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教員の資質能力の向上のために ー 修士レベル化の可能性(上)

 [ 昨年6月以来、中教審の特別部会で、修士レベル化を軸に教員の資質能力向上が議論されています。現在そのワーキンググループがつくられ年度内の答申案をめざして検討されていますが、その一委員として、自分なりに考えていることをまとめてみました。言うまでもなく、部会やワーキンググループの見解そのものではありません。
 なお、この文章は、11月23日に都留文科大学で行われた教職員向けの講演のレジメに手を加えたものです。]     

1 なぜ資質能力の向上か


 教師の資質能力の向上はさまざまに論じられます。まず、なぜどういう視点からこれを論ずるかを検討しておかなければなりません。私見では3点あります。

1)社会と子どもの変化で、教職が複雑化・高度化してきている。子どもの多様化、保護者・地域社会との関係の変化、知識基盤社会と高学歴 社会、高度情報社会、国際化等。

 その中で、子ども好き、真面目、熱心、尊敬されるといった「伝統的教師像」が成り立ちづらくなってきました。このことは、50代教師で子どもの変化に対応できず早期に退職する人が増えたり、教頭校長志望者が減り希望降任者が増えるなどの現象に現れています。

2)今後の教員の年齢構成の大きな変化。10年間で公立小中の3分の1弱(20 万人)が退職予定。このまま下手をすると、学校が大量の経験不足の若手教師と少数の多忙な中堅教師からなることが予想されます。

 なお、日本で教師の資質能力を論ずる場合、教師が巨大な集団であることに留意が必要です。平成22年度ー幼11万、小42万、中25万、 高24万、特別支援7万の計110万人、内公立小中65万、私立 小中2万、公立高18万、私立高6万。この中で、65万人を数える公立小中学校の教師が比重の上で大きいことも無視できません。


3)学校の小規模化に伴う教師の協働性の弱体化。これは案外重視されていませんが、学校の実際の中では非常に深刻な問題です。これまでのように、学校の中で先輩教師のリードによって若手教師が育つということが成り立ちづらくなってきているのです。この点での学校ごとの差が激しく、最近ときどき、「最初に勤める学校の当たり外れはくじ引きのようなもの」と言われます。


4)さらに、社会の変化は教師志望の学生にも現れており、これまでの養成システムではスムースに育たなくなってきています。教職志望の学生は、大学入学時点からいまの若者のいくつかの弱点(例えば学ぶ力やコミュニケーション能力の減退など)を抱えています。
 自分の経験でも、20年くらい前までの教師志望の学生は、学生時代教師になるための勉強をそうしていなくてもパワーがあり、現場に入ってから腕を磨いていっていましたが、最近は採用時点でも自信がなく、早々に辞めてしまう教師もけっこういます。

 11月8日文科省が発表した、公立校の新人教員2万6千人の内 288人が1年以内に退職で10年前の8.7倍、自己都合58%、病気35%で病気のほとんどが「心の病」という実態をどう見るかはいろいろでしょうが、新任教師が「ひ弱」になってきているのは事実でしょう。


 最近知り合いの札幌市内のある校長さんからこんなメールを受け取りました。「教育大学を出ていても、教育実習を経験していても、4月当初、新卒教諭には何もできません。そのためサポートしなければ、確実にその学級は崩れていきます。子どもが荒れていき、保護者が騒ぎだします。」

 以上のように、いまの教師の資質能力の問題は、もはや教師個々人の問題範囲を超えているのです。

5)資質能力問題への視点
 で、教師の資質能力の問題について、次のような視点をまずは共有する必要があると思います。

(1)現在の資質能力問題は、日本の大きな教師集団の総体としての今後のあり方を決する「構造的問題」である。
(2)であれば、個々の教師に資質能力向上のための研鑽を求めるだけでなく、教職生活全体にわたって、養成・採用・ 研修を一体として制度的に確実に向上を図る改革が必要である。
(3)なかでも、新人教師としての力量如何、その後の中堅としての自己成長がポイントであり、教職生活全体を見通しつつ養成に関わる者、採用後の研修に関わる者の責任と課題は大きく重い。

2 求められる資質能力と教師像


 ところで、そもそも教師の資質能力とは何でしょうか。しばしばその内容がきちんと確認されないまま資質能力向上が叫ばれますが、その吟味は議論の大前提として欠かせません。

1)教師の資質能力について、一般に、(1)「使命感、子どもへの愛情」、(2)「専 門家としての力量(教科指導、生徒指導、学級指導)」、(3)「人間力 (社会性、コミュニケーション力等)」を基本とし、さらに新たに求めら れる能力として、ICT、特別支援、環境教育、外国人生徒への対応などが挙げられます。

2)教師の資質能力については、まずもって諸要素の並列ではなく、その「重層的・構造的」理解と、教師の成長と教育課題の歴史的変化に関する「時間軸からの把握」が必要です。
 「重層的・構造的」というのは、先の3つの側面を相互のつながりをふまえて立体的にとらえることです。教師としての専門的力量つまりその知識と技能は、人間的素質の開発として発揮されますし、教師の人間力や人間性は教師としての専門的な知識と技能を磨くことなしには有効ではありません。また両者をいわばつなぐ形で、教育観と使命感が不可欠です。専門的知識と技能は、教職の強い自覚と教育観によって支えられなければ生きた力になりません。


 さらにこの3者は、単に個別の教師の生徒との1対1の関係で成り立っているのではありません。学校教育である限り、教育活動はつねに<教師ー教師>の組織的な活動つまりは学校の中でしかありえませんし、教師と生徒との関係も1対多とともに多対多の関係を含んではじめて成り立ちます。ここに、近年強調されつつある教師の協働性、子どもの学習の協働性の根拠があります。


 以上の資質能力の構造が、同時に教師個人レベルと教育課題に関する社会的歴史的変化の両方で時間軸の中にあります。教師個人は、自分の人間的資質を教師としての専門的力量を磨くことによって成長します。さらにマスとしての教師集団の力量は、不易な面を含みながら社会的歴史的な教育課題に対応し変化せざるをえないものです。

3) 教師の資質能力は、確固たる教育観に基づいた専門的な知識・技能を、子ども・教師 集団との関わりの中で、自己の資質(人間力)の展開として日々の実践の中で具現化するもので、かつそれは、知識基盤社会という知の様式を大きく変える社会の中でたえず進化が求められるものとして存在しています。
 とすれば、資質能力のあれこれの要素をそのときそのとき強調したり新たに付け加えたりするのではまったく不十分であって、その不易の要素を基軸に置きつつ、いま知識基盤社会において「再定義」されなければならないのです。


 それはひとことで言うと、教室の中で子どもへの愛情いっぱいに知識の伝授に努めそれによって信頼と尊敬を受けていた伝統的教師像から、教師間の協働性をふまえつつ、子どもたちの協働的学習を確実に組織し、知識基盤社会で生き抜く力をつけて送り出すことによって新しい形で社会から信頼と尊敬を受ける専門職として「教職を高度化する」ことです。


 知識基盤社会では、医師や看護師、弁護士などの伝統的な専門職もそのあり方の「高度化」が必至になってきています。教師については、その専門職性が学校世界の中でしか見えづらいこと、かつ長い間そうした閉じた専門職性がそのまま信頼と尊敬を受けてきたことなどにより、あまり専門職としての社会的確立が叫ばれてきませんでした。しかしいまは、開かれた形でその専門職性を社会的に確立することなしに、教師への信頼と尊敬は回復されません。


 そしてそのためには、教師の専門的知識と技能そのものが、固定的にではなく、絶えず変化成長するものとしてとらえられなければならないのです。知識基盤社会においては、たとえ初等教育の段階であっても教育内容とその意味が社会的に大きく変化していますし、教育技術やスキルについても、子どもの変化の中で刻々と変わっていかなければなりません。それらは、現代社会の流動激しい変化を見抜く社会的洞察を通してはじめて得られます。そうした教師の資質能力の新しいあり方を、教師の高度の専門職性の基本的内容として明確にしていくことがいま求められているのです。

3 「ステップアップ型」免許制度


1)教師の資質能力を、資格の有無の点で社会的に「公証」するのが免許制度です。戦後日本の免許制度は、「開放制」と「免許状主義」を原則として実施されてきました。しかし、こ の「公証」つまり社会からの信頼感が揺らいでいます。


 その原因のひとつとして、開放制のもとでの免許状の「濫発」がときに挙げられます。例えば、昭和39年度の幼小中高等すべての学校種での免許状取得者は約5万人、そのうち採用者は3万3千人、それに対して平成17年度はそれぞれ約12万人、4万人と免許取得者が大幅に多くなっています。この数字を根拠に、一部で「国家試験化」の必要を主張するむきもあります。しかしこの数字自体、正確な吟味が必要です。
 まずは、この中の採用者は、翌年度の採用者数であって、取得後後年採用された者を含んでいません(それはかなりの数になると思われます)。


 さらに、学校種別に見ますと、小学校は取得者1万6千人に対して採用者5千人、中学校は5万人に対して2千人、高校は7万3千人に対して千6百人と、ギャップの大きな部分が中高、とりわけ高校免許に関するものであることに留意が必要です。幼稚園のギャップも大きいと思われ、これらは昭和40年代以降に進んだ私立大学等の急増の結果でもあるでしょう。


 いま学校教育には、不登校対応やティームティーチング、小規模クラス、地域連携などで多様な人材によるサポートが必要になってきています。そうしたことも考慮するなら、いま直ちに敢えて免許状主義を止めて国家試験化することについては慎重であるべきでしょう。かつ免許上の過剰を国家試験化することで量的にコントロールすることは一定の有効性を持ちますが、教師の「質」の向上に直接つながるものでないことにも留意が必要だと思います(1回のペーパーテストで教員の資質能力を見抜くことは至難です)。


 当面は、教職課程の課程認定や評価の厳密化をいっそう徹底していくとともに(これ自体量の一定のコントロールになりうる)、開放制のメリット(多様な人材の登用)をより生かす具体策(社会人からの転入をよりスムースに可能なようにするなどー後述)を現実化していくのが妥当だと考えます。

2)免許状の量的コントロールよりも、いま教師の資質能力向上の点から免許制度上検討すべきは、1と2で述べた、知識基盤社会における高度専門職としての教師の資質能力の向上と確立に役立つ免許制度の改革です。そのポイントは、資質能力の向上をめざして「学び続ける教師」の成長を支援する免許制度とはどのようなものかにあります。


 平成18年中教審答申は「学び続ける教師」の重要性を提起し、教職実践演習の必修化(教職課程の厳格化)と免許更新制、さらには新しい専門職大学院としての教職大学院の設置を具体化しました。しかしこれらだけでは、先の課題に応える構造転換にはなりません。免許更新制には「学び続ける教師像」のコンセプトが含まれていますが、あくまでも消極的に資質能力維持を教師個人に義務づけたものに過ぎません。

3)そこで、現行の開放制と免許状主義を前提にしつつ教職の高度化を図るには、免許(資格)そのものを一回性のものでなく、ステップアップするものに変えることが考えられます。現行の免許は、1種2種の違いと上位免許上としての専修免許がありますが、それらはそれぞれ完結しており、ステップアップを想定して設定されたものではありません。
 教師のキャリアは、教師志望とその基礎的資質の獲得の段階(学部)から採用、そして入職後40年近い教師生活と長期にわたります。その一時期だけを区切って教師の資格を公証するのは、現在の変化の激しい知識基盤社会では到底不十分になってきているのです。

4)以上のように学び続ける教師として資質能力を向上していくことを促す免許制度としていま検討されているのが<基礎免許ー一般免許ー専門免許>というステップアップ型の免許制度です(ここで「ステップアップ型」と名付けているのは筆者個人の命名で中教審特別部会の公式呼称ではありません)。


 その際、<基礎免許>には学部、<一般免許>には「修士レベル」、<専門免許>には中堅リーダー養成が想定されています。中でも、学び続ける教師の資質能力向上に即した免許制度の中心は、<一般免許=修士レベル化>、その意味での専門職としての教師の社会的位置の高度化にあります。


 同時に、こうした免許制度は、教師の養成段階、採用段階、その後の研修段階とそれぞれ別々に議論されるのでは十全でありません。志望と養成の段階を含めて教師生活の全体にわたって、<養成・採用・研修>の仕組みを「一体的に」変えなければなりません。
 <養成・採用・研修>の連携についてはこの10数年繰り返し中教審答申等で強調されてきました。そしてとくに国立大学法人化前後から国立教育大学・学部ではかなりその自覚が高まり連携が強くなってきています。しかし、今回はその枠に止まるものではありません。まさに「一体化」が課題なのです。そしてその成否を決するのは、教育委員会・学校と大学との組織的連携です。

5)しかしこの免許制度の改革は、戦後初といっていいくらい大きな改革で、実現には難問がたくさんあります。改革のポイントである修士レベル化や専門免許に待遇上のアップを想定するのか、単に教師になる期間が長くなるだけだと大量退職期に教師志望者を大幅に減らすことにならないか、いつどの時点で<一般免許>取得を義務づけるか、場合によっては学校現場での大幅な人員増が必要になるのではないか、どう免許制度を変えてもそもそも大学の養成課程が信頼に足るものになっていないではないか、仮に修士レベル化を義務づけるとした場合受け皿となる大学院レベルの教育機関は用意できるのか等々。


 これらの疑問には、「はじめに修士化ありき」ではなく丁寧に解決方向を検討する必要がありますが、大事なことは、個々の論点の解決だけでなく、先述したような高度専門職としての教師の資質能力向上について、国民的な世論の期待と支持がなければ事は絶対に成就しないということです。中でも、巨大な職能集団である教師集団自身が、保護者や地域の人々と連携しつつ自らの問題としてこれについて明確な意思表示をすることが必要でしょう(この点で着実に自らの地位向上を推進しつつある看護師協会等の努力は注目に値します)。さらに、国づくりの基本として積極的に教師の資質能力向上をめざす強い政治的リーダーシップが不可欠です。(続く)

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Tag:教育  comment:2 

Comment

村山紀昭 URL|Re: コメントありがとうございました。
#- 2011.12.04 Sun21:58
あれっ、コメント欄使わない設定にしてあったつもりなんですが、使えるんですね。表に出ない設定になっていたようです。初心者で失礼しました。

改めてコメントありがとうございました。でも、コメントいただいた論点は、後半の具体的な制度設計に関わるもので、申し訳ありませんが、上記のコメントについては後日制度設計のところを読んでいただいた上で再度ということにしてください。

で、今回の分についてですが、資質能力論としてはいかがでしょうか?ご批評いただければありがたいです。

コメント欄、怪しげなのをシャットアウトするつもりだったのですが、当面オープンに設定を変更しました。
microcerasus URL|
#l0GyehtU Edit  2011.12.04 Sun21:46
修士とはいったいどういう力を持った人なのかを規定する必要があると思います。単に「箔を付ける」だけでは十分ではありません。私の勤務校にも教職大学院生が来ていますが、彼らの2年間が資質の向上に役に立っているかどうかは私には疑問です。

それだったら、学部を卒業して2年間実地で働いた方がよいように思います。
修士を必要とするなら、実地で2年間働いた以上の専門性(もしくは技能)を得ることが必要だと思います。

私は今までに学歴を聞かれたことは一度もありません。教員の資質は学歴(修士)かどうかとは関係ないのだと思います。修士レベルになったからといって、「社会と子供の変化」に対応できるかどうかは別問題です。

私がアメリカで講演をしたとき、研修24時間相当(24counting professional education hours)などというクーポンが送られてきたことがあります。アメリカの先生は講演すれば実質時間の2倍、聴講は1倍のように換算され、このクーポンで研修が認められているようです。

飛行機のパイロットも飛行何時間などというのがベテランの証だといわれているそうです。そうした、研修の積み重ねを大学院等が認定して「修士相等」とするのがいいように思います。その際にはいわゆる修士の免状は出さずに、教員免許証を「一般」と書き換えてあげて認定するのがいいように思います。
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プロフィール

村山紀昭

Author:村山紀昭
長い間、北海道教育大学で哲学を教え、1999年から私大を含めて10年間学長をつとめました。
退職後、教育と福沢に関する月1回の勉強会「教育人間塾」を続けるとともに、文科省の委員会委員や北海道教育委員会のアドバイザーとして、教育政策とくに教師教育政策に関わってきました。
平成26年4月からはフリーなスタンスで教育や福沢について思索する日々です。
趣味は音楽とオーディオ、クラシックと初期ジャズが好き。

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