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教育の目的をめぐってーコラム4題

[日本教育新聞に4回にわたって書いた教育コラムを、社の了解を得て掲載します。]


「社会の目と教育の目」(6月3日)

 もう20数年前のことだが、北海道教育大学で国際交流を担当していて、ロンドン大学の大学院留学生のために、銀行の幹部を講師に招いて日本経済セミナーをした。

 当時イギリスはたそがれのロンドンといわれ停滞の真っ只中、対する日本は、高度成長のピークだった。セミナーの最後に講師が、20年後日本経済はどうなるだろうと問いかけた。

 経済専攻の一人の院生が答えた。「必ず停滞するだろう、なぜなら今のイギリスと同じように、子どもや若者が一生懸命勉強したり働いたりする意欲を失うから」、と。

 予測は当たった。誰が現在の日本経済の停滞と中国、韓国、インドなどの興隆を想像したであろうか。

 今、日本復活のためには教育再生だと、安部総理はじめ多くの人が論じている。グローバル社会を勝ち抜く人材とそのための学校教育を、と。

 教育は、こうした社会の要請にそのまま応ずることはできないし必要もないと思う。

 福沢諭吉も言っている、「政事は活発にして動くもの」であるのに対して、教育の動きは静かであり緩慢である。

 しかし、学校教育が社会の動きから離れて、ただ子供や若者に寄り添ってその成長を促すだけで済むわけでないのも事実だ。

 社会の目と教育の目の複眼が必要だ。確かに、日本経済だけでなく、世界は今大きく構造的変化を模索している。これを軽視した教育論は無力だろう。

 しかしそれは、あれこれの「活発な」政治言説に追随することではあるまい。教育が社会の力にならなければならないとするなら、政治の臨機応変を乗り越え、社会の新しい姿を構想するような透徹した教育の目をこそ磨きたいものである。

 20年後、人々が、少しはましな世の中になったと言えるように、教育がどんな風に役割を果たしていくか・・・。教育に携わる者の課題は重い。


「何のための教育か」(6月10日)

 学校を訪ねたり、世の教育書を手にとっていつも感ずることだが「どのように」が多すぎるのではないだろうか。「どのように」の前に「何のために」がある。

 教育の目的と言えば、教育基本法だが、これを読み解くのはそう簡単ではない。「国家及び社会の形成者」としての「国民の育成」と、「人格の完成」「個人の発達」の2重性がある。それはしばしば対立的に論じられる。個人か社会か、教え込みか子ども自身の学びか、学力か人間性かなど、教育論上の対立の多くはここから出てくると言える。

 先日こんな話を聞いた。小学5年生の女の子が母親と勉強の意味についてやりとりしていて、「ちゃんとした大人になるために勉強しなければ」との母親の話に対して、娘が「担任の先生は、勉強よりもっと大事なことがある、人に優しい人間になることだと言っていた」と反論したというのである。

 「ちゃんとした大人」になること、教育基本法で言えば「社会において自立的に生きる」基礎を培うことは、公教育の基本的な目的であり、学校はそのための資質能力、とくに基礎的な知識や技能を磨く場である。

 確かに現代社会の大きな構造転換の中で、教育と次世代に求められる資質は盛りだくさんになってきている。しかし、押し寄せる資質能力の波に、ブレたり無気力になってはならないと思う。必要な資質を見極める「教育の目」が必要である。その基本は何か?

 私見では、学校が社会に約束すべきものが「知識と技能」であり、かつそれが創造力や社会関係形成力に確実につながることに関する確信ではないか。

 学校は何よりもまず知の伝承と開発の場である。知を通してはじめて創造力や規範意識は拡がりを持つ。そうした確かで延びゆく知を備えた次世代が新しい社会を担っていくのである。そこに教育の希望がある。知に倦んだ教育は教育ではないと思う。


「社会で自立的に生きる厳しさ」(6月17日)

 ある青年の話である。

 高校卒業後、もともと勉強があまり好きでなく、早く働きたいと3次下請けの建築機材を作る小さな工場に勤めた。10年ほど真面目に働いて結婚し子どもも生まれた。

 しかし例のリーマンショックで工場は閉鎖になり解雇された。30代半ばにして初めての人生の危機である。これからの仕事や家族のことを考え、幾晩も眠れない夜を過ごした。ずいぶん迷った末、彼は、とにかく手に職を付けようと、電気工事士の資格を取ることにした。後に語ったことだが、生まれて初めて必死に勉強したという。それも、直流と交流など電気や理科に関する基礎知識である。

 めでたく一発で国家試験に合格し、いま小さな電気工事店で地道に働いている。

 いまどきありふれた話だが、ここには「社会で自立的に生きることの峻厳さ」が如実にある。かつそれを支えるのが、まさしく学校教育での基礎的な知識と技能の習得であることが。

 もちろんこれは、「国家及び社会の形成者」としての「国民の育成」の半面でしかない。もう一方で、変化の激しい社会で、社会を支えるだけでなく発展させる高度の資質が必要である。

 ここでもしかし、あれかこれかではない。むしろこう言うべきではないか。社会で自立的に生きる厳しさを踏まえることなしに高度の資質もありえない、と。

 大人も学校も、子どもたちに対してこの厳しさをしっかり伝えることを避けたり、曖昧にしてはならないと思う。目指す「成熟社会」なるものは、各人が好きなことを好きなようにできる社会ではあるまい。

 こうした厳しさを踏まえた上で、課題は、基礎的な知識や技能を確実に習得させるとともに、これをどう課題解決力や創造的な思考力など高度の資質に発展させるかである。それに対する答はやはり、「教育の目と論理」にしかあり得ないだろう。


「『生きる力』の在り方を問う」(6月24日)

 昨年12月、変化の激しい21世紀の国際社会を生き抜いていくのに必要な資質能力を明確にし、それを踏まえた教育目標や内容を検討するための会議が文科省に設置された。次期学習指導要領改訂に向けた準備でもあり、第一線の教育学者が参加している。

 当然そこでは、OECDのキー・コンピテンシーや21世紀型スキルなどの「新しい能力論」と、新学習指導要領が継承を再確認した「生きる力」があらためて検討素材になっている。学力か人間性か、教え込みか主体的学びか、などのあれかこれかを教育現場の実際に即して乗り越えるまとめになるかどうか注目される。

 一つ率直に問いかけたい。平成8年以来引き継がれてきた、「知徳体のバランスの取れた力」と言われる「生きる力」のコンセプトはそのままでいいのか、と。

 そもそも、基礎的知識技能を活用した思考力等を含む確かな学力と、人間関係形成力や規範意識とはどう関係するのか。基礎的知識技能の習得がどのように「自ら課題を見つけ考える力」になるのか。知識の習得や活用のベースたる学習意欲や「粘り強く課題に取り組む態度」はどう形成されるのか。

 これらを説得的に解明することはそうたやすくはない。しかし、学校現場では、学力向上もいじめ根絶も学習習慣確立も、常に同時に進めなければならないのである。

 「生きる力」はあくまでも広い意味での「知の在り様」として展開されるべきだと思う。自己であれ社会であれ対象世界と知的に関わるところに教育の論理がある。

 福沢諭吉は、文明化を「智徳の進歩」に求めた。「徳は智に依り、智は徳に依り、無智の徳義は無徳に均しき」が彼の確信だった。福沢は言っている。「人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶し出だすべしと思うが如きは、妄想のはなはだしきもの」だ。頂門の一針とすべき一文である。

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テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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