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「習得」と「活用」の連関の論理づけ ー 戸坂潤を想起しつつ

昨日ツイートした「分析的方法」に関連し、ふと大学紛争の頃夢中になって読んだ戸坂順の科学論と科学的精神のことを思い出しました。最近、科学論ってすっかりマイナーになったようですが、ちょっとまずいと思う。科学は科学で偉大で固有の論理を持っている。それをかみ砕いた先駆者、戸坂潤の復権がいま必要な気がします。

戸坂潤といっても50代以下の人達はほとんど知らないかもしれません。1900年生まれで物理学を学んだが、後に在野でファッシズムに果敢に抵抗し、科学的精神を説き、敗戦直前に獄死した哲学者。いま全集本は入手不可能ですが、青空文庫に論文多数掲載されています。

情報化社会からSNSの時代に、言論スタイルがどんどん「劇場化」していっているようです。劇場型言論の核はポピュリズムとレトリック。それはいつの間にか「科学的論理」を置いてきぼりにしてしまう。科学的論理の核は、一言で言うと、A→Bの因果法則でしょう。少し分析と因果的説明の意味を、教育活動に即して見直してみたい。

科学と因果の説明といってもそう難しいことではありません。よく欧米の教育で教師がたえず why? と問うと言われますが、一般的に言えば、これに答える because です。これは教育のあらゆる場面でゆるがせにしてはならない教育活動の核心にあるものだと思います。「知る」、「分かる」、「できる」、「考える」、「伝える」は皆これに関係しています。

「知る」は単に事実を知るのでなく因果の繋がりの事実を知ること、「分かる」はまさに因果関係を理解すること、「できる」は因果関係の理解に基づいてそれを駆使活用できること、それらを通じて「考える」活動が働く。「伝える」もこの因果の繋がりを他者に説明することと言えるかもしれません。

教育活動の核心である「分かる」とは、理解や反復や練習などを通じてこの因果関係を言語的に再現可能な形で脳に貯蔵することと言えるように思います。それを子供達の思考に即してあらゆる方法を用いて工夫するのが、教師の教育活動です。

注意しなければならないのは、このAーBの因果関係は固定的で不変なものではないことです。現代論理学によれば、事象の絶えざる変化を踏まえると、より適切には if A, then Bと言うべきです。ここに、因果関係を変化の中で相対化したり、想像力を駆使した行動の原理が成り立ちます。

whyーbecauseは教育の基本です。それはA→Bを繰り返し習得することなしにはありえません。しかし、それだけでは受動的な単なる知識に終わります。A→Bを想像力を含めて仮説的総体的にとらえるところに活用があります。仮説といってもA→Bから跳び離れたものであってはなりませんが。

要するに、「基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ」(学教法31条)にある、習得と活用とを論理的にどう結びつけるか、これをもっともっと論じる必要があるのではないでしょうか。認知学習論には、諸要素を連関づけ構造化する論理=論理学が必要だと思います。

上記習得と活用についての「論理学的説明」は、昔取った杵づかで、論理学の勉強も70年代初め K.Popper 位で終わっていますのでもうすっかりout of date のラフスケッチです。元々ヘーゲルの論理学が好きで(法哲学はどうも苦手だった)、修論(大論理学)後、記号論理学や科学論を少し勉強しました。

ヘーゲルから現代の課題に向かおうとして科学論に首を突っ込み始めた頃(哲学科の博士課程の初期)、かつそろそろ日本の思想もと思っていた頃出会ったのが戸坂潤で、一時もの凄く熱中しました。全集を隅々まで読みました。

日本の思想への興味は、学生時代から丸山真男が大好きで、その影響もありますが、同時に当時の指導教授が国際派で、よく外国人哲学者を招きその付き添いみたいなことをさせられていて、国際交流に目覚め始めていたのがきっかけでしょう。

時まさしく大学紛争の最後の時期(20代後半)。将来への不安とともに、自分の研究を日本の現実に根ざさなければの思いが強烈でした。そんななか戸坂潤は、その軽快で鮮やかな文体もあって、ぱっと新たな世界が開かれた思いがしたものです。

戸坂潤で忘れられない一文が、初期の「科学方法論」冒頭。

「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである。」

ここにある「生活」は「民衆の角度」からのもので、通俗唯物論を抜けきった「生活意識」への着目や「世論」や「ジャーナリズム」への注目などまさに目が開かれる思いでした。

丸山が名著「日本の思想」(岩波新書)で言った日本における「思想的基軸の欠如」(我が国古より哲学なし〜兆民〜と同趣旨)は、いまなお重い意味を持っていると思います。そこから戸坂潤→福沢諭吉と辿ってきましたが、未だまとめてこれらを論ずるところに至っていません。内心忸怩たる思いですが、気負わず衒いなくマイペースでやっていくつもりです。

ヘーゲルが言うように何かをするには何かを捨て限定しなければならないわけで、いま関わっている教育政策・教育論を一つの切り口にしながら、とりあえず福沢論を、日本近代のアウフヘーベン(近代と超近代との緊張関係)の視点から纏めてみようと考えています。そのなかで、教育学の本筋、教授〜学習論にも、論理的な視点から何かポジティブな問題提起ができるといいのですが。
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テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育と人間の希望を求めて  comment:0 

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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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