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厳しさの中で問われる教育の目標と教育改革への視点

(1)エルピーダの破綻の中で

エルピーダの破綻、液晶テレビに続いて日本の製造業の危機、どこまで続くのか。これらの産業構造の大転換は、就業構造に繋がり、さらには確実に学校教育の在りように関わってくる。これからはITだなどの言説には与しないが、教育問題を産業構造と繋いで検討しなければ無力なのは間違いないと思う。

教育の目標は、とりあえず子どもたちの社会的自立だ。しかし自立しようにも高校・大学からの出口が混迷を極めている。その中でも生き抜く力をどう育てるか。しかしそれは教育の力だけで全うしない。教育と社会とが緊張関係にありながら、相互に正の相互関係を作っていく視点が必要なのではないだろうか。

学校や教師、そして種々の教育論はともすれば学校世界内部の議論に閉じる傾向がある。これでは、パワーのある政治経済の現実に翻弄されるだけだ。学校世界の外にあるものに目を向け、政治経済の要求を見極めながらそれを乗り越える力をどう教育が持ちうるか。難しい課題だが避けられない。

就活で挨拶の仕方や会話力を問い詰められる学生たちを見るとやりきれない思いがする。下手をすると、調子がよくしゃべりの上手い学生ばかりが目立つだけになる。教育の力ってそんなものだろうか?知識基盤社会はそんな言葉だけの世界ではないだろう。知は力であるの精神をあらためて噛みしめるべきだ。

こんなときだからこそ、知が、教育が社会を作り動かすことへの想像力と構想力を持ちたい。そういう視点から、これまでの教育論を問い直したい。学校世界内部だけであれこれの方法の是非を論ずるのをそろそろもう止めた方がいいように思う。教育の世界ほど言葉だけがきれい事で舞う世界はないのでは。

例えば「自立」という言葉がある。その実質をどれだけ教育関係者は厳しく吟味してきたか。何かかっこよく自分を発揮するような浮いたイメージが溢れていないだろうか。自立は自分勝手に自由に事をなすだけの甘いものではないだろう。福澤流に言えば、社会で一人前に生きていけることだ。社会に益になるように他者への尊敬と寄与をしっかり備えつつ。そのとてつもなく厳しい姿を重く理解し適切に子どもたちに伝えてきただろうか?

ふわふわとして実体のない「自立」観念、しっかりした基盤のない「主体性」の観念を、教育論の中でもう一度じっくりと見直したい。いままでは知識の詰め込み、これからは思考力判断力表現力だという中身の不透明な言辞もよく考えなければならない。

一つ一つの知識の習得と考える力がどう繋がるのか、知識の積み重ね抜きに思考力はそもそも可能なのか?思考力はなぜどのように社会で生きる上で大事なのか。それはどの程度どのように公教育の中で満たされなければならないのか?

(2)公教育の改革

時まさにこのような日本社会の危機の中で、橋下氏の過激発言などで日本の教育改革をめぐる議論が再びホットになってきている。

なかなか変わらない日本の学校教育に関する橋下さんのいらだちも分からないわけではない。しかし、本当に変えようとするなら学習指導要領さらには教基法・学教法の全面改正が必至。そこまでやるパースペクティブをもって議論するのかが問われる。

日本には小中高の教師が100万人いる。巨大な組織だ。これを号令一つで変えることなど到底できない。教育論ほど地に足のついた改革論が必要だ。

そもそも学校教育の改革には、教育目的、目標に関する「国民的なほぼ共通の理解」が必須だ。いまそれはどうだろう。どんどん競争を進め創造的なエリートを作るとか、学校不適応のどんな子にも居場所を保障するように一部ヨーロッパ型のオールタナティブ教育や学校選択制を導入するとかにどれだけ合意があるか。

同時にいつも気になるのは、学校や教師の社会的視野の狭さ。ともすれば、学校という隔離された空間に発想を閉じ込めてしまいがちだ。教師が教育の理想を語ることは大事だが、もう24の瞳の時代ではない。学校世界の「出口」を小学校からもいつも見据える発想がなければ。

教師一般に根っからある信念は、自分たちは子どもたちの成長や夢のために絶対に有意義なことをしているという思いだと思う。それはそれで貴重だ。さすがに一昔前の、「全面発達」や「無限の可能性」とか、勉強がダメならスポーツをなどの議論は影を潜めたが、こうした特有の思いが「学校王国」の中で「検証の意識」を欠くことが問題だ。

というと、教育の成果はすぐ確認されるようなものでないという議論が出る。しかしそういう一面まっとうな議論が、時に自己弁護や無責任につながっていないかが問われている。活動の結果を他者に説明できないようなものはやはり問題ではないか。学校と社会の壁があってないようになっているいまはとくに。

学校や先生方が、直ちに確定的な数値で表されなくても、自分たちの活動の目的や意味、確認されつつある結果について堂々と説明することは、現代社会では必須だと思う。こうした発想を成果主義、競争主義などとイデオロギー的に断罪するだけでは自分たちの権利も守れなくなるのではないだろうか。

義務教育段階での教育の成果、結果を客観化し確認する方法を開発しなければならない。これはおもに教育行政と教育学者の仕事で、従来から評価理論などの研究は盛んだが、社会的な視点がやはり弱い。最近市川伸一さんが「社会の中で生きる学力」という視点を強調し始めているが、まだまだこれからの課題だろう。

日本の教育学者は、実践と結びつくというと、特定の学校を自分の教育方法の実験場としてデータを集めるとかをメインにしている方が多いように感じる。自分の教育方法がここまで拡がったと自認するのを見てもどうもむなしい。現実の教育政策と切り結んだ展開を期待したい。

例えば先日ETVで大々的に報じられた「学び合い」。素晴らしいと思うが、これといまの指導要領の中身、実際の学校の教育体制・指導法などとつなぎ合わせなければ、現場の大多数の教師にとってはあさってのことでしかない。そういう問題意識を持って教育方法の開発を、現代日本社会に厳として存在している日本の公教育全体の改革とつなぎ合わせる方向で取り組んでほしいと願う。

学校として学力をどうやって確実に向上させるか、こういう目標を立ててこうやって学力を向上させた、できる子も勉強苦手の子もこのように精一杯力をつけている、公教育である限り学校間、地域間の「格差」は最小限にするようこうつとめている、いじめや学校不適応になりがちな子にはこのように学校全体で取り組んでいる、学力とともに大事な子どもの社会性の発達のためにこういう取組をやりこんな成果を生んでいる・・・。

これらを、各学校、教育委員会は、はっきりと分かりやすく地域と国民に説明していかなければならない。そうした実際の活動と事実に基づいて、日本の公教育全体の構造と政策をどう変えるかについて、教育行政や教育学者等は課題提起と解決法を提示しなければならない。難事だが、この大道を行かずして日本の公教育と教師への信頼と尊敬は取り戻せないであろう。



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テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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