師である限りそれを習得することは義務であり、教師の専門職性の基本的な根拠である。

さらに、このような概念付けは、教職の専門性を教科指導の範囲に押しとどめるのでなく、子供理解に即して子供の成長発達をうながし導くという点で、生徒指導や学級指導等にも密接する。

もう少し幅広く、教えることの専門性を教師自身が主張展開し、それを社会が認めるような状況が切に望まれるのではないだろうか。道はそう容易ではないが、まずは教師自身が、教えることの専門家の自負と力量をそなえることが先決であるように思う。
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「3.11から感じた命と平和ー国境を越える新世代」

3月23日に札幌ロータリークラブが主催した上記の集まりに参加しました。東北大震災から2年、ちょうどいい時期に行われ、かつ中身もたいへんいい集まりでした。

特筆すべきは、参加者500人の内、ロータリーの応援で被災地のがれき処理などのボランティアに行った人を含めて、高校生が100人も参加してくれたことでした。かつ、集会の最後の方で、その代表の二人が、堂々と被災地で実際に感じたこと、これから何をすべきかを発言しました。集会のタイトル通り、まさに「国境を越える新世代」のための集まりになったように思います。

第1部は、アメリカ人の若い女性報道写真家アリソン・クウェッセルさんの報告。インド、ミャンマー、アゼルバイジャンなど世界各国で貧困や汚染やポリオの現実を報道してきたアリソンさんが、1年前から福島の新地町に入り、すっかり地元の人と心が通じ、被災地のあまり知られていない実際を広く発信しています。

素晴らしいスピーチでした。恐怖の中におびえて生きているのではといった見方や原発に偏った報道を変えるべき、現地では実際に多くの人たちがいろんな葛藤を持ちながらしっかり生きている、暗い町になってほしくない、亡くなった人への哀悼とともに若い世代の人たちのためにどうするかを求めている、辛くても笑って生きることを大事にしているのだ、など。

そうした現地、新地町の人たちの強さと美しさを(beauty of life)を、アリソンさんは、淡々としかし心を込めて話していました。世界の困難地域を駆け回ってきた方と思えない、素晴らしい gentle lady でした。

第2部は、日米中韓台の5人の若手によるシンポジウム。震災との関わりはそれぞれで違いがありますが、皆さん、3.11をどう感じたか、これからの国境を越えたボランティアについてどう考えるかなどを、背伸びせず普段着の姿勢で話されました。

当日アメリカにいてその後日本に行くと言ったら回りから大変懸念されたという若いアメリカ人女子学生、当時東北大にいて外国人の被災の救援で頑張った韓国人大学院生、札幌にいて帰国せず観光復活のため奮闘している中国の若いビジネスマン、3.11を見てとにかく何かしなければと友達と話して避難児童のケアをする「みちのくキッズ」をつくり活動を続けてきた北海道教育大の女子学生、台湾で世界で最も多い募金を集めるために精力的に活動した元北大留学生。

なるほど、世界各国で3.11と日本や東北がこういうように受け止められていたのかということを、会場の皆さん、興味深く聴いておられました。

2時間足らずのシンポジウムでしたが、会場全体がシーンとなってシンポジストの発言に耳を傾けていたのが大変印象的でした。

5人の発言のあと高校生が発言、さらに、福島から栗山に避難してきている14代も続く福島の若い牧場主の方が、原発について、価値観の違いを超えて冷静に議論ができない状況に対する懸念を真摯に語られ、これまた深い感銘を与えました。

最後に、コーディネーターを務めた僕から、元北海道教育大函館校の留学生で、陸前高田市の小中学校で英語を教えていて、津波にのまれ亡くなったモンティさんが大事にしていた言葉を紹介しました。

「世のために尽くした人の一生ほど美しいものはない。」(緒方洪庵について司馬遼太郎が書いた文章の一部)。

これを受けた僕のむすびの言葉はー

「3・11を忘れず
人種や国境を超えて命の尊さを想い
平和な世界のために
美しく善く生きていこう
声高に、名を求めてでなく
ひとつでも何かできることを」

(言うまでもなく、「美しく善く生きる」は、古代ギリシャ時代からの理想的な人間像です。)

こんなに皆さんが集中し、いろいろな人の話を傾聴し、じっと考えを巡らせていた集会は珍しいのではないかと思います。参加者一人ひとりが何か大事なものを感じ取って散会されたのではないでしょうか。

主催されたロータリークラブ、とくにこの企画の実行委員長を務められた児玉芳明さんに厚く感謝します。


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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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