スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Tag:スポンサー広告 

若手教師の成長をめぐる断想

[ 今日一日、道教委の研修会に行ってきました。1時間ほどプレゼンもしましたが、昨夜それを作りながら、とくに若手教師の成長のあり方について、いろいろ考えをめぐらしました。プレゼンの周辺で考えたことを、まったく不十分で未展開ながらツイッターで思うがままに書いてみました。一部修文して掲載します。]

「今日、教育委員会の研修会で話したのだが、小中校を訪ねてかねがね不思議に思ったことがある。学校の教育目標として、「主体的に学び考える子」などの子ども像があれば、年度ごとの校長の「学校経営方針」、さらに「研究主題」などがあり、それらが整合性がとられないままになっていることが多い。

また、毎年作られる膨大な「教育計画」。その多くは指導要領などの切り貼りだ。しかし作成する労力は大変なもの。実際の教室での授業にはたいして反映されない。こうした学校の教育目標や教育計画を、もう少し整理しかつ簡潔なものにすべきでないか。こういう点を自発的に改善することなしに多忙を言うだけでは世間の理解が得られないだろう。会議などのあり方も徹底的に見直し簡潔化すべきだ。

ある学校では、職員会議はほとんどなしで、毎日の学校運営は校長教頭教務主任などで常時検討し、直ちに関係教員に伝えるようにしていて、それで生み出した時間を校内研修に当てているという。一朝一夕でできることではないが、望ましい学校運営あり方の一つである。

教育委員会の研修会で提起したもう一つ。教師個々の教師力と、学校組織の一員としての教師力がしばしば区別されないまま使われていること。発問、板書、説明、指導言などの具体的なあり様は、ほぼ個人の資質で「属人性」が強いことに留意すべきだ。いま大事なのは、そういうものだけでなく、チームの一員として学び合いながら形成していく教師力ではないか。

新任教師など、力不足の場合すぐ学級崩壊になると言う人がいる。しかし新任教師に、最近はほとんどのクラスにいる発達障害の子や「学習拒否」の子、深刻ないじめなどを一人で解決せよといってもどだい無理な話だ。それはまさにチームとして対応すべきこと。ベテランだって実際の対応は難しい。

特別に難しい事例の解決力や、見事な発問や指導言など名人的な技量を若手教師に求め、それに関する講座や教育書が拡がるというのにはやや疑問がある。若手教師は、「普通の教師」としての基礎的な技術をまず身に付けるべきだ。発問は極めて大事だが、名人的な発問など、何回かはあっても1年を通して全ての教科でなんてありえないことだ。

先日、ある小学校で、採用2年目の教師が、授業が始まっても教科書も開かない二人の「学習拒否」の子の扱いに苦労している様子を見てきた。二人のことで彼は夜も眠れないほど悩んでいるという。それに対して、問題児だけに関わりすぎると必ず学級崩壊が起こるから「スルーする技術」を持つべきという人がいる。

このアドバイスはちょっと無責任だ。教師として学習に参加しない子のことで悩みいろいろ工夫するのは当然だ。先輩が言うべきは「スルー」(っておかしな言葉だが)する技術でなく、そうした難しい子の事例を教えてやったり一緒に工夫したりすることだ。保護者との連携を含めて。解決の基本はチーム力だ。

若い教師に完全や失敗なしを求めるのはそもそも無理。むしろうんと失敗し悩んだ方がいい。それを先輩が、自慢話やお説教でなくアドバイスする。そもそも教育活動では、個々の事例は固有性が強く、どんなベテランの「極意」であっても一般化は出来ない場合がほとんどではないか。これに無自覚に、スキルやテクニックを振り回すのは問題だと思う。

若い教師がまずもって身に付けるべきは、授業法や学級づくりや生徒指導の基礎基本だ。教師の成長プロセスを見通して、それを「教師力のミニマム」として基準化するべきだと思う。ただし、チェックリストで10も20もばらばらに項目を並べるのでなく。

「教師力のミニマム」、初任段階でぜひとも身に付けるべきは、単純化すると、各授業、単元、教科で何を教えるかという「課題の明確な押さえ」と、子どもをよく観察してそれをどう伝えるかの基礎的な技術だと思う。その上で、子ども理解に関わって、学習の定着の把握を加えた方がいい(指導と評価の一体性)。これらのことは、100人初任者がいれば、少なくとも7,8割が習得できるものでなければならないだろう。

学級経営は極めて重要だが、「日々の授業の中で」つかみとる子ども理解、子どもとのコミュニケーションの基礎的技術が優先されるべきだ。高度な学級経営や深刻ないじめ解決などは、一定の経験を経なければ難しいのが普通ではないか。それはチーム力で補い、かつ先輩が導く。基本は、まずは一人前の教師として一人立ちさせることだ。

その上で、しかし、経験だけに頼ってはならない。自分の実践に応じてどんどん教育書などを読むべきだ。そもそも教師力というのは、教育に関する「知識と技能とが合体したもの」であって、知識なしの技能はありえない。かつ、いまは、誰もが踏まえるべき発達障害やITなど、必要な知識は多いし高度でなければならない。

初任段階では大変だろうが、指導書や実用書ばかりではいずれ息切れする。現代の教育課題に確固とした見識と実践力を持つのには、時に教育論や教育学研究に立ち返る必要がある。それが「探究心」と「応用力」「課題解決力」を形成する。これがないと、長い目でみて「ルーティン教師」になって「のびしろ」が無くなってしまう。だから、中堅も問題だが、初任時期、初任後5年間くらいの教師力の形成のあり方が大事なのだ。
関連記事
テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

Tag:教育  comment:5 

Comment

笹木 陽一 URL|
#- 2013.07.29 Mon10:09
 本質的な指摘、本当にありがたいです。ありがとうございます。長くなりそうな気持をおさえつつ、私も「ちょっとだけ」書きます。

 人間塾MLに添付した文書もお目通しいただいたようで、それと今回のアドヴァイスを重ね、恥ずかしい限りです。いずれにしても、村山先生から学会で直接庄井先生にご紹介いただいたあの日が、大きな転機となったのだと、振り返っています。来月にも庄井研究室を訪ねて、今後の研究についてアドヴァイスいただけることになっています。

 福井雅英先生の言葉を借りて、自らを「現場研究者」と見なすようになりました。しかし「現場に研究者はいらない」との暗黙の文化(雰囲気)は、如何ともしがたく存在します。教師が実用書に走り(または書き)学術書を読まないこと。一方で研究者が現場実践を軽く見て、教師が書く実用書を読まないこと。残念ながら「実践知と理論知との結合」という課題意識は、まだまだコンセンサスを得ているわけではないように感じます。

 「実践に根ざした新しいタイプの研究成果を」、との期待に応えられるかはわかりませんが、まずは「対象と方法」を明確にした「凝縮性」のある論文を目指して、学会論文を仕上げてみたいと思います。アカデミズムの流儀を身につけるにはちょっと歳を取りすぎましたが、学部・大学院での躓きを取り戻すべく、20年来の実存的な問いに少しでも応える研究となることを自らに課したいと思います。やはり「ちょっと」では応答できないテーマでした…。またも長くなったことをお詫びします。コメント欄での公開対話はここまでとさせていただきます。お忙しい中、私の思いつきに誠実に応えてくださったことに改めて感謝いたします。

 吹奏楽コンクールまで残り一週間となりました。今年はバーンスタインの「キャンディード」にチャレンジします。終曲の「われらの庭を耕そう」にある様に、まずは目の前の現実(育ちつつあるこどもたち)と向き合い、最善を尽くす(We will do our best we know)ことが何よりも求められます。音楽と共に生きる幸せをかみしめつつ、楽しく暑い夏を乗り切りたいと思います。では失礼します。ありがとうございました。
村山紀昭 URL|実践知に基づいた新しいタイプの研究成果を!
#- 2013.07.28 Sun23:19
笹木さん、

ちょっとだけ、感想を。

「教師の協働性」ですが、協同学習などの論理を学校の教師間にそのまま延長できるかどうか、吟味が必要でしょうね。僕もまだ明確ではないのですが、学校という「組織」と「機能」のあり方を抜きには難しい気がしています。

でも、教師論として、個人の属人的な資質から協働性へ、の視点が共有できそうで、喜んでいます。

あと、笹木さんは十分自覚していると思いますが、学術研究の場合、やはり「拡散思考」はまずく、対象と方法の絞り込みが大事です。研究の拡がりにつねにめぐばりしておくことは大事ですが、メインの主題と副次的な拡がりとは区別した方がいいと思います。中原さんの学習経営論や山崎さんのライフコース論は、面白いけれど、笹木さんの研究課題にとっては副次的でしょう。

研究の場合、凝縮性というのが求められます。対象をどこまで分析し、掘り下げ、これまでの研究とどこが違うのかを明確にしなければなりません。要するに分析的思考が大事です。

で、いろいろな研究や論者の引証には、ご注意を。下手に本文に散りばめますと趣旨が不明確になります。注を活用するといいでしょう。

このテーマで、自分が分析し新たに提示したいものは何かを徹底することが大事です。くれぐれも、学術研究には、「対象(主題)と方法」が基本であることにご留意のほど。その際、臨床教育学の方法が、まだまだ開発途上であることも頭に置いて。庄井さんも、物語とかナラティブアプローチなどの手法を実際に使うのは限定的にしかなさっていないのではないでしょうか。彼の多くの論文は、ごく普通のアカデミックな分析総合の論文だと思います。

いずれにせよ、笹木さんが、不登校や生徒指導などの分野で、実践に根ざした新しいタイプの研究成果(実践知と理論知との結合)を生み出されるよう大いに期待しています。
笹木 陽一 URL
#- 2013.07.28 Sun19:33
 コメントに応えていただきありがとうございます。「教師の協働性」について、理想を対置するだけでは済まないとの指摘に、強く膝を打ちました。「課題を限定し一定の範囲で確実に協働するあり方」というのは、横藤先生がいつも仰る「フレームワーク」の発想ですね。協同学習(cooperative learning)の基本理念でもあります。
 これまで様々な「学び合い」に関心を寄せつつ、学習者(生徒・こども)間の「協働・協同の学び」を追求してきましたが、大人の学び(成人学習andoragogy)にも視野を広げて、社会心理学(グループダイナミクス論)や組織社会学、経営科学などにも関心が向かうようになってきました。東大の中原氏らが提唱する「学習する組織learning community」の発想も示唆に富みます。
 臨床教育学の領域で「教師の自己物語の変容」というテーマを得て、庄井先生と協働して論文を書くことにしましたが、単に「セルフ・ナラティヴ」を論じることを越えて、「他者との協働を通した自己理解の深まり=教師としての成長」について何らかの研究的知見を提出できればと考え、あれこれ文献に当たっているところです。以前ご紹介いただいた山崎氏の「ライフコース」研究も参照する必要がありそうです。
 またもペダンティックな拡散思考で、さらに混乱を深める可能性が大きいですが、今回の先生の記事から、今後の研究の方向性が見えてきました。今後も議論にお付き合いいただけることを楽しみにしたいと思います。ありがとうございました。
村山 URL|教師の協働性
#- 2013.07.27 Sat17:16
笹木さん、丁寧なコメントをありがとうございました。

教師の資質能力について、単に個人レベルではなく、教師の協働性ないし学校組織の中で考えるというのは、この半年くらいの僕の視点の大きな変化です。福井大では省察とともに当初からこれが大きなテーマになっていて知っていたんですが、ようやく僕の頭の中にきぱっと位置を持ってきました。

「「チームになろう」というかけ声そのものが、新たな抑圧を生む構造がある」との指摘は、その通りと思いますが、組織というものはいくら「官僚的な空間」が優位を占めていようと、あらかじめ純粋な理想型をそれに対置するだけでは済まないもので、種々の同調圧力のもと(およそ組織というものにこうした側面ゼロを想定することは無理でしょう)にありながら、協働性を多様に効果的にどう形成していくかが課題かなと思っています。

教師間の「支えあう温かな関係性」「仲間と支え合う関係性」は理想ですが、おそらく実際には純粋な形ではありえないものではないでしょうか。まだよく分かりませんが、ある程度課題を限定し一定の範囲で確実に協働するあり方をどう学校組織として作っていくかが課題なのかなと思っています。
笹木 陽一 URL
#- 2013.07.27 Sat14:06
 遅ればせながら、コラム含めまとめて記事を拝読し、コメントを残しておきたくなりました。目標・計画・会議の整理・精査については、全くその通りかと思います。「教師力」の二つの側面は、「属人性」と「同僚性」と言い換えられるでしょうか。これらが両輪で機能するというのは全くその通りで、堀氏が『教師力ピラミッド』で展開している論旨とも重なるのでしょう。その上で「同僚性=チーム力」といった時のその中身が問われているように感じます。
 個人の資質・能力は具体的なスキル・テクニックに還元しやすいので、ある程度のリストアップが可能でしょうが、「チーム」という言葉で捉えようとしている教師集団の関係性は、実はもっと複雑で多様であり、さらにいえば、関わることで各個人がディスパワーされるような人間関係の負の側面(硬直した縦の関係・遠慮し合って本音を出し合えない横のつながり…)を内包しています。言い換えれば、日本的な「同調圧力」が支配する官僚的な空間においては、「チームになろう」というかけ声そのものが、新たな抑圧を生む構造があるのではないかということです。
 私はゴールやタスクを設定し、メンバーで共有しつつ、それに向かって各々がそれぞれの多様性を担保しながら、ゆるやかにつながり合って有機的に機能するような組織イメージを持っていますが、残念ながら説明責任におびえ萎縮している多くの現場においては、なかなかそういった組織力が実現することはありません。上述の様な組織イメージ(私の理解では、ドラッカー流のマネジメントもそれに重なります)を持った管理職もいらっしゃるのでしょうが、まだまだ少数派だといわざるを得ません。
 それでも現場の現実は日々続きます。先生が仰るように、多様で困難を極める教育課題を「一人で解決」することは構造的に不可能です。では何ができるのか。私は自分の現場で「支えあう温かな関係性」を研究の視点に据え、生徒に求めるだけでなく教師間にこそ「仲間と支えあう(ピア・サポート)」が必要だと、機を見て発信し続けています。
 教育における関係性(教育関係論)が、新たなリサーチ・クエスチョンとして立ち上がってきました。「時に教育論や教育学研究に立ち返る必要がある」との指摘に、強く同意したいと思います。現場の困難を解決する糸口を見つけるためには、教師が不断に現実から立ち上がる問いを受け止め、応えを求めて研究的実践を積み重ねるしかない。まさに『創造現場の臨床教育学』(田中・森・庄井編 2008)が求められているのでしょう。中教審答申の言う「学び続ける教師像」の核心も、それに重なるのではないか。そんなことを考えた次第です。
 いつもながらの長文で失礼しました。こちらも「断想」でしかありませんが、書きとめておく機会を頂けたことを感謝いたします。9月の教育人間塾でお会いできることを楽しみにしております。ではご自愛の上、健やかに夏をお過ごしください。失礼いたします。
comment form
(編集・削除用):
管理者にだけ表示を許可
プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

最新記事
検索フォーム
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。