スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Tag:スポンサー広告 

これからの教師像ーある若手教師の実践に触れて

[ 先週、若い小学校教師の1年間の実践まとめの発表を教育人間塾でたっぷりと聞きました。素晴らしいプレゼンテーションでした。それに触発されて、これからの教師の在り方について断想を書いてみました。あくまでも断想で、表現上必要以上に断定的に書かれているところがあることをお断りします。]

発表は、「学び続けること」をがっちりと教育の目的に据えて、自ら学ぶ力を子ども達の学び合いから生み出し、かつこれを膨大な子ども自身のノートとして「可視化」するもの。形に偏した学び合いや協同学習の限界を乗り越えるものだと思った。

同席していた保護者も、我が子の変貌を驚きをもって語っていた。ベテランの優れた校長、中堅教師、民間の経済人もその迫力に圧倒されたよう。このような力のある教師がいることは日本の教育の希望だ。

思うにこの若い先生の実践の迫力の核心は、個々の教育書や教育界のリーダー、時の教育政策などに流されないで、自ら徹底して考え抜いていることだろう。

よく言われるように、日本の先生方は国際的に見てもかなり高いレベルだと思うが、いつも気になるのはこういう自前の思考力だ。

自らの実践に貫通する思考力、探究力。実践からの本物の省察力。あまりに諸々の政策や教育書の受け売りや右顧左眄が多いのではないか。校長など学校リーダーもそうだ。決まり文句の学校言説に時にやりきれない思いがする。もう少し自分の言葉で自分の教育を語る努力が必要ではないか。

教育報道や時の政策であれこれ迷わず、事実と諸理論、政策を自ら分析し自分の考えを持つことに努めてほしい。そしてそれを自分の実践で検証する。さらにそれを同僚と議論し確かめ共有していく。これからの教師は、確固とした教育観、理念とその実践による検証の姿勢抜きに教師の仕事を全うできないのではないか。

教育観、理念を追求する上で大事なのは、教育言説につきまとうあれかこれか、教え込みか自主性か、一斉指導か協同学習か、集団か個人かなどに囚われないことだ。かつそれら一面を誇張的に主張する流派や学説に流されないことだ。そういう言説にはまず疑いの目で臨んでほしい。発表した教師は、ずいぶん教育書など学んでいるようだが、こうしたあれかこれかの議論に、まったく囚われていないのは素晴らしく、希有なことだ。

もちろん授業法や指導法、その技術スキルは大事だ。学級づくりも保護者との対応も。それらは教師の資質のミニマムだ。しかしそれらを学校世界の枠組の中でだけであれこれの流派に拠って追求しても、これからの教師は行き詰まるように思う。社会の中で学校や教育がどういう意味と役割を持つのか抜きには。今の学校や教育はとてつもなく「社会化」しているのだ。

そのために、自分の生徒や保護者、同僚だけでなく、つねに教育政策や教育理論を広い視野で学ぶ必要がある。特に社会と教育の関係を。

もう一つ、個々の教師にとって学校教育がこれだけ「社会化」している中で、個々の教師の個々のパーツ化された資質向上では事が済まないということだ。学校の一員としてどう力を発揮するかを欠かせない。どんなに優れた教育実践であっても、その先生がいなくなったら消えていくようなことでは本当の成果とは言えまい。

まして一定の授業法や技術、考え方を特定の集団で教義のように固守するなど論外だ。戦後何度もそういう硬直化した研究団体の弊害があった。もうそろそろそういう志向を終わりにしてほしい。教師は特定の指導法や主義主張で群れてはならないと思う。

若い先生方が種々の民間研修講座などに参加することは有意義だ。教育書もどんどん読むべきだ。しかし自分の学校の実際から逃避しないでほしい。勝負の場は自分の学校だ。各種講座や教育書はあくまでも「参考書」にすぎない。学校や教育委員会の研修体制の現状は大問題だが、その中で実践と省察を続けることに努めてほしい。

若い先生方は、まずは自分の学校の実践の中で教師としてのミニマムな力を付ける必要がある。大学で教えて貰わなかったなど言う前に。そもそも学校での実践を離れて学び得ないものなのだ。そしてこのミニマムは、ほとんどの教師にとってそう難しいことではないと思う。子どもへの接し方、話し方、発問、板書の仕方、学級のまとめ方等々。初任の人も、半年くらい無我夢中でやりきると最小限は身につく。

時にあまたの教育実践書が、何か完璧な指導法を唱えているかに読めることがあるが、そうした完璧をなぞるのではミニマムも手に入れられないかもしれない。

個々の教師の日々の実践に完璧はあり得ない。不完全性や未熟、弱点を含みながら成長していく教師の資質の在り方を論ずる必要を痛感する。教師力の<ミニマム>、<+アルファ>、<独創力>などを区別して。

問題はミニマムの先だ。ミニマムから+アルファーをつける。きらりと光る授業とか子どもとの関わり合いなど。さらにそれを、自分なりの授業法、指導法としてどう磨いていくかだ。ミニマム+アルファくらいで留まって自ら学ぶことが少なくなり、ただ日々を忙しく過ごす教師にならないように。そのために何が必要か。

簡単に言って「探究心」だと思う。なぜこの授業で子ども達が乗らなかったのか、子どもが分かるというのはどういうことか、なぜあの子は荒れるのだろう、どうしたら一人ひとりが張り切って学ぶようになるかなど、問いは無数にある。これを問い学び続けること、ここにしか教師の自立と成長はないと思う。そして自らの教育の結果を直視すること。

教育では結果ではなくプロセスこそが大事だとよく言われるが、疑問だ。今の教育で、結果を直視しない「主観的教育観」ではやっていけない。そもそも結果を直視することを通してしか探究心は持続しようがないではないか。結果は自分の心の中にだけ(精一杯やったなど)あるのではない。教育の結果は何十年先にしか言えないなど言う人がいるが、それを気休めにしていては足を掬われる。

今回の若手教師の実践で、理屈抜きに感心するのは、自らの実践の結果に関する「可視化」の手法の徹底だ。子ども達が自ら学び続けるように、教え合い、学び合い、協同学習を徹底するだけでなく、それを「ノート」として毎時間最後の15分かけて「書かせる」のである。1年分、5年生全員のノートの量は膨大なものだ。子ども達はそれを積み重ねながら、自分の学習を自己確認することができる。

おそらく彼の独自の指導法は、そうした可視化の意識のもと、学校内で「開かれた」ものとして成り立っていて一定の評価を得ていたのだと思われる。どんな教育法も指導法も、秘教的、秘術的なものではありえない。

どんなに辛くても、教育の結果と評価をためらってはならないのではないか。しかもありきたりの自己満足的評価ではなく、社会に説明できる形で。

教師歴10年、去年4月に他県から望んで札幌の小学校に来て1年の若い教師の実践に、これからの日本の教育の未来を見た想いだった。
関連記事
テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:0 

Comment

comment form
(編集・削除用):
管理者にだけ表示を許可
プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

最新記事
検索フォーム
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。