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授業の現場からこれからの教育を考える

札幌市内の中学校の公開授業を見てきた。1学年7〜8学級生徒数800人余り、特別支援学級が4クラスで20数名。道徳、社会、英語、音楽などを見たがいずれもこれ見よがしでなく、普段の授業ぶりが窺える立派な授業だった。取って付けたように公開授業のためのテーマを大袈裟に付けていないのも好ましい。

日本の学校教育について、時に余りにも安易に、教え込みだとか決まった答えの習い覚えだとか言われるが、小中の普通の授業を見て、こうした授業のどこがどのように教え込みと言えるのかと問いたくなる。かなりの時間授業を実際に見た上での発言なのだろうか?

3年社会では、教科書にあるコンビニの経営者になってみようというテーマで、実際に自分たちの地域の地図を見ながらベストの立地を考えさせ発表し合っていた。教え込みというが、最近の教科書をよく見てほしい。この教材もそうだが、教科書には考えさせ討論させる内容のものが随所にある。社会だけでなく、音楽でも道徳でも、教師による課題や教材の提示と共に、当然のようにグループ討論や発表が行われていた。

3年の道徳の授業はなかなか練られたものだった。「噂話のわな」というテーマで、情報が人の間を通る中でどう伝わっていくかの例示と確かめから始め、後半、「誰かが私の悪口を言いふらしているって聞いたけどひどいと思わない?」という友達の会話に対する応答を考え、実際にペアで会話をし発表させる。教師はどういう応答がいいかは言わず、生徒の発言に応じて「こういう意味だね」と念を押す。これはまさに、現行学習指導要領の最大のポイント、実生活につながる言語活動重視の授業の試みともいえる。この教材は、担当教師個人が考えた教材ではなく、研修部が学校全体の教材として練りあげたものだという。

衒いが出てくる中学生の討論に過剰に期待してもダメだ。しかしどの授業でも発言や討論の前後の教師の的確なフォローで、それなりに生徒達は考える場になっていると思った。かつそうした討論に持って行くのには教師の事前の周到な授業設計の準備とその場でのリードが不可欠だ。

道徳の応答でも答えは様々。応答には、「それ確かめたの」とか「本人に言ったら」とか「気にしない気にしない」などいろいろあったが、生徒が言いっ放しでは学習にならない。「それは情報の真偽の問題だね」などと随時教師がリードする。討論学習と雖も教師の導きが不可欠だ。どんな討論授業であっても、大村はまが繰り返し言ったように、教師は教えることに怯んではならないと思う。

作り事のような討論学習や学び合いは好まない。しかし今日の公開授業で、ごく普通に、考えさせ討論させることが行われているのを見て嬉しく思った。もちろん個々の場面で、発問や指示がどうだったかとか生徒とのやりとりをこうすればとかはいくらでも言えよう。授業を見ると、よく、「あそこではこう発問した方がいいのに」とか「あの生徒の発言にどうしてああいう反応をしたのだろう」など注文を付けたくなるものだ。しかしそうした注文を振り回すのは止めた方がいい。日常の授業の有り様としては、そうした個々のスキルの指摘はほとんど無用だと思う。

学校の授業というのはその時一回だけのものでない。365日教師達は同じ生徒と関わり授業を行っているのだ。トータルに見れば、発問はとか指導言はとかはほとんど属人的な事柄であって捨象さるべきものだ。そうしたスキルは、長期にわたる教師と生徒との関わりの中で、その教師固有のあり方として徐々に時間をかけてつくられていくべきものだ。もちろん、だからといってそうした個々の技術やスキルを磨くことを軽視するものではないが。

この学校には有名教師もカリスマ教師もいない。しかし見るところ間違いなく教師達は一定のレベルでまともな授業、精一杯自ら考え発言する力をつける教育をしている。もちろんその前提として、生徒たちの基礎学力の平均以上のレベルがあるし、研修部中心の先生方の地道な研修がある。

今日の公開授業を見て、改めて日本の教師の平均的レベルの高さを実感した。随所に教師の知的閃きを示しつつ手際よく授業を進め、生徒たちを集中させるなどそうどこでも行われているわけでない。そこには頭ごなしの教え込みも子どもを軽視した引き回しもない。授業設計の基本や生徒とのやりとりの実際も、ほぼ一定のレベルで行われていると言える。道徳の授業でも徳目の押し付け的な要素はまったくなかった。道徳の教科化に懸念があることは分かるが、日本の教師をもっと信頼していいのではと思う。道徳だけでなく、どんな教科でも、先生方は教科書の棒読みで良しとなどしていなく、子どもたちとの関わりの中でそれぞれに工夫しているのだから。

その上で、さてこういう学校と教師にこれから何を求めるべきなのだろう。「これからの教育にはこれこれが必要で、そのためには教師の力が足りない」などと、結局は教師バッシングになるような議論は無用だ。しかしこれでいいという訳ではない。

今日の授業でも、この方向でもう少し習熟し徹底していったら生徒たちの発言や討論がもっと本物になるのでは、と思うところはある。例えば、一斉での教師による説明とペアやグループでの討論とのつながりがもう少し工夫されていいと思った。しかしそれは、何か特定の方法を適用すれば良いといったものでもない。この学校では、すでに、学びの共同体や協同学習などの授業法の研修は一定行っているというが、その上でさらに必要なのは、先生方が日々自分で試行錯誤しながら積み重ねていくことだろう。

主体的に考えて答えのない課題解決に当たる力をつけるという目標には意味はある。ではそれを徹底し、教科書やクラス単位の共通的学習を無視し、自ら学び少人数で討論し意見を言い合う授業に徹底すればいいのだろうか?イエナプランのように、生徒一人ひとりの進度や関心に沿って生徒たちの学び合いによって考え発表する力を付けるなど。

オールタナティブ教育を含め、そうした教育のあり方を否定はしない。むしろ日本でも徐々にいろいろな場でその試みがあってしかるべきだろう。しかし、一般の公立学校でそれは本当に可能か?

現行の日本の公教育制度のもとでは不可能であろう。というより、一部の学校や一部の学級で、学習指導要領や教科書、学級制を無視してそうした教育法に徹底すると、多方面で混乱をもたらすだけだと思う。

では、日本の教育がこれから、より考える力や課題解決力を高める方向に向かうために、学校と教師に何が必要か?

私の答えは、迂遠かもしれないが、シンプルだ。授業法や指導法に関する先生方の現場での工夫と努力を尊重し励ますことが基本だということ。

かつ、授業法や指導法を単にスキルや技術とみなして次々と新手法を提起するのでなく、何を教え、子どもたちが何を得、どういう人間になっていくのかという学校教育の根本を、学校現場でたえず教師間で吟味し、共有し合うことが何よりも大事だ。これぞ、教育の基本的目標に関する、教育の専門家としてのリフレクションである。もちろんそのための、種々の研修のあり方の改善や時間的余裕などの条件整備も併せて。

さらに、そうした学校現場での工夫や努力と併行して、そうした先生方の教育への思いがよりよく可能になるような日本の「頑丈な」公教育制度の改革、「柔軟化」が追求されてしかるべきであろう。もともと制度と制度をつくる精神とは一対でなければ。

最近またぞろとみに、「これからの教育は〜でなければ」とか「21世紀型の新能力観」とか ICTによる教育の抜本的転換(反転授業)などの言辞が増えてきている気がする。しかし、戦後の教育論の流れを一瞥しても、どうもそういう流れに素直に頷けない。

今度はアクティブラーニングだ、課題解決だといった言辞はほどほどにした方がいいのではなかろうか。教え込みか主体的学びかなどのあれかこれかは止めた方がいい。教育の目標や方法のブーメランは、徒労でありエネロスだ。こういうときこそ、時の政治に過度に振り回されることなく、教育の王道をしっかりと睨みつつ進むべきではないだろうか。

(2014年11月28日)
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Tag:教育  comment:2 

プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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