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大学入試改革ーとりあえずひと言

中教審の大学入試改革が議論を賑わしているが、とりあえずの感想を。

まずは、中教審答申として一応まとまったが、先の見通しは不透明で、やや及び腰に見える文科省の今後の制度具体化も、かなり難航するだろうと思う。

答申の制度設計には大きな弱点が残っているのは確か。2つの違った試験はどう見ても中途半端だし高校にも高校生にも過重。入試の学力レベルの大きな差を考慮したものだろうが、基礎学力テストが必須にならない状態では、AO入試などでの学力軽視入学の実態は変わらないだろう。そもそも、規制緩和で大学設置の門を開いたままで、国に権限のない入試で大学の低学力化を防ごうというのには無理がある。

もう一つの制度上の問題は、学力評価テスト(ネーミングも長たらしくよくない)を新しい形で意欲的に提案しているが、これとの関係で各大学の個別試験を構想通りに実現するのはどうみても至難であること。そもそも、文科省にも国大協にも各大学の入試について命令する権限はない。

答申まとめの中教審総会で、個別入試で構想通りやらない大学には予算削減など厳しく当たれとの経済界からの発言があったというが、予算誘導には限界がある。とくに難関大学が新テストだけでは選別できないとして難問の入試を続けると、いまの受験体制は大きくは変わらない。予算誘導により、総合的評価、人物評価として部活やボランティア活動などを合否判定の一部で使うことはありうるにしても。

難関大学も新テストの内容を吟味して考えるだろうが、いくら合科型とか記述重視といっても、膨大な答案はコンピューター処理にせざるをえなく、これまでの知識学力によるランク付けは大きくは変わらないし、難関大学が望む高学力、高主体性の受験生の選り分けに有用なものにならないだろう。

基本制度に限って以上の欠陥をふまえれば、合科型、一点刻みの廃止などの答申の個々のの提案を生かしつつ、再度新テストの一本化を検討すべきでないか。制度はシンプルな方がいい。複雑な新テストに膨大な金をかけるのも無駄だし、高校教育に余計な混乱や負担をかける必要はない。

新テストは記述を一定重視した一本のテストにし、その大学での利用については欧米でやられているように、段階評価にし(これは義務付け必要)、複数回実施をやるといいと思う。ただそれにしてもこれにより学力差に基づく大学のランクがなくなるなどありえないだろう。

各大学はその新テストを「足切り」に使い、おおまかな学力確保を維持する。あと、個別入試については、あれこれ言っても強制力も膨大な必要予算措置などできないんだから、大学に任せる。むしろ定員の一部を推薦入試だとかAOなどと細分化し受験生に分かりづらくなっているのを是正することが必要だ。東大などでごく少人数の定員で推薦入試をやってどういう意味があるだろうか。

以前ロンドン大学で入試の様子をつぶさに見たことがある。全国共通テスト(民間実施だったか)によりAとかBとかBプラスとかに区分し、各大学は〜ランク以上を明示する。そのあとが大変。アメリカと違い、ほぼ一年中各大学のプロフェッサーが研究室で面接する。一人に1時間くらいかけて。必要な場合は何度か同じ受験生に面接することもあると言っていた。 

イギリスは教授が少なく、ロンドン大では面接はプロフェッサーだけがやっていた。かつかなり主観的評価だが、入学定員などもイギリスらしくいい加減で、そう公平性にクレームはないようだった。一応面接のチェックシートがあって、それはそれなりに良くできたものだったが。

アメリカは専門の入試担当教員が大量にいて、これも年から年中面接をしているようだ。かつ名門大学では世界各地の同窓会がけっこうな力を持っているという。

こういう個別入試体制は日本で本当に可能なのか。

おそらく無理だろう。だとしたら大学ごとに任せる以外にないのではないか。いまのセンター試験の改善を大胆にやることに集中した方がいいのではないか。

今回の入試改革が、学歴格差や受験競争をなくすために構想されたものとは思わない。英米だって大学格差受験競争は厳然としてある。要するに、グローバル社会でもう少し「主体的に」考えて勝ち抜く高度人材を作りたい、その方向で知識中心の受験目的が主になっている高校教育を変えたいということだろう。これらの構想の周辺には、グローバル時代の「新エリート主義」ともいうべきものがちらほらする。

主導した人達の狙いに賛成するものではないが、受験産業が大手をふるう受験競争の有り様を教育論的に知識優先だけでなく変えようという点では異論はない。むしろ大いに変えるべきだ。とくに高校教育の受験への矮小化の改善は重要課題だと思う。

ささやかな結論は、予算的手立てもないのに大風呂敷を拡げるのでなく、現実的改善になることに集中すべきだということ。そのために新テストを記述重視、段階別評価、複数回実施の方向で現実的に計画すべき。それでもいまのセンター試験の大幅な改善にはなりうる。いまのセンター試験を良しとは多くの人は思っていないだろう。

さらに大学入試改革が、小中高大などの教育改革全体の堅実な推進と併せて行われてはじめて有効性が発揮されるということは当然の前提だ。

蛇足ながら、今回の答申について、偏差値と大学ランキング打破とか人物重視だとかと主体的思考だとかのいわば「ポエティック・フレーズ」にあまり惑わされない方がいいと思う。新聞等のメディアも、知識偏重打破は賛成だが、高校や大学の現場で混乱するようでは困る、ていねいに議論すべきだ、といったありきたりの主張で終わらせていてはオピニオンリーダーとして主体的思考を徹底しているとは言えないと思う。

2014年12月25日
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Tag:教育  comment:0 

「愚かすぎる国民」?

東北大震災で見事に新たなボランティアスタイルを作って注目していた中堅研究者が、選挙動向に関して「愚かすぎる国民」というコメントをしていて驚き悲しく感じました。

「自民党圧勝した場合、日本に住むリスク自体考えはじめないといけなくなります。少なくとも、愚かすぎる国民と愚劣極まる政治に失望し、家族を守るために、リスク分散を本気で考えるようになる人は一気に増えると思います。」

いくらなんでも「愚かすぎる国民」はないでしょう。

ぼくも政治の難しさや歯がゆさをいつも感じていますが、そのとき、戦前言論でファッシズムと戦い終戦直後獄死した哲学者戸坂潤の「民衆の角度」という言葉と文章を思い起こします。

民衆と国民は愚かではないという視角は、社会科学研究者の矜恃でなければならないと若いときから考えてきました。そこを外すと、民衆から離れた単なる評論の世界になってしまう。

「愚かすぎる国民」など言う前に、人々の生活と意識の深部にあるものを冷静につかみ取る知力が必要です。習い覚えた価値感を振り回すのでなく、生活と意識に深部に生じつつある新たな価値意識の芽生えにこそ目を向けそこから何かポジティブなものを導き出す。

安倍内閣の危うさは確かに感じますが、個々のあれこれをあげつらうだけでは無力でしょう。

アベノミクス、集団的自衛権、秘密保護法、急ピッチの教育改革などの具体論の検討と別に、いまとこれからの日本の「政治風土」の行方を黙想しています。

一言でいえば、民主政権の経験後、日本の政治風土が大きく変わったこと、強いイデオロギー的対立構造を持たない「英米型」の政治状況ーそれを一部内包しているドイツやフランスと違ったーになりつつあるのではないか、そのなかで、7,80年代にヨーロッパで興隆した社会民主主義潮流と異なる「新しいリベラル」のあり方を根本から追求する必要があるかもしれない、など。

いずれにせよ日本国民は、そう無知でも愚かでもない、日々の生活のなかから決して譲れない価値、協同して求めるべき価値を作っていくだろうと強く思います。たとえ願望にすぎなくてもその道を歩みたい。

(2014年12月13日)

Tag:教育と人間の希望を求めて  comment:0 

プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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