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「生きる力」と教育目的・目標の検討方向について

昨年12月13日、文科省内に、「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価にの在り方に関する検討会」(座長安彦他8人の委員)がスタートしました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/095/shiryo/1329013.htm

この検討会は、次期指導要領に向けて、専門家によりその基本方向をじっくり検討することを課題にしていると思われますが、教育の目的・目標という教育政策の基本に関わる点で注目されます。

年明け早々、これに関連して、「生きる力の概念定義」、「検討のありうる方向性」についてツイッター上で連続してコメントしました。そのツイートを一部修文して掲載します。

なお、後段の21世紀型スキルについては、教育評論で長い経験を持ち、的確な見解を述べておられる渡辺敦司さんのブログでの言及に触発されたものです。氏の提起を全て否定するものではなく、いつも有意義に学ばせていただいていることを付言しておきます。
http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-d842.html

最後に、定義に関わる思考法について、東京の若く優れた小学校教師、遠藤康弘さんとのやりとりを補論として付け加えました。

以上、いずれもツイッター上でのやりとりで、展開不十分ですが、一つの問題提起としてお読みいただければ幸いです。

<「生きる力」の概念に関して>

>@aristotetsu: 「生きる力」は、たしか、中教審で初めて使われたものでは

1996年(平成8年)の答申かと思います。元々は「新学力観」を踏まえて子供の主体性を強調しようという文脈だったのですが、学力論争後の2003年の指導要領基準化でも生かされ、2009年(平成21年)の新指導要領へ繫がりました。

しかし知徳体全体を包含した「生きる力」はあまりにも幅が広すぎて、学校教育の目的・目標を曖昧にしている面があると思います。学力観との関係など再整理が必要でしょう。

とくに、教育基本法や学校教育法の目的・目標の規定との関連づけが不十分と思います。教基法第1条、5条の、社会で自立して生きる基礎と国民的資質形成、学教法31条の基礎的知識技能と活用などの規定ときちんと関連づけなければならないのではないでしょうか。

文科省の答申ではどうも、それまでとどう違うかなどの概念定義が弱い感がします。きちんと定義しないままあまりにも包括的な「生きる力」が拡がったことが、学校教育現場に一定の混乱をもたらしているのは事実だと思います。答申がどうであれ、現場できちんと議論して使えばいいと言えばそうなんですが。

よく使われる基礎的知識・技能の習得と活用のための思考力・判断力・表現力は、学教法の小学校の目標規定にしか出て来ませんし、両者の関係については何も言っていません。これをそのままにして、「確かな学力」とか「生きる力」などの抽象概念が言葉だけ流通するというのはおかしい。この辺りぜひ新委員会で検討してほしいと思っています。

<教育目標のありうる方向について>

>渡辺敦司さんのブログ記事「「21世紀型スキル」重視に備えを」 に関連して

昨年12月にスタートした教育の目標に関する検討会のありうる方向について、「幼稚園から大学・大学院までをも一貫した資質・能力育成の系統化」はありえますが、「教科の枠を超えた21世紀型スキル」への転換をもっぱら謳うのはいかがなものでしょうか。

新指導要領で引き継いだ「生きる力」の3要素とOECDのキーコンピテンシーとはズレがあります。新指導要領に関する長大な解説(平成20年)もこの点については説得的な解明にはなっていません。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/news/20080117.pdf 

検討会での率直な検討を望みたいところです(但しこの解説は「生きる力」や教育目標について立ち入った検討をしていて、今後の議論の大事な手がかりになることは間違いありません)。

21世紀型スキルを全部否定する訳ではありません。しかし、例えばその根拠になっているPISAのテスト内容をご覧になったことがありますか?。これを一見すると分かると思いますが、求めるものが教育法制・文化風土上あまりにも違います。このズレを無視した議論は困ります。

新指導要領後も文科省の教育理念にブレが残っていると思います。創造性、個性重視か国民共通教育・学力重視かなど。そういう文脈で見ると、「グローバル人材」とか「答のない課題に応える大学教育」とかが急にクローズアップされるのはどうも気になります。

もう一つ、求めるべき教育目標の議論に関して盲点があります。幼小から大学までの教育階梯と繋がりを無視した議論があまりにも多い。その点では、最近中教審等で高校教育や大学教育・入試に比重が置かれてきていることは間違いでありません。これまで教育というと初等教育に余りにも多くを求めすぎてきました。

さらに、本気で21世紀型スキルを言うなら、教育課程の改訂だけでは全然不十分で、オールタナティブの導入も含めた学校制度や明治以来の日本独特の学校文化などの大変化なしにはありえないのではないでしょうか。

そのためには、教基法の目的規定の根本見直しまで必要となります。「人格の完成」(務台理作氏などの強い主張で入れられたと言われています)や「国民の資質形成」規定(教基法第一条)まで遡って。これは、日本の「公教育制度」のトータルな大変革に繫がります。

かつ、そうした根本変化は教育の世界だけで行いうるでしょうか。日本の社会構造や意識がそう大きく変わっていない中で。教育を根本的に変えなければという議論は分からないわけではありませんが、こうした議論には、往々にして、教育が社会組織・構造の一側面でしかないことへの無理解があります。教育のイノベーションは社会のそれと相即的にでなければありえないと思います。

その上で、教育の営みの持続性や緩慢性を盾にとって改革を軽視するのは怠慢です。教育界がともすれば現状維持的になるのに棹さすべきではありません。教育は社会組織の一面だからこそ、社会と共に変化を要するのは当然のことです。これに後ろ向きであってはなりません。

<定義と分析的思考について>

>@microcerasus: 語義がきちんとしている用語は「科学」として生かすことができる。

大事な点ですね。あと研究史を踏まえること。それと「分析的思考」が大事かと。概念の定義と分析的思考は一体ですね。

昔デカルトの方法序説を読んでいて、偉大な新発見をしたと言う方法が分析と総合でしかなかったのを知って拍子抜けしたことを憶えています。

でも、よく考えると分析は確かに科学的思考の基本。漠然としたものを砕いて分けて、一つ一つの「何」を明確にする。明晰判明の基礎です。政治的思考や文書はこれと対極的で、あくまでも総合知がベースです。

もう一つ、概念について、ヘーゲルの、「規定は否定である」も意義深いと思います。何かを明確にするのは「〜でない」によってである。人は「〜だ」という主張を急ぎすぎ。丁寧に「〜でない」を積み重ねることが大事だと。

> @microcerasus: 教育では多くの場合「あれも大事、これも大事」で内容が増えてしまう。

「あれもこれも」も「あれかこれか」も、教育界というか教育論者の宿痾のような気がします。論理が大事ですね。論理の基本はまさにヘーゲルが力説しているように、分析と総合を適切に結びつけて行う、物事の関連づけをふまえた総体的認識でしょう。分析的思考=科学的思考はその基本的ベースです。

ヘーゲルはこうした思考を、「悟性」の原理として、通説に反して非常に重視しました。物事を一つ一つ明確に確固としてつかまえるのはまさに悟性の役割であり、理性もこうした悟性の厳しさに耐えなければならない、と。慧眼です。
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テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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