スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Tag:スポンサー広告 

学校の教育目標と教師の力量

[ 教師の専門性、教師の資質能力向上、学校の教育目標について、ツイッターで連続ツイートしたものをまとめて掲載します。あくまでも大まかなデッサン、問題提起でしかないことをおことわりしておきます。]

1 「学校の教育目標」について

以前から、小中校を訪ねる度に不思議に思うことがある。どの学校も「教育目標」があり「すすんで学ぶ子」とか「思いやりのある子」とか掲げられている。同時にどの学校も、膨大な年度ごとの教育計画があり、そこでも本校の重点目標等が詳細に書かれている。さらに校内研究があり、3年単位とかで、いろんな研究主題を持った研究が行われ、時にその成果が公開研究会などで発表される。

不思議というのは、これらがさまざまに「教育目標」と謳われているが、それぞれ視点が違っておりどう繫がっているのかの説明があまりないことだ。各学校のホームページを見るとよく分かる。これはどういうことだろう?一番分かりやすい「すすんで学ぶ子」などは教育目標というより追求する子ども像だろう。

教育目的は教育基本法などで制度的に定められているが、目標はおそらく学教法などに基づいて各学校が定めるものだろう。そして学校がどういう目標に向かって教育を行うかのかを校内外に示すのは、今の時代大事だろう。しかし案外、具体的な目標としては明確ではないのではないか。

当該学校として、知徳体にわたってこういう理念のもとにこういう目標を立てて教育に努めているということが、どのくらい各学校ではっきりと教師の間で共有され外に表明されているか?いろいろ書かれてはいるが、実質は案外希薄なのではないか?時に明らかに不整合だと思われるのもある。

考えられるのは、学校というのは日常の授業、行事、生徒指導などで常時ルーティンの仕事があり、かつ各先生方の教室での授業がコアであって、あらためて学校の教育目標など議論して定める筋合いでもない、という発想があるのかもしれない。それは各先生の指導要領に基づいた教育の中で具現化されている、と。

そうした学校日常の事実は分かるが、それでいいのかとも思う。昔の学校と異なり、学校教育は各教師の教育活動の総体だと済ませられない状況がある。学校は社会制度の中にがっちりと組み込まれている。だとすると、各学校はそれぞれ自ら教育目標の原則と具体的内容を明示しなければならないのではないか。

教師の力量向上のためにいろいろな技術を磨くことは大事だ。新しい授業法を積極的に取り入れることも必要だ。しかし、教室で各教師がそれぞれかなり違った理念と目標で教育を行っているとしたら、学校としてはいかがなものか。ある先生はとにかくまず学力だ、ある先生は勉強より人間性だよ、などと。

今の学校は、個々の先生方が腕を磨くだけでは不十分だと思う。その力が学校として発揮されなければ世間の評価を得られないだろう。かつ、個々の先生の技術は、教育法の多様化の中そう簡単にこれがベストとは言えない状況にある。学校として学びの共同体をやるというのもありうるが、評価が確定していない一定手法の導入はそう簡単でないし要注意だ。

そこで、学校として先生方が共有しなければならないものと、各先生それぞれで発揮されるスキルとを区別することが必要だと思う。共有すべきものの基本は目的を踏まえた教育目標であり、かつそれを達成するために先生方が共通に実行できる種々の指導スキル・指導ツール(ノート指導等)だろう。

未だに学校の研究授業では、板書、発問、机間巡視の仕方など個別的な授業スキルが評価の対象になることが多いが、これは個人的スキルに属する。これらを超えて共通化できる指導法の課題は何かが大事ではないか。それとともに、学校の教育目標の本音での共有化が。

要するに、現代の学校で、社会の中の組織体としての学校自体の役割と、その一員である個々の教師の役割との区別と関連を改めて整理しなければならないのではないかということだ。牧歌的に個々の教師の自由とその平等性を叫ぶのも、企業のような縦系統一本の利益共同体を求めるのも不毛ではないか。

そして、両方の一面化を超えた社会の中の学校のあり方のコアになるのが、教師が共有し学校外に明確に伝えられるべき「学校の教育目標」だ。これは案外、必要とされる学校長のリーダーシップと各教師の力量・意識とのせめぎ合いの中で難しいのだが、これからどうしても乗り越えられなければならない課題なのではないか。

2 教師の未熟性と成長について

ネットで評判になっている東京造形大学長の式辞を読んで、ちょっと考え込んだことがある。式辞のポイントは、大学で学ぶ意味について、「経験という牢屋に閉じこもってはならない」ということだが、関連してツイッターで若い高校の先生の次の発言があった。

「この時期、担任は『いいクラスにしよう』と意気込むもの。 でも教員が目指す「いいクラス」は、いつしか「教員にとって都合のいいクラス」や、『いいように見えるクラス』にすりかわることが多い。 誰にとっていいクラスなのか。簡単なことのようで、常に自問しないと、目的がたやすくすり替わる。」

今の時期、書店の教育書のコーナーに山積みされている教育実践家の本や記録、アドバイスを読んでいて時に感ずる。それらは授業なりクラス運営などが凄く上手に、時に完璧な形で描いているが、だとするとちょっと違うのではないか。

授業や生徒指導ってそんなに隙無く行われなければならないものだろうか。教育で教師の指導性の意義を十分に認めた上でも。素朴な言い方だが、教育は教師の働きのもとでその対象である一人ひとりの子供の学び成長が課題だろう。ここがいつの間にか抜け落ちていないだろうか。

教員養成における技術知、経験知の意義をいつも強調しているが、それは技術知などの「限界」をわきまえた上でのことだと思っている。教育における経験知は人の真似ではなくあくまでも教師一人ひとりで自ら実践と理論の中で見いだすべきものではなかろうか。

教師の未熟性と資質能力向上との間は1/0の世界ではないと思う。むしろ未熟性を抱えながらそれが子供達に教育的意義を持つことは大いにある。クラスはいつも整然として、クラスの全員が生き生きとそれぞれに役割を発揮して活発でなければならないものだろうか。

教師はいつも見事に発問し、子供達をわくわくさせ、クラスを掌握しなければならないものだろうか。若い先生方は先輩や優れた教育書や実践に大いに学んだ方がいい。それは確かだが、未熟と成長は常にプロセスにあることを忘れるべきでない。これを身につければ名人になれるとかの思い込みは不毛だ。

若い教師に手っ取り早い早道はないと思う。教師の力はマジックではないのだ。実践知も基本自分で磨かなければダメだ。そこにプロフェッショナルとしての教師の資質向上の基本的方法である省察(リフレクション)の意味がある。未熟を懼れる必要はない。そこからの成長が大事なのだ。未熟でありながら自ら学びつつ力をつける教師像を考えていきたい。

3 「教えることの専門性」ないし「教師の専門性」について

ツイッターである人がこう書いていた。

「小学校の先生は自分を教育の『専門家』だとは思っていないフシがあるんだよね。小学校こそ『専門家』としての力量が問われるだろうに」、と。

これに関連し、東京の若手の小学校の先生がこう書いた。

「多くの人は『1時間なら』自分の専門性を生かしてプロの教師よりも優れた授業ができることが多いと思います。ただ、それを6年間、3年間できるかというとそうではないはずです。」

別の文脈だけれど、ある評論家が面白い言い方をしていた。

「畳屋に『お前の作る畳は話にならない』と言う人は少ない。畳屋より上手に畳を作れると思っている素人は滅多にいないから。でも、教育には、多くの人が一家言を持っていて、その彼らは、内心、自分がやれば専門家よりうまくやれると思っている。『やってみろよ』と言いたくなりますね。私が教師なら。」

これは端的で分かりやすい話だ。

これらの発言をきっかけに、「教えることの専門性」の意義ということで論じてみた。

実際に、学校という組織体を抜きに継続的に子供を教え導くことはまず不可能。アメリカではホームスクーリングがかなり拡がっていると言われるが、それを鵜呑みにしてはならない。このことをもっと先生方は主張するといい。それが教師の専門性だと思う。しかし一つ問題がある。

「教えることの専門性」は小学校で一番純粋に発揮されるが、中高大に行くに従って「専門を教える専門性」になっていく。中高の先生方の多くは、「専門」というとまずは「教科の専門性」を頭に浮かべるのではないか。

未だに何と教育の専門性を「教科の専門性」とほぼイコールに、あまり自覚しないまま思い込んでいる人が多いことか。教員養成大学学部の教員の間でも牢固とした観念だ。

これを乗り越えない限り、教員養成大学学部はいつまでも限界を指摘され続けるだろう。どう乗り越えるかはそう簡単ではないが。今、国立の教員養成大学学部は、あらためてその「ミッション」が国から厳しく問われている。

これに対して、「教員の専門性と教科の専門性は切っても切れないのではないか」という反論が当然ありうる。

たしかにそれはそうだが、「教えることの専門性」を基本に置き、教科の専門性をそれにきちんと活かすことが大事なのだと思う。

単に職業的に教職の専門性、プロフェショナリズムを問うことは、教育学上でなされているが、もう少し包括的にこれを「教えることの専門性」としてとらえ直す必要があるのではないか。暫定的に次のように整理してみた。

「教えることの専門性」とは何か。深い人間・子供理解をベースにしつつ、実際に教科を中心に子供を適確に指導し確実に成果(学力等)を挙げられること。教科+教育諸科学(教育方法学等)を学問的基礎にしつつ、それが教育技術・わざとして具現化されなければならない。

簡単に言うと、従来の教授学・教育方法学をもっと子供の発達に即した方法として展開し、これを教育の本質である知識の教授=学習の核になる教科内容に即して、一定の教育技術にまで具現化されるものと言えないか。

それは、明確に教科内容自体とは区別される。かつ、かつての教授学のように、技術を抜きに教育方法を理論の範囲内で抽象化したものではなく、あくまでも技術やスキルとして実践の中で具現化されるものである。

これは、上述のように、小学校でもっとも純粋に「教えることの専門性」として観察されうるが、中高、さらには大学でも、教育というアスペクトにおいては、教科内容を超えて固有に成り立つものであり、教師である限りそれを習得することは義務であり、教師の専門職性の基本的な根拠である。

さらに、このような概念付けは、教職の専門性を教科指導の範囲に押しとどめるのでなく、子供理解に即して子供の成長発達をうながし導くという点で、生徒指導や学級指導等にも密接する。

もう少し幅広く、教えることの専門性を教師自身が主張展開し、それを社会が認めるような状況が切に望まれるのではないだろうか。道はそう容易ではないが、まずは教師自身が、教えることの専門家の自負と力量をそなえることが先決であるように思う。
関連記事
テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:0 

Comment

comment form
(編集・削除用):
管理者にだけ表示を許可
プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

最新記事
検索フォーム
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。